気ままに

大船での気ままな生活日誌

歌人 太田水穂のこと

2010-05-09 09:02:27 | Weblog
この前、信州の山田温泉に泊まったとき、宿の近くで太田水穂の歌碑をみつけた。よく行く東慶寺に水穂のお墓があるので知っているのだ。あれ、この辺りの生まれかなと思って、帰ってから調べたら、信州の生まれではあるが(現塩尻市)、山田温泉で産湯をつかったわけではなかった。山田温泉に遊んだ時にいくつか和歌をつくったが、そのひとつが歌碑となっている。

この夕べ外山をこゆる秋風に椎もくぬぎも音たてにけり
椎の木は常緑樹の厚い葉で濃くこもる音、くぬぎは落葉樹の薄い葉でざわざわとした音が秋風により聞こえてくるとゆう歌である。と、あとでみた本の解説があった。

山田温泉の春風は、落葉樹はまだ芽吹かず、シンプルな風音だった(笑)。


帰ってから、まず、東慶寺を訪れた。高見順のお墓のある一番上の墓地にある。妻の歌人、四賀光子もここで眠っている。墓石にも四賀光子とあるから、夫婦別姓のはしりだろうか(笑)。

墓石の左側に水穂の歌碑がある。
何事も持つべきならし何事もかつかつ思う程は遂げしに

右側に光子の歌碑が。
九十年生き来しわれか目をつむれば遠汐騒の音ぞきこゆる



四賀光子は本堂前にも大きな歌碑がある。
流らふる大悲の海によばふこゑ時をへだててなほたしかなり



鎌倉中央図書館で、水穂の養子、歌人、太田青丘著”太田水穂”を読み、いろいろなことを知った。30代はじめまで長野県で学校の先生をやり、その後、小石川や田端に住み、鎌倉には、64歳から80歳まで住んだとのことだ。太田道灌の子孫ということで、ぼくと同じく芭蕉と良寛さんが好きだったらしい。東京時代、親族の太田喜志子が同居していて、水穂宅を訪れた若山牧水にみそめられ結婚したそうだ(これは、どうでもいい話だが、ミーハーなので;汗)。で、鎌倉時代の住居を探索した(汗)。

まず、ご先祖の太田道灌の居館の地から。現在、英勝寺になっている。太田道灌の曾孫・康資の娘で、家康の側室の一人、お勝の方が出家し英勝院と号した。そのお寺だ。水穂が終の棲家に鎌倉を選んだのも、こうゆう関係があるのかもしれない。英勝寺は彼岸花がきれいですよ。


さて、ご本人の住居は、この英勝寺を通り越し、横須賀線をくぐるようにして亀ヶ谷切り通しに向かう道を進む。小林秀雄も住んだことのある空き地(なかなか家が建たないな)を通りすぎ、以前、鉱泉の宿があった(現在はマンション)の向かい側にある。現在、どなたかが住んでいる。ながめのいいところで、当時は由比ヶ浜まで見渡せたらしい。

この向かい側に住居があった。ここから、北鎌倉に出るには急坂を登らなければならないが、ぼくのお好みの散歩コースだ。


旅先の歌碑から、いろいろのことを知ることができた。
。。。。。

桜の幹の空洞に巣をつくったミツバチは元気ですよ。ただ、あまり長くみていると、頭の回りをぶんぶん廻り、帰れというサインを送られます(汗)。

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