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令和・古典オリンピック

令和改元を期して、『日本の著名古典』の現代語訳著書を、ここに一挙公開!! 『中村マジック ここにあり!!』

歴史編(7)浜松が枝を

2009年07月31日 | 歴史編
【掲載日:平成21年6月24日】

磐代いはしろの 浜松がを 引き結び
           真幸まさきくあらば またかへり見む

【有間皇子の無念を宿すかの藤白坂】


皇子みこは 紀の湯へと 引き立てられて行く
皇太子 中大兄皇子なかのおおえのおうじの 尋問が待つ
赤兄あかえめられた)
無念の思い かたない 有間皇子ありまのみこ

時に 斉明天皇四年(658) 
中大兄皇子は 天皇と 紀の湯に 
密命を帯び 皇子みこを おとなう 蘇我赤兄そがのあかえ 
赤兄は言う 
皇子みこ 今の世を どう見られる
 民に 不満が つのっております
 さきごろ お亡くなりの 父君孝徳帝は 皇太子に殺されたも同然 
 留守の今こそが 好機」 
有間皇子は 乗ってこない 
赤兄 更に言う 
「今の政治まつりごとに 三失あり
 一に 大いに倉を建て 民の財を・・・」 
皇子みこ 弱冠十九歳
狂気よそおいつつも 胸に秘めた思いに 火が
紀の湯へ 早馬は飛ぶ 

無実信じるか 有間皇子ありまのみこ
あきらめ果てるか 有間皇子
ここ 岩代いわしろ地霊ちれいに 祈るは何

磐代いはしろの 浜松がを 引き結び 真幸まさきくあらば またかへり見む
《松の枝 結んで祈る 無事ならば 礼に寄ります 岩代いわしろの神》
                         ―有間皇子―(巻二・一四一)
家にあれば に盛るいひを 草枕 旅にしあれば しひの葉に盛る
《家ならば うつわに供えて 祈るのに 旅先やから しいで供える》
                         ―有間皇子―(巻二・一四二)

尋問を 無事終えた有間皇子みこ 待つは 藤白坂の悲劇



<藤白のみ坂>へ


<磐代>へ


<結び松の碑>へ


歴史編(8)畝傍を愛しと

2009年07月30日 | 歴史編
【掲載日:平成21年6月25日】


香久山かぐやまは 畝火うねびしと 耳梨みみなしと あひあらそひき
     神代かみよより かくにあるらし 古昔いにしへも しかにあれこそ
          うつせみもつまを あらそふらしき

【山の辺の道から大和三山を望む
左より香久山・畝傍山・耳成山】

斉明天皇七年(661)一月 
大和軍は 難波なにわを船出
海路 西を目指す 
半島情勢 不安のさ中 
同盟百済 救援のための 新羅征討軍である 

中大兄皇子なかのおおえのおうじは 船上にいた
播磨の国 印南郡いなみのこおり沖合に差しかかる

「おお あれが 印南国原か 
そう言えば 昔語むかしがたりにあったぞ
大海人皇子おおあまおうじ 知っておるか」
「たしか 出雲の阿菩大神あぼのおおかみとか申しました
 三山さんざん争いのうわさ聞き 仲裁に 駆けつけたのは
 中止と知って 引き返したのが ここ印南の国です」 
香久山かぐやまと 耳梨山みみなしやまと ひしとき 立ちて見にし 印南国原いなみくにはら
《香久山と 耳成山が(畝傍山取りあいして) 揉めたとき 
 (出雲の神さん)ここまで来たんや 印南いなみの地まで》
                         ―天智天皇―(巻一・一四)

「昔は 山でも取りあいか 
今 『妻』取りあいするのも 仕方なしか」
香久山かぐやまは 畝火うねびしと 耳梨みみなしと あひあらそひき
     神代かみよより かくにあるらし 古昔いにしへも しかにあれこそ
          うつせみもつまを あらそふらしき

《香久山は 畝傍うねびのお山 可愛かいらしと 耳成さんと 喧嘩した
     ようあるこっちゃ 昔から 今もするんや 妻あらそいを》 
                         ―天智天皇―(巻一・一三)
中大兄皇子なかのおおえは 大海人おおあまをチラと見て にがく笑った
大海人皇子おおあまおうじは 入日に映える雲を見ていた
「兄上 あの雲 我らの 前途のえを見るようですぞ 一首 されませ」
わたつみの 豊旗雲とよはたぐもに 入日し 今夜こよひ月夜つくよ さやけかりこそ
なびぐも 夕日射し込み 輝いて え月照るで 間違いなしに》
                         ―天智天皇―(巻一・一五)

船は 何事もなく 夕日を追って 一路西へ



<大和三山>へ


歴史編(9)熟田津に

2009年07月29日 | 歴史編
【掲載日:平成21年6月26日】


熟田津にきたつに 船乗ふなのりせむと 月待てば
           しほもかなひぬ 今はでな


半島は 混乱を極めていた 
百済 新羅 高句麗 三国の対立 
かてて加えて 唐が 高句麗討伐に失敗した隋に 取って変わる 
唐は その強力な軍事力を背景とし  
半島へと勢力拡大 
斉明天皇六年(660) 
ついに 百済が 唐・新羅連合軍の手により 滅ぼされた 
復興を目指し 百済遺臣が 同盟国倭国に 援助の要請 
倭国は これに応え 新羅征討軍を組織・出陣 
中大兄皇子なかのおおえのおうじを 総指揮官とし
大王おおきみ斉明の同行を仰いでの出兵は
倭国の命運を賭けてのものであった 

【熟田津候補地・松山市の和気堀江海岸】

斉明天皇七年(661)一月 
難波の津を出た 大和軍は 西を目指す 
やがて 
船団は 伊予の国にいたり 
ここ 熟田津に停泊していた 
石湯いわゆ行宮かりみやでの旬日じゅんじつは 戦備いくさぞなえに費やされる

皇太子は 大海人おおあまを伴い 熟田津の浜にいた
皇子みこ そちは 星占ほしうらに通じていると聞く
 どうじゃ 船出の好機を 占ってみよ」 
じっと 星を見据えていた 皇子みこ
「吉は 明後日 月の出とともの出発いでたち
 夜の航行になりますが 潮の流れが抜群です これ以上の好機はありません」 

軍船の準備は 整っていた 
額田王おおきみ 月を 呼ぶのじゃ
 そちの 霊力をもって 潮を叶える 月を呼びだすのじゃ」 

熟田津にきたつに 船乗ふなのりせむと 月待てば しほもかなひぬ 今はでな

熟田津にきたつで 月待ち潮待ち 船出ふなで待ち きた きた 来たぞ 今こそ行くぞ》 
                          ―額田王―(巻一・八)

額田王の朗唱が 合図となった  
船団は 一斉に 月夜の海へ 



<熟田津>へ


歴史編(10)雲だにも

2009年07月28日 | 歴史編
【掲載日:平成21年6月27日】


三輪山を しかも隠すか 雲だにも
          こころあらなむ 隠さふべしや

【初瀬川畔からの三輪山の眺め】


天智称制六年(667) 春 
新たな都 近江大津へ 湖畔の大宮処へ 

白村江はくすきのえの大敗を受け 
 要害の地と定められた新都 
  遷都の列は 延々とつづく 
   輿こし 馬 徒歩かち
それぞれの 歩みは おそい 

幾重にも重なる 平城ならの峰々
 春霞に うすく裾引き 
  うちつづく 道の隈々くまぐま
   若草の萌えたつ 川べり 
こころ 浮き立つ 春なのに 

住み慣れた 飛鳥の地 
 思い出深い 里の山川 
  二人心通わせた 宮の森陰 
舎人とねりらは うつむいて 進む

額田王おおきみよ 歌だ」
中大兄なかのおおえの声が 響いた
「新都へでたつ 寿ことほぎの歌だ」

沈鬱ちんうつな列のあゆみを にがく思う大兄おおえ
額田王ぬかたのおおきみに 命じた

旧都への思いに 沈んでいた額田王おおきみは ハッとした
(われは 歌人なり 
  みなの気持ちを 鼓舞するのが役目 
   ・・・されど いまは そのときではない 
    みなの思いを汲み その心を歌にする 
     それでこそ みなは付いて来る 
      これこそ大兄おおえのため)

味酒うまざけ 三輪みわの山  あをによし 奈良の山の 
  山のに いかくるまで   道のくま いもるまでに
    つばらにも 見つつ行かむを  しばしばも 見けむ山を 
      こころなく 雲の かくさふべしや

《三輪山 奈良山 遠ざかる 
  道まがるたび 隠れ行く 
    見つめときたい いつまでも 
      振り向き見たい 山やのに 
        心無い雲  隠してしまう》 
                         ―額田王―(巻一・一七)
三輪山を しかも隠すか 雲だにも こころあらなむ 隠さふべしや
《あかんがな うちの気持ちを 知ってたら 雲さん三輪山 隠さんといて》 
                         ―額田王―(巻一・一八)
額田王おおきみの真意を知らず
大兄おおえはひとり 唇を噛む




<三輪山>へ


歴史編(11)茜さす

2009年07月27日 | 歴史編
【掲載日:平成21年6月29日】


あかねさす 紫野むらさきの行き 標野しめの行き
          野守のもりは見ずや 君が袖振る

【蒲生野は、水田の下に静かな眠りについている】


天智七年(668) 
都が近江へ変って一年余り 
遷都騒動も ようやく落ち着きを見せていた 
時は春 
ここ蒲生野がもうのでは 薬狩りが行われている

額田王ぬかたのおおきみは お付きの女官と共に 久方ぶりの 楽しみを味わっていた 

カツ カツ カツ 遠くに響くひづめの音
何気なく 仰ぐと  
あれは 大海人皇子おおあまおうじ
(あれ あんなに袖を振って わたしを誘っている) 
ふと 額田王おおきみは 二人の若かりし日を思った
(はしたないことを 人目もあるに 
 昔と変わらぬ皇子だこと) 

大海人皇子は 馬を近づける・・・ 
それを見やって 額田王おおきみは うたい懸ける
あかねさす 紫野むらさきの行き 標野しめの行き 野守のもりは見ずや 君が袖振る
《春野摘み 野守見るやん 行き来い きして うち、、向こて 袖なぞ振って》
                         ―額田王―(巻一・二〇)
近づく大海人 思わず 馬を止め 
微笑ほほえみかけながら うたい返す
紫の にほえるいもを 憎くあらば
人妻ゆゑに われ恋ひめやも

《そういな 可愛いお前に 連れ合いが るん承知で さそたんやから》
                       ―大海人皇子―(巻一・二一)
にっこりと 微笑み返す 額田王ぬかたのおおきみ

「ワッハハハ・・・」 
豪快な笑い声を残し 駆け去って行く大海人皇子 

蒲生野に 春の日差しが揺れている 



<蒲生野>へ


歴史編(12)秋山われは

2009年07月26日 | 歴史編
【掲載日:平成21年6月30日】


冬こもり 春さり来れば 
       鳴かざりし 鳥も鳴きぬ
              咲かざりし 花も咲けれど・・・ 


場は 色めきたった 
中大兄皇子なかのおおえのおうじが 額田王ぬかたのおおきみを呼べ と命じたのだ

先刻から 続けられている 「歌競うたきそい」
一方が 春をはやせば
他方が 秋をてる
春組が 花のはなやぎをでれば
秋組が もみじのいろどりたたええる

集うは 「漢詩」読みの上手じょうずばかり
勝ち負けの いずれは さすがに つけがた
判定は 額田王おおきみの「やまとうた」でとの
皇太子の いきな はからいである
ざわめきが しずまるのを待ち 額田王が ゆっくりとうたいだす

冬こもり 春さり来れば 鳴かざりし 鳥も鳴きぬ 咲かざりし 花も咲け・・・ 
春組は みのうなずきをかさねる

・・・咲けれど 山をしげみ 入りても取らず 草ふかみ 取りても見ず・・・
肩落とす春組 秋組「得たり」と手を打つ 

秋山の 木の葉を見ては 黄葉もみちをば 取りてぞしのふ・・・
秋組から「おおっ」の声 

・・・青きをば 置きてぞなげく そこしうらめし
一転 天仰ぐ秋組 「やった」と叫ぶ春組 

息を詰め 固唾かたずを飲む うたげの場
場の鎮まりを 静かに待った 額田王おおきみ
おもむろに 

・・・・・・秋山われは 
                          ―額田王―(巻一・一六)
一瞬静まり返った 宴席は やがて 万雷ばんらいの拍手に包まれた


≪冬ってもて 春来たら
   鳴けへんかった 鳥も鳴く 
      咲けへんかった 花も咲く 
 そやけども      山茂ってて はいられん
       草深いから 取られへん 
 秋山はいって 葉ぁ見たら
    紅葉こうようした葉は え思う
       けど青い葉は つまらへん               そこが かなんな 
 うう~ん・・・秋やな うちは 



歴史編(13)安見児得たり

2009年07月25日 | 歴史編
【掲載日:平成21年7月1日】


われはもや 安見児やすみこ得たり
         皆人みなひとの 得難えかてにすといふ 安見児得たり


天智天皇てんじてんのうは ご機嫌であった
宴席は 笑いに満ち 
座を埋める 官人らの 
酔いまぎれの 声が 大きい 
「そこの采女うねめ 大王おおきみの お声が掛からないようであれば わしが 面倒見ても よいぞ」 
「アハハハ あの采女は ダメじゃ だめ とんと おのこに気を懸けぬ」

鎌足は 渋面しぶつらで 杯を重ねていた
(有力な豪族から 寄せられた 采女 
 召す召さぬは 大王おおきみの専権じゃ
 官人ごときが 知ったことではないわ 
 采女に 手を出せば 首の飛ぶこと 
 知らぬでもなかろうに) 

「思いついたぞ」 
天皇てんのうの 声が響いた
「この席の采女 一番は どれだと思う」 
「思い わしに同じなら 下げ渡しても構わぬが」 
一同を 見まわす 天皇てんのう
座は 静まり返った 
「おう 白けたか 座興ざきょうじゃ 座興 誰ぞ 申してみよ」
せきとして 声なく 重苦しさが 立ち込める

眉根まゆねを寄せた鎌足 杯の手が忙しくなる
大王おおきみ たわむれが 過ぎますぞ
 名乗り挙げては 首が無いと みな承知) 

「わしの座興に 付いてれぬと 申すか」
天皇の 声が けわしくなった

ふらり  
鎌足が 立ちあがる 
天皇すめらみこと ワレは 安見児やすみこと ぞんずる」
言うや どっかと胡坐あぐらに組み 杯を突き出す

静かに 杯を満たす 安見児やすみこ

「ウワッハッハッハ・・・」 
「鎌足が言うたか ハハハ わしの 負けじゃ」 
つかわす 安見児を 約束じゃ」
「じゃが ばつがある 気持ち 歌にめ」

われはもや 安見児やすみこ得たり 皆人みなひとの 得難えかてにすといふ 安見児得たり
《わしろた 安見児ろた 誰もみな しいおもてた 安見児ろた》
                         ―藤原鎌足―(巻二・九五)

無骨でならす鎌足の 頬が赤い 

歴史編(14)すだれ動かし

2009年07月24日 | 歴史編
【掲載日:平成21年7月2日】


君待つと わが恋ひをれば
        わが屋戸やどの すだれ動かし 秋の風吹く



【犬養孝揮毫<簾動かし>歌碑・東近江市本町・市神神社】

天智八年(669)中臣鎌足 死去 
中大兄皇子なかのおおえおうじ 天皇即位の 翌年であった

大化改新以来の盟友 
自分のきさき 鏡王女かがみのおおきみを 正妻として下げ渡し
采女うねめ 安見児やすみこを 与えて優遇した
その死にあたって 
最高冠位 大職冠たいしょくかんに任じ
大臣の位 藤原の姓を授けた 

最も信頼すべき 相談相手を亡くし 
天皇は 近江大津宮での 政務に掛かりっきりであった 

久しく お越しはない 
額田王ぬかたのおおきみは 張りのない日々を 送っていた
(空は澄み 山は 赤や黄にもみちしている 
 もみち狩りの お誘いでもあれば 気も晴れように 
 そういえば 昔 前触れなしの突然のお越しがあった もしや そんなことも・・・) 

君待つと わが恋ひをれば わが屋戸やどの すだれ動かし 秋の風吹く
《あっすだれ 動いたおもたら 風やんか あんまりうちが 焦がれるよって》
                         ―額田王―(巻四・四八八)

「えっ 風のせいと間違えたの 額田王おおきみ

風をだに 恋ふるはともし 風をだに むとし待たば 何かなげかむ
うらやまし 風と間違まちごて うちなんか 待つ人おらんで なげかれへんわ》
                       ―鏡王女―(巻四・四八九)
「鎌足公は 亡くなられたもの」 
鏡王女は さびしく つぶやく  


歴史編(15)木幡の上を

2009年07月23日 | 歴史編
【掲載日:平成21年7月3日】


青旗あをはたの 木幡こはたうへを かよふとは
        目には見れども ただに逢はぬかも




倭姫王やまとのひめみこ(後の倭大后やまとのおおきさき)は 
天智天皇の病床にいた 

わたしは 天涯孤独てんがいこどくであった
父も 兄弟たちも 母の顔さえ 覚えていない 
そんな私を 育てくれた 今は亡き 皇極こうぎょく女帝
あの方が られればこその 私
あの方の お力添えで 皇后の身に 
もっとも 天智帝の おきさきでは 血筋は通っていたけれど
でも なんという 運命の皮肉 
天涯孤独の 私にしたのは ここにられるかた
古人大兄皇子ふるひとのおおえのおうじ 弟たちを手に掛け 母は自害

でも今は このかたの 回復が ただ一つの願い

あまの原 振りけ見れば 大君おほきみの 御寿みいのちは長く あまらしたり
《空見たら 広がりずうっと 続いてる まだ安心や あんたの命》 
                         ―倭大后やまとのおおきさき―(巻二・一四七)

天智の回復は 捗々はかばかしくない
倭姫王やまとのひめみこは 許波多こはた神社に詣でる
皇極女帝勅願社での 平癒祈願へいゆきがん・・・
ふと仰ぐ 木幡こはた山 立ちのぼる雲に 天智の面影
青旗あをはたの 木幡こはたうへを かよふとは 目には見れども ただに逢はぬかも
木幡山こはたやま あんたの霊魂みたま ただようて 見えてるけども もうわれへん》
                         ―倭大后やまとのおおきさき―(巻二・一四八)


とうとう お亡くなりに なられた 
わたしには 忘れようとて 忘れられないおかた

人はよし 思ひむとも 玉蔓たまかづら 影に見えつつ 忘らえぬかも
ほかの人 忘れてもえ うちだけは まぶた浮かんで 忘れられへん》
                         ―倭大后やまとのおおきさき―(巻二・一四九)

夕べ 倭姫王やまとのひめみこは 湖畔にいた 
鯨魚いなさ取り 淡海あふみの海を 沖けて ぎ来る船 附きて 漕ぎ来る船
 沖つかい いたくなねそ つ櫂 いたくな撥ねそ 若草の つまの 思ふ鳥たつ

《琵琶湖をとおる 沖の船 岸辺漕いでく そこの船 どっちも ばしゃばしゃ がんとき あの人の 好きやった(霊魂たましい宿ってる)鳥 飛び立つやんか》
                         ―倭大后やまとのおおきさき―(巻二・一五三)

岸に寄る 波の音 しみじみと 倭姫王やまとのひめみこの胸に迫る

歴史編(16)去き別れなむ

2009年07月22日 | 歴史編
【掲載日:平成21年7月4日】

やすみしし わご大君の かしこきや 御陵みはか仕ふる 山科の 鏡の山に
 よるはも のことごと 昼はも 日のことごと のみを 泣きつつありてや
  百磯城ももしきの 大宮人は き別れなむ

【山科の鏡山陵とも呼ばれる天智天皇陵】

稀代きだいの英雄 ここに 死す
時に 天智十年(671)十二月三日 

大化の改新の口火を切り 
孝徳・斉明朝 皇太子として 実権を掌握しょうあく
豪族による合議体制から 天皇中心政治への道筋 
内憂外患ないゆうがいかんの日々
白村江はくすきのえの大敗
これを 機に 近江大津へ 遷都 
天智天皇として即位 
即位後五年 
四十六年の生涯であった 
弟 大海人皇子おおあまおうじとの 確執
大海人おおあまが 吉野に隠遁いんとんしたのは 二か月前
大友皇子に 後をたくしたものの
不安に駆られた 臨終であったろう 

額田王は ありし日々を 思い描いていた 
大王おおきみとの 日々は わたしの生きた 日々
歌が いつも あった 

宇治の仮廬かりほ
熟田津にきたつの船出
三輪山との別れ 
蒲生野がもうのの薬狩り
春秋競いのうたげ
もう すだれに吹く風を 待つこともないのだ

かからむの おもひ知りせば 大御船おおみふね 泊てしとまりに しめはましを
《こうなんの 分かってたなら あんたる 場所に標縄しめなわ 張っといたのに》 (悪霊入らんように)
                         ―額田王ぬかたのおほきみ―(巻二・一五一)

鏡山の麓  
服喪ふくもの人々が 去っていく
やすみしし わご大君の かしこきや 御陵みはか仕ふる 山科の 鏡の山に
 よるはも のことごと 昼はも 日のことごと のみを 泣きつつありてや
  百磯城ももしきの 大宮人は き別れなむ

天皇すめらみことの 墓守りと 鏡の山に 集まって 夜昼なしに 泣きつづけ
 終わってしもて みんなぬ 散り散ち ぢりなって 帰ってく》
                         ―額田王ぬかたのおほきみ―(巻二・一五五)

人々の 去るのを見届け 額田王おおきみは 静かに 鏡山を後にする
その後 額田王おおきみの行方は 定かでない

(この後 万葉集に留める 額田王ぬかたのおおきみの歌は 一首を数えるのみ)


<天智天皇陵>へ


歴史編(17)耳我の嶺に

2009年07月21日 | 歴史編
【掲載日:平成21年7月6日】


み吉野の 耳我みみがみね
     時くぞ 雪は降りける
          間くぞ 雨は降りける
      その雪の 時無きがごと
           その雨の なきがごと
       くまもおちず
            思ひつつぞし その山道を


【吉野山から龍門岳を望む―この道大海人皇子も歩いたか】



「虎に翼を付けてはなてり」
世人せじんの うわさは かしましい

天智十年(671)十月十七日 
近江大津宮おうみおおつのみや
大海人皇子おおあまおうじは 天智の病床にいた
「後事を なんじに託したい」
手を取る 天智の声は 弱い 
皇子おうじは 見る
うつろろな目に光る 一瞬の怜悧れいり

退出 すぐさまの 仏殿での剃髪ていはつ
二日後 近江を 発つ 
目指すは 吉野 
旧都 飛鳥を抜け 山越えの 吉野こう
追われる気が 足を 急がせる 
僧衣を 引きちぎる 寒風 
つづら折りの 険路  
しぐれが やがて雪に 

み吉野の 耳我みみがみね
     時くぞ 雪は降りける
          間くぞ 雨は降りける
      その雪の 時無きがごと
           その雨の なきがごと
       くまもおちず
            思ひつつぞし その山道を

耳我みみがの嶺を 越える時
     つぎつぎに降る 雪や雨 
             行っても行っても けわし道
      先の見えへん のがれ旅
           あの嶺越えて 今がある》 
                         ―天武天皇―(巻一・二五)

浄御原宮きよみはらのみや 冬
真神まがみの原の 彼方かなた
吉野の山は 雪雲におおわれている
見やる 天武の眼に 雪降る耳我みみがの嶺 


歴史編(18)不破山越えて

2009年07月20日 | 歴史編
【掲載日:平成21年7月7日】

・・・ 真木まき立つ 不破ふは山越えて 高麗剣こまつるぎ 和射見わざみが原の 
                    行宮かりみやに 天降あもいまして・・・

【関ヶ原(わざみが原)を一望】



高市皇子たけちのみこの挽歌を」と 命ぜられた人麻呂
想起するのは 壬申の乱 
かけまくも ゆゆしきかも はまくも あやにかしこき 明日香の 真神まがみが原に 
ひさかたの 天御門あま みかどを かしこくも 定めたまひて かむさぶと 磐隠いはがくります 
やすみしし わご大君の

《言葉にするのは はばかられもし おそれも多いが 真神まがみの原に 
都造られ やがてのことに お隠れなされた 天武のみかど
きこしめす 背面そともの国の 真木まき立つ 不破ふは山越えて 高麗剣こまつるぎ 和射見わざみが原の 
行宮かりみやに 天降あもいまして
 
《都の北の 不破山ふわやま越えて 和射見わざみが原に 陣敷きまして》
あめの下 をさめ給ひ す国を 定めたまふと とりが鳴く 吾妻あづまの国の 
御軍士みいくさを し給ひて
ちはやぶる 人をやはせと 服従まつろはぬ 国を治めと 皇子みこながら よさし給へば

《天下しずめて 泰平たいへい得んと あずまの国から 軍隊集め 
そむきの心 改めさせろ 逆賊討てとの 命令下す》
大御身おほみみ大刀たち取りかし 大御手おほみてに 弓取り持たし 御軍士みいくさを あどもひたまひ
大刀かたないて 弓取り持って 全軍指揮する 高市皇子たけちのおおじ
ととのふる つづみの音は いかづちの おとと聞くまで 吹きせる 
小角くだおとも あた見たる とらゆると 諸人もろひとの おぴゆるまでに

《並ぶ太鼓は 雷みたい 響く笛の 敵見てうなる 虎の吼声こえかと 怖気おじけを誘う》
ささげたる はたなびきは 冬ごもり 春さり来れば 野ごとに きてある火の 
風のむた なびくがごとく

ささげる旗は 真紅になびき 風にはためく 野を焼くほのお
取り持てる 弓弭ゆはずさわき み雪降る 冬の林に 飃風つむじかも い巻き渡ると 
思ふまで きのかしこ

《弓のつる鳴り 冬吹く旋風つむじ 耳に恐れの 渦巻きわたる》 
引きはなつ 矢のしげけく 大雪の 乱れてきたれ 服従まつろはず 立ち向かひしも 
露霜つゆしもの なばぬべく 行く鳥の あらそふはし

《放つ矢しげく 吹雪のごとく あだなす敵は 意気消え果てて 慌てふためき  争い逃げる》
渡会わたらひの いつきの宮ゆ 神風かむかぜに い吹きまどはし 天雲あまくもを 日の目も見せず 
常闇とこやみに おほひ給ひて 定めてし 瑞穂みづほの国を

《伊勢の神風 呼び寄せ吹かせ 天雲あまぐも起こして 太陽隠し 
敵を闇へと ほうむり去って 平和に戻した 瑞穂みずほの国を》
神ながら 太敷ふとしきまして やすみしし わご大君おほきみの 天の下 まをし給へば 
万代よろづよに しかもあらむと 木綿花ゆふはなの 栄ゆる時に ・・・

《治めなさって 引き継ぎ行けば 今のさかえは 万代よろずよまでに 続かんものと 思えはしたが》
                         ―柿本人麻呂―(巻二・一九九前半)
                              〈「舎人はまとふ」に続く〉

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歴史編(19)伊良虞の島の

2009年07月19日 | 歴史編
【掲載日:平成21年7月8日】


うつせみの 命を惜しみ 浪にぬれ
           伊良虞いらごの島の 玉藻刈り

【寂しげに波寄せる伊良湖岬―遠景は神島】


「お前さま 一人者ひとりものかい 自分で 藻刈もかりなど 召使めしつかいにでも させれば いものを」
「よしなよ あの人は 何も 答えなさらん 都のながされびと らしい」
夕日が 伊勢の海の方に 沈む 
浜を 引き上げる 海女あまの影は 小さくなる
背を伸ばし おぼろな目で 神島を見ている 麻続王おみのおおきみ
「口は わざわいの元・・・」

あれは 壬申のいくさ三年みとせ後 であったろうか
大友皇子の子 葛野王かどののおうを お見かけし 思わず『こんな 幼気いたいけない子が 苦労するとは』と つぶやいてしまった
それが 天武天皇すめらみことの耳へと入り 流罪
雪深い 因幡いなばであった
因幡は よかった 
国庁があり 役所勤めに 友がいた 
不自由ではあったが 食うには困らなかった 
すぐにでも 許されて と思っていたが 配流はいる
常陸ひたちの 板来いたこ
潮風の 強いところであったが 
なんと言っても 鹿島神宮さまのお膝もと 豊かな土地柄とあって なに不自由ない 暮らしであった 
親しくなった 神官に 流罪の経緯いきさつを聞かれ
葛野王かどののおうが 可哀相と 言っただけじゃ』
と らしてしまった・・・

ここ 伊良虞いらごは なにもない
るのは 田作たづくり民と 網人あみひと海女あま
地は痩せ ロクな作物さくもつは取れない
外海そとうみだけに りょうもままならない
あるのは 打ち寄せる 藻だけ 
これを るしかないのだ

いまでは ならいとなった 苫屋とまやでの寝起き
これだけはと 身につけている 筆を取る 
(今日の 海女あまの声 歌にするか)
打つを 麻続王をみのおほきみ 海人あまとなれや 伊良虞いらごの島の 玉藻たまもります
粗末衣ぼろ着てる 麻続王おみのおおきみ 漁師あまやろか 伊良湖の岸で ってはる》
                         ―麻続王をみのおほきみを見た人―(巻一・二三)
(答えて やらねば なあ) 
うつせみの 命を惜しみ 浪にぬれ 伊良虞いらごの島の 玉藻刈り
仕様しょうなしに 伊良湖の島で 波に濡れ 藻ぉうんは 死にとないから》
                             ―麻続王をみのおほきみ―(巻一・二四)

しかし 伊良虞は いところだ
なにしろ 温かい 
天気も それに 人も・・・ 



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歴史編(20)常処女にて

2009年07月18日 | 歴史編
【掲載日:平成21年7月9日】

山振やまぶきの 立ちよそひたる 山清水やましみづ
          みに行かめど 道の知らなく

【河の上の ゆつ磐群<津市一志町波瀬>】


十市皇女とおちのひめみこ 悲しい運命さだめ皇女ひめであった

大海人皇子おおあまおうじ額田王ぬかたのおおきみとの間に生まれた
壬申の乱 
父は 夫大友皇子おうじを死に追いやり
母は 夫の父 天智の御陵ごりょうまもりの後 音信はない
近江朝瓦解がかいの後 父天武のいる浄御原きよみはら
異母弟おとうと 高市皇子たけちのみこのもとに 身を寄せていた
姉を憐れむ 高市との仲は むつまじい

天武四年(675)春二月 
伊勢参宮の途中 ここ波多はたの横山
皇女ひめさま 大きな岩が ほれ ここにも あそこにも」
吹黄刀自ふきのとじは 輿こしにのる皇女ひめみこに 声をかける
波瀬はせ川の河原 嵐の時にでも上流から押し流されて来たか 大岩のむれ
「なんと 神々こうごうしいこと」
河のの ゆつ岩群いはむらに 草さず 常にもがもな 常処女とこをとめにて
《川の岩 草も生えんと 変わりない 姫さんあんたも 変わらずって》
                          ―吹黄刀自ふきのとじ―(巻一・二二)
悲しい境遇の十市皇女 そのつつがなきを大岩に託す 吹黄刀自ふきのとじ

三年後 天武七年(668)四月 
十市皇女を襲う 突然の死 
既にとつぎ 子までなした身に
処女おとめであるべき 斎宮いつきのみやに との話
斎宮となる出立しゅったつの まさにその時の死
親密を加える 高市との仲 
高市の後ろ盾を除く策略 かとの疑念ぎねん
自ら選びし死か・・・ 

山振やまぶきの 立ちよそひたる 山清水やましみづ みに行かめど 道の知らなく
《山吹の 花咲く清水 かえり水 みたいけども 道わかからへん》
                         ―高市皇子―(巻二・一五八)

(守って やれなかった・・・) 
高市の胸に広がる 悔みの思い 



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歴史編(21)吉野よく見よ

2009年07月17日 | 歴史編
【掲載日:平成21年7月10日】

【犬養孝揮毫歌碑―近鉄吉野駅駅前】

き人の
  よしとよく見て 
    よしと言いし 
      吉野よく見よ 
        良き人よく見 


天武天皇は ご満悦であった 
六皇子 打ち揃っての 吉野行幸みゆきである
高市皇子たけちのみこ 
草壁皇子くさかべおうじ 
大津皇子おおつのみこ 
忍壁皇子おさかべのみこ 
河島皇子かわしまのみこ 
志貴皇子しきのみこ
鵜野皇后の同行もある 

壬申の乱(672)を制し  
天皇絶対王権の確立をめざし 
それの基礎固めとしての 親族会盟 

過ぐる 天智十年(671) 
天智帝の 後継要請を拒否 吉野へと逃れた日々 
雪に降られ 雨に濡れて 
道なき道をたどりつつ 隠れ至った ここ吉野 
宮滝の 渦巻く淵 吹きすさぶ あらし風
苦難の日々の 吉野 

あれから 八年 
いま 吉野は 安寧あんねいの地として ここにある
山陰やまかげの木々は 青く涼しげであり
宮滝のとどろきさえ わが世を讃えるかのようだ

盟約めいやくを果たした 天武
六皇子を ふところに抱かえ 得意げにうた
き人の
  よしとよく見て 
    よしと言いし 
      吉野よく見よ 
        良き人よく見 

          ―天武天皇―(巻一・二七)
《よろし人(わしが) 
   よう(状況)見てからに 
     よし(出陣)言うた 
       よしの  
         よう見い(覚えとくんや) 
           よろし人(わしを) 
             よう見(見習うんや)》 

吉野盟約ののち
草壁・大津の関係に きしみが・・・



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