気ままに

大船での気ままな生活日誌

長谷川等伯と狩野派 出光美術館

2011-11-07 08:55:11 | Weblog

以前、東博の”巨匠対決”で長谷川等伯は狩野永徳と対決させられたが、今回は等伯は狩野一門と対決させられている(笑)。でも、それはタイトルだけで、展示室に入ると、等伯は3点だけで、残りは長谷川一門の作品だから、正確には、等伯一家と狩野一家との因縁の対決(笑)といっていい。有名な話がある。

能登の七尾で仏画を描いていた等伯は、養父母の死を機に、33歳で上洛する。京には4歳年下だが、永徳が権勢を誇っている。等伯は果敢に狩野一門に挑戦状をたたきつける。とにかく、大仕事を貰おうと、大徳寺塔頭、三玄院に住職が留守中に無断に入り、桐の絵柄の入った襖に一気加勢に”山水図”描いたりもした。永楽との対決が頂点に達したのは、天正18年、等伯52歳のときである。内裏の”対屋”の障壁画の注文を受けたのを、永徳が激怒し、裏に手を回し、取り消さしてしまうのである。この心労がたたって、その直後に、永徳は48歳で急逝してしまうのである。そして、じわりじわりと”等伯一家”はシマを増やしていくのである。つい等伯が、若き日の清水次郎長にダブってきて、こんな書きぶりになってしまった(汗)。

等伯一家と狩野一家の因縁の抗争は、出光美術館の中でもその痕跡があった。メインステージを飾る”竹虎図屏風”。右隻には前かがみの虎、そして左隻には、可愛い仕草の猫のような虎。その左隻の隅に探幽の認印が。この作品に本人が加筆したこと、そして、ななななんと、これは、長谷川等伯の作ではなく、中国の周文の作だと鑑定している。現在では等伯の真筆と認定されている。先祖の永徳親分の敵討ちをしたということだろう。下の写真は右隻である。


さて、等伯は水墨画の牧谿(もっけい、13世紀後半)に私淑していたことはよく知れているが、。ここでも、”心のお師匠さん”牧谿の作品が二点展示されている。重文の”平沙落雁図”と”叭々鳥図”。中国ではほとんど無視され、日本では最高の墨絵画家と遇されている、というのが面白い。等伯の”竹鶴図屏風”に出てくる鶴は、牧谿の”鶴図”の鶴とそっくりである。でも、背景の竹林が、濃い墨から消えいるような淡い墨までの濃淡で描かれていて、うつくしい。名作”松林図屏風”を想わせるようだった。ぼくの、今回の一番のお気に入り。


第1章が”狩野派全盛”で、2章は”等伯の芸術”。そして、3章は”長谷川派と狩野派/親近する表現”、4章で”やまと絵への傾倒”という展示構成になっている。大きな屏風が主体なので、たとえていうと、広い新宿御苑の巨木を観て歩いているような、ゆったりした気分になった。どの屏風も良かったが、3章の狩野重信の”麦・芥子図屏風、4章の宇治橋紫舟図屏風(筆者不詳)、柳橋水車図屏風(長谷川派)など好ましく思った。

もうひとつ、近くの、ロートレック展にも寄るつもりでいたが、中途半端な時間になってしまい、桜田門がみえる休憩室でゆっくりした。

コメント
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