令和・古典オリンピック

令和改元を期して、『日本の著名古典』の現代語訳著書を、ここに一挙公開!! 『中村マジック ここにあり!!』

ようこそ「万葉歌みじかものがたり」へ

2015年03月02日 | 歴史編
それぞれの編へのアプローチはここをクリックください
<歴史編>  <人麻呂編>  <黒人編>
  
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<坂上郎女編>  <家待青春編(一)>  <家待青春編(二)>  <あぢま野悲恋>

<家待越中編(一)>  <家待越中編(二)>

【掲載日:平成21年6月16日】

ようこその お運び ありがとうございます

このブログは 万葉集に詠われた歌を 分かりやすく 理解するための ものです
・まず ものがたり仕立て で 歌の詠まれた 背景(時代と状況)が 分かり
 これで 歌の理解が 抜群によくなります
・つぎに 訳は 単なる説明的で 無味乾燥な 現代訳はやめ
  ①歌の心を捉えた訳にしています
  ②訳文は 関西言葉にしました(万葉時代 スタンダード語は もちろん関西!)
   歌のニュアンスが 伝わってきます
  ③短歌は 五七五七七 長歌は 七五調にしました
   万葉人の リズムです
・また 枕詞まくらことば 序詞じょことば などは 必要でない限り 訳していません
・地の文章も 語調のリズムを 優先しています

その結果 「文法いらず 辞書いらず 素養もなしに 分かる 万葉」となりました

わたしの 万葉経歴は 次の通りです
・2007.8.25 犬養孝著「万葉の旅」掲載故地309ヶ所を 完全踏破
・2008.8.08 犬養孝揮毫万葉歌碑137基 全ての探訪

いま 万葉歌全訳を 目指しての取り組みが できるのは 
いつにかかって 恩師犬養孝先生の 薫陶の賜物なのです

<「万葉歌みじかものがたり」誕生の経緯いきさつはこちら>

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歴史編(1)わが黒髪に

2009年08月04日 | 歴史編
【掲載日:平成21年6月17日】


ありつつも 君をばたむ
      打ちなびく わが黒髪に しもくまでに


磐姫いわのひめは 深く 仁徳にんとくを おもっていた
葛城かつらぎ襲津彦そつひこの勢力を 後ろだてとしたとは言え 熾烈しれつな 皇位継承争いを勝ち抜き 
大王だいおうの地位を得たのは 仁徳の 知力と勇気
私は この世で 一番と言ってよい男の なのだ
でも でも でも でも 
これだけは  せない
私の 留守をいいことに あの手弱たおやかな あやつ 八田皇女やたのひめみこを きさきにするなんて

「姫さま そねみ心も 程々ほどほどが 良うございます」
とつぐときからの 老女が言う
「熊野もうでの帰途 難波の宮に寄らず 山城の この筒城宮つづきのみやはいられては 大王だいおうの顔が立ちませぬ」 
「お迎えの 使いが 再三さいさん られたでは ありませぬか」

【堺市・仁徳陵にある磐姫歌碑】

ついに 仁徳みずからのむかえが来る
平身低頭 諄々じゅんじゅんと説く 仁徳 
手を着かんばかりの 
磐姫いわのひめ 自尊が 許さない
「もう いい  って!」

(なぜ ついて かなかったのだろう
 いいえ  くものですか
 どうして わたしは こうも ・・・)

君が行き 長くなりぬ 山たづね むかへか行かむ ちにか 待たむ
《あんたはん 行ってしもうて なごうなる うちから行こかな それともとか》
                         ―磐姫皇后―(巻二・八五)
かくばかり ひつつあらずは 高山の 磐根いはねきて 死なましものを
《いっそ死の こんなくるして 悩むなら 奥山行って 岩枕して》
                         ―磐姫皇后―(巻二・八六)
ありつつも 君をばたむ 打ちなびく わが黒髪に しもくまでに
《死ぬもんか 生き続けたる あんた待ち うちの黒髪 しろうなるまで》
                         ―磐姫皇后―(巻二・八七)
秋の田の 穂のらふ 朝がすみ 何処辺いづへかたに わがこひまむ
《こんな恋 消えてもえで 霧みたい 行くとこうて ただよう恋は》
                         ―磐姫皇后―(巻二・八八)

愛 深きゆえ 逢わずにえし ふたり
奈良山のふもと 和泉いずみさと 
別れし陵墓りょうぼ 離れて和すか



磐姫陵へ


歴史編(2)籠もよ み籠持ち

2009年08月04日 | 歴史編
【掲載日:平成21年6月18日】

もよ みち 
       くしもよ みくしち 
              この岡に ます・・・
 

【泊瀬朝倉宮跡から飛鳥三山地方を望む】


時は  
芽吹きの時期とき
場所は 泊瀬はつせ小国おぐに
陽光降り注ぐ 野の原 
若菜が芽を出している 

娘子おとめご 登場
若菜摘みを 始める 
楽しげな 摘む手の 動き 
手提げのかごに 春風揺れる
手の掘り串に 春日はるひが光る

若者 登場 
娘子おとめごに 語りかける
「むすめよ むすめ みのむすめ」
「どこに住むのじゃ そなたの家は 」 
「わしを 誰かと 尋ねるか 
「この国仕切る 王こそ わしじゃ 
「わしも 教える と 名前」

春の催し 奉納舞台 
豊作祈る 歌謡劇 
笑いを誘う 求婚舞踊 
伝え伝えて 民謡風に 


もよ みち 
  くしもよ みくしち 
    この岡に ます 
      いえかな らさね
 
《ええかごさげて
   ぐし持って
     みしてはる 娘はん
       あんたるとこ 教えて欲しい》

そらみつ 大和やまとくに
  おしなべて われこそ
    しきなべて われこそませ 
      われこそはらめ 家をも名をも

《ここの 
  治めてるんは このわしや 
    仕切ってるんは このわしや 
      わしも教える 名前と家と 
        (あんた教えて 名前と家と )》
                         ―雄略天皇―(巻一・一)

舞台に 繰り広げられる 滑稽こっけいしぐさ
笑いに満ちる 茣蓙ござさじき
豊作祈願の 芝居は 続く 



<泊瀬朝倉宮>へ

歴史編(3)群山あれど

2009年08月04日 | 歴史編
【掲載日:平成21年6月19日】


大和やまとには 群山むらやまあれど
       とりよろふ あめの香具山
              登り立ち 国見をすれば ・・・


春立つその日 
舒明じょめい天皇は 香具山に立っていた
きとし けるものの 命の息吹いぶ
冬が こもって 春の野に 芽吹くとき
もの豊穣ほうじょうと もの長寿ちょうじゅを 祈って行われる 国めの行事おこないごと

香久山 ならぬ甘橿岡から西方、畝傍・二上・葛城連山を望む】

東には かぶさるように迫る
  多武たむの峰
 なだらかな稜線を描いて 
  鳥見山 
  三輪山 
北に 秀麗しゅうれいな姿を見せる
  耳成みみなしの山
 はるかに 
  信貴しぎ・生駒の峰々
西 瑞山みずやま美称びしょうされる
  畝傍うねびの姿
 背後に  
  二上山ふたかみやま雄岳おだけ 雌岳めだけ
  葛城連山 
南に広がるは 
  都を抱く飛鳥の大地 
 雲の彼方に 
  吉野の山々 

大王おおきみ お歌を」
大王おおきみ舒明は 改めて四方しほうはいし おごそかにうた

大和やまとには 群山むらやまあれど とりよろふ あめの香具山 登り立ち 国見をすれば
《大和には ぎょうさん山ある その中で とりわけ綺麗きれえな 香具山に 登ってあちこち 見てみたら》

国原くにはらは けぶり立ち立つ 海原うなはらは かまめ立ち立つ うまし国ぞ 蜻蛉島あきづしま 大和の国は

おかでは炊煙けむり 昇ってる 水辺に水鳥 飛んどおる なんとえ国 大和の国は》
                         ―舒明天皇―(巻一・二)

世の豊穣ほうじょう繁栄を 約束するように おだやかな春の日が 四方よも群山むらやまに 降り注いでいる



<甘橿岡より(二)>へ

歴史編(4)宇智の大野に

2009年08月03日 | 歴史編
【掲載日:平成21年6月20日】


たまきはる 宇智うちの大野に 馬並 なめて
              朝踏 ふますらむ その草深野くさふかの


間人皇女はしひとのひめみこは 目を覚ました
「ビン ビン ビィーン・・・」 
(ああ 父上の弓だわ 
 今日も 狩りに お出かけなさる
 力強い響き たくましいお父さま) 

大王おおきみ 皇女ひめさまから 歌が届きました」
一息入れた 舒明大王じょめいだいおうに 間人連老はしひとのむらじおゆが 差し出した

やすみしし わご大君の 
あしたには とりでたまひ ゆふへには いせ立たしし 御執みとらしの あづさの弓の 中弭なかはずの 音すなり

とうさんが 朝の早よから でさすり 夕べ遅ゆう おそくに 引き寄せる ご自慢弓の つるの音》
朝猟あさかりに 今立たすらし 暮猟ゆふかりに 今立たすらし 御執みとらしの 梓の弓の 中弭なかはずの 音すなり
朝猟あさかり行くとき 響いてる 夕狩り出るとき 聞こえてる ご自慢弓の つるの音》
                              ―中皇命―(巻一・三)

(どんな ご様子での 狩りかしら 朝霞あさがすみのなか 馬を並べて・・・)
たまきはる 宇智うちの大野に 馬並 なめて 朝踏 ふますらむ その草深野くさふかの
とうさんが 宇智の大野で 狩してる 馬駆 かけさせて 朝露あさつゆ踏んで》
                              ―中皇命―(巻一・四)

【宇智の大野―荒坂峠付近、後方金剛山】
「さすが わしの皇女ひめじゃ」
「わしの 狩りを見ていたようではないか のうおゆ
間人連老はしひとのむらじおゆは 平伏したまま 申しあげる
「はい まことに 殿の雄々しい姿 そのままなお歌」 
大王は 大きくうなずくと 命じた
「さあ 仕上げの 追い狩りだ ゆくぞ!」 

朝霧あさぎりも晴れ 草深野に 夏の日差し



<宇智の大野>へ

歴史編(5)われこそ益さめ

2009年08月02日 | 歴史編
【掲載日:平成21年6月22日】

秋山の 樹の下隠こ  かくり く水の
           われこそさめ 御思みおもいよりは


「姉上 どうしたのですか」
額田王ぬかたのおおきみは 笑みのこぼれる鏡王女かがみのおおきみに声をかけた
「文が 来たのです」
「まあ 久しく なかった便りが・・・」 

中大兄皇子なかのおおえのおうじは 多忙であった
難波なにわの宮での政務は
天皇 孝徳の行うところではあるが 
重要な事柄は すべて皇子の意向が尊重された 
都が難波長柄豊崎なにわながらとよさきの宮に移される前 皇子に召された鏡王女かがみのおおきみ
都移りの後 飛鳥の地で ままならぬ逢瀬おうせを待つ身となっていた

妹が家も 継ぎて見ましを  大和なる 大島のに 家もあらましを
高安山たかやすに お前の家が あったらな お前おもうて ずっと見られる》
                           ―中大兄皇子―(巻一・九一)

「飛鳥の 私のもとに 来られないのを こうして 思いやってくださる 皇子おうじさまのお気持ち 大事にしなくてはと 思うのです
わたし かえし歌を作りました
歌の上手な お前に見てもらうのは すこし 恥ずかしいのだけれど」 

秋山の 樹の下隠こ  かくり く水の われこそさめ 御思みおもいよりは
《木の下を くぐって流れる 水みたい うちの思いが 深いであんた》
                              ―鏡王女―(巻一・九二)

【鏡王女墓への道脇・犬養孝揮毫歌碑】

額田王は 微笑ほほえましく思った
(姉は 年嵩としかさなのに 私より 可愛いわ
姉の思い 皇子に 伝わればいいが・・・) 

運命の悪戯いたずら
のち
額田王は 中大兄の寵愛ちょうあいを受け
鏡王女かがみのおおきみは 藤原鎌足の正妻に・・・



<鏡王女墓>へ


歴史編(6)玉くしげ

2009年08月01日 | 歴史編
【掲載日:平成21年6月23日】


玉くしげ おほふをやすみ 開けていなば
           君が名はあれど わが名し惜しも 



鏡王女かがみのおおきみは 仕え女つか めに 髪をけずらせていた
けた櫛笥くしげ(化粧箱)に 大和の黄楊小櫛つげおぐしが見える
(鎌足さまが られる
 中大兄皇子おうじさまの 許しを得はしたが
 まだおおやけではないときの お訪ね たず 
 よほどの ご執心しゅうしんなのだわ)

鏡王女おおきみ まいったぞ」
(まぁ まだ 化粧よそおいも済まぬに はやばやと)
仕え女つか めを 下がらせた鏡王女かがみのおおきみ そっと 櫛笥に蓋くしげ ふたをする 
「おお 立派な櫛笥くしげではないか 誰からの 下されものじゃ
そうか そうか 中大兄皇子おうじさまか
では 同じじゃ
もっとも わしは もっと いいものを たまわったが」
鏡王女おおきみは ニッコリと おもを上げる

帳帷とばりに うっすらと 明けあかり
鏡王女かがみのおおきみは そっと つぶや
玉くしげ おほふをやすみ 開けていなば 君が名はあれど わが名し惜しも 
ふたあって 隠してたのに 明け(開け)て出る あんたうても うち恥ずかしい)
《内緒やと 気ィ許したら 遅朝おそ帰る あんたうても うち困るんや》
                            ―鏡王女―(巻二・九三)
                    ※妻問いは夜が明ける前に帰るのがルール 
寝床ふしどの鎌足 鏡王女おおきみの手を引く
玉くしげ 御室みむろの山の さなかづら さ寝ずはつひに ありかつましじ 
櫛笥くしげ開け 中身なかみ見たのに つるみたい 腕からまして 寝ないでおくか)
《気ィ許す お前そば置き そのまんま 手をこまねいて 寝ん手があるか》
                           ―藤原鎌足―(巻二・九四)

「天下の鎌足 もの言う者の あろうか」 
高笑いに 朝もや ゆれる 




歴史編(7)浜松が枝を

2009年07月31日 | 歴史編
【掲載日:平成21年6月24日】

磐代いはしろの 浜松がを 引き結び
           真幸まさきくあらば またかへり見む

【有間皇子の無念を宿すかの藤白坂】


皇子みこは 紀の湯へと 引き立てられて行く
皇太子 中大兄皇子なかのおおえのおうじの 尋問が待つ
赤兄あかえめられた)
無念の思い かたない 有間皇子ありまのみこ

時に 斉明天皇四年(658) 
中大兄皇子は 天皇と 紀の湯に 
密命を帯び 皇子みこを おとなう 蘇我赤兄そがのあかえ 
赤兄は言う 
皇子みこ 今の世を どう見られる
 民に 不満が つのっております
 さきごろ お亡くなりの 父君孝徳帝は 皇太子に殺されたも同然 
 留守の今こそが 好機」 
有間皇子は 乗ってこない 
赤兄 更に言う 
「今の政治まつりごとに 三失あり
 一に 大いに倉を建て 民の財を・・・」 
皇子みこ 弱冠十九歳
狂気よそおいつつも 胸に秘めた思いに 火が
紀の湯へ 早馬は飛ぶ 

無実信じるか 有間皇子ありまのみこ
あきらめ果てるか 有間皇子
ここ 岩代いわしろ地霊ちれいに 祈るは何

磐代いはしろの 浜松がを 引き結び 真幸まさきくあらば またかへり見む
《松の枝 結んで祈る 無事ならば 礼に寄ります 岩代いわしろの神》
                         ―有間皇子―(巻二・一四一)
家にあれば に盛るいひを 草枕 旅にしあれば しひの葉に盛る
《家ならば うつわに供えて 祈るのに 旅先やから しいで供える》
                         ―有間皇子―(巻二・一四二)

尋問を 無事終えた有間皇子みこ 待つは 藤白坂の悲劇



<藤白のみ坂>へ


<磐代>へ


<結び松の碑>へ


歴史編(8)畝傍を愛しと

2009年07月30日 | 歴史編
【掲載日:平成21年6月25日】


香久山かぐやまは 畝火うねびしと 耳梨みみなしと あひあらそひき
     神代かみよより かくにあるらし 古昔いにしへも しかにあれこそ
          うつせみもつまを あらそふらしき

【山の辺の道から大和三山を望む
左より香久山・畝傍山・耳成山】

斉明天皇七年(661)一月 
大和軍は 難波なにわを船出
海路 西を目指す 
半島情勢 不安のさ中 
同盟百済 救援のための 新羅征討軍である 

中大兄皇子なかのおおえのおうじは 船上にいた
播磨の国 印南郡いなみのこおり沖合に差しかかる

「おお あれが 印南国原か 
そう言えば 昔語むかしがたりにあったぞ
大海人皇子おおあまおうじ 知っておるか」
「たしか 出雲の阿菩大神あぼのおおかみとか申しました
 三山さんざん争いのうわさ聞き 仲裁に 駆けつけたのは
 中止と知って 引き返したのが ここ印南の国です」 
香久山かぐやまと 耳梨山みみなしやまと ひしとき 立ちて見にし 印南国原いなみくにはら
《香久山と 耳成山が(畝傍山取りあいして) 揉めたとき 
 (出雲の神さん)ここまで来たんや 印南いなみの地まで》
                         ―天智天皇―(巻一・一四)

「昔は 山でも取りあいか 
今 『妻』取りあいするのも 仕方なしか」
香久山かぐやまは 畝火うねびしと 耳梨みみなしと あひあらそひき
     神代かみよより かくにあるらし 古昔いにしへも しかにあれこそ
          うつせみもつまを あらそふらしき

《香久山は 畝傍うねびのお山 可愛かいらしと 耳成さんと 喧嘩した
     ようあるこっちゃ 昔から 今もするんや 妻あらそいを》 
                         ―天智天皇―(巻一・一三)
中大兄皇子なかのおおえは 大海人おおあまをチラと見て にがく笑った
大海人皇子おおあまおうじは 入日に映える雲を見ていた
「兄上 あの雲 我らの 前途のえを見るようですぞ 一首 されませ」
わたつみの 豊旗雲とよはたぐもに 入日し 今夜こよひ月夜つくよ さやけかりこそ
なびぐも 夕日射し込み 輝いて え月照るで 間違いなしに》
                         ―天智天皇―(巻一・一五)

船は 何事もなく 夕日を追って 一路西へ



<大和三山>へ


歴史編(9)熟田津に

2009年07月29日 | 歴史編
【掲載日:平成21年6月26日】


熟田津にきたつに 船乗ふなのりせむと 月待てば
           しほもかなひぬ 今はでな


半島は 混乱を極めていた 
百済 新羅 高句麗 三国の対立 
かてて加えて 唐が 高句麗討伐に失敗した隋に 取って変わる 
唐は その強力な軍事力を背景とし  
半島へと勢力拡大 
斉明天皇六年(660) 
ついに 百済が 唐・新羅連合軍の手により 滅ぼされた 
復興を目指し 百済遺臣が 同盟国倭国に 援助の要請 
倭国は これに応え 新羅征討軍を組織・出陣 
中大兄皇子なかのおおえのおうじを 総指揮官とし
大王おおきみ斉明の同行を仰いでの出兵は
倭国の命運を賭けてのものであった 

【熟田津候補地・松山市の和気堀江海岸】

斉明天皇七年(661)一月 
難波の津を出た 大和軍は 西を目指す 
やがて 
船団は 伊予の国にいたり 
ここ 熟田津に停泊していた 
石湯いわゆ行宮かりみやでの旬日じゅんじつは 戦備いくさぞなえに費やされる

皇太子は 大海人おおあまを伴い 熟田津の浜にいた
皇子みこ そちは 星占ほしうらに通じていると聞く
 どうじゃ 船出の好機を 占ってみよ」 
じっと 星を見据えていた 皇子みこ
「吉は 明後日 月の出とともの出発いでたち
 夜の航行になりますが 潮の流れが抜群です これ以上の好機はありません」 

軍船の準備は 整っていた 
額田王おおきみ 月を 呼ぶのじゃ
 そちの 霊力をもって 潮を叶える 月を呼びだすのじゃ」 

熟田津にきたつに 船乗ふなのりせむと 月待てば しほもかなひぬ 今はでな

熟田津にきたつで 月待ち潮待ち 船出ふなで待ち きた きた 来たぞ 今こそ行くぞ》 
                          ―額田王―(巻一・八)

額田王の朗唱が 合図となった  
船団は 一斉に 月夜の海へ 



<熟田津>へ


歴史編(10)雲だにも

2009年07月28日 | 歴史編
【掲載日:平成21年6月27日】


三輪山を しかも隠すか 雲だにも
          こころあらなむ 隠さふべしや

【初瀬川畔からの三輪山の眺め】


天智称制六年(667) 春 
新たな都 近江大津へ 湖畔の大宮処へ 

白村江はくすきのえの大敗を受け 
 要害の地と定められた新都 
  遷都の列は 延々とつづく 
   輿こし 馬 徒歩かち
それぞれの 歩みは おそい 

幾重にも重なる 平城ならの峰々
 春霞に うすく裾引き 
  うちつづく 道の隈々くまぐま
   若草の萌えたつ 川べり 
こころ 浮き立つ 春なのに 

住み慣れた 飛鳥の地 
 思い出深い 里の山川 
  二人心通わせた 宮の森陰 
舎人とねりらは うつむいて 進む

額田王おおきみよ 歌だ」
中大兄なかのおおえの声が 響いた
「新都へでたつ 寿ことほぎの歌だ」

沈鬱ちんうつな列のあゆみを にがく思う大兄おおえ
額田王ぬかたのおおきみに 命じた

旧都への思いに 沈んでいた額田王おおきみは ハッとした
(われは 歌人なり 
  みなの気持ちを 鼓舞するのが役目 
   ・・・されど いまは そのときではない 
    みなの思いを汲み その心を歌にする 
     それでこそ みなは付いて来る 
      これこそ大兄おおえのため)

味酒うまざけ 三輪みわの山  あをによし 奈良の山の 
  山のに いかくるまで   道のくま いもるまでに
    つばらにも 見つつ行かむを  しばしばも 見けむ山を 
      こころなく 雲の かくさふべしや

《三輪山 奈良山 遠ざかる 
  道まがるたび 隠れ行く 
    見つめときたい いつまでも 
      振り向き見たい 山やのに 
        心無い雲  隠してしまう》 
                         ―額田王―(巻一・一七)
三輪山を しかも隠すか 雲だにも こころあらなむ 隠さふべしや
《あかんがな うちの気持ちを 知ってたら 雲さん三輪山 隠さんといて》 
                         ―額田王―(巻一・一八)
額田王おおきみの真意を知らず
大兄おおえはひとり 唇を噛む




<三輪山>へ


歴史編(11)茜さす

2009年07月27日 | 歴史編
【掲載日:平成21年6月29日】


あかねさす 紫野むらさきの行き 標野しめの行き
          野守のもりは見ずや 君が袖振る

【蒲生野は、水田の下に静かな眠りについている】


天智七年(668) 
都が近江へ変って一年余り 
遷都騒動も ようやく落ち着きを見せていた 
時は春 
ここ蒲生野がもうのでは 薬狩りが行われている

額田王ぬかたのおおきみは お付きの女官と共に 久方ぶりの 楽しみを味わっていた 

カツ カツ カツ 遠くに響くひづめの音
何気なく 仰ぐと  
あれは 大海人皇子おおあまおうじ
(あれ あんなに袖を振って わたしを誘っている) 
ふと 額田王おおきみは 二人の若かりし日を思った
(はしたないことを 人目もあるに 
 昔と変わらぬ皇子だこと) 

大海人皇子は 馬を近づける・・・ 
それを見やって 額田王おおきみは うたい懸ける
あかねさす 紫野むらさきの行き 標野しめの行き 野守のもりは見ずや 君が袖振る
《春野摘み 野守見るやん 行き来い きして うち、、向こて 袖なぞ振って》
                         ―額田王―(巻一・二〇)
近づく大海人 思わず 馬を止め 
微笑ほほえみかけながら うたい返す
紫の にほえるいもを 憎くあらば
人妻ゆゑに われ恋ひめやも

《そういな 可愛いお前に 連れ合いが るん承知で さそたんやから》
                       ―大海人皇子―(巻一・二一)
にっこりと 微笑み返す 額田王ぬかたのおおきみ

「ワッハハハ・・・」 
豪快な笑い声を残し 駆け去って行く大海人皇子 

蒲生野に 春の日差しが揺れている 



<蒲生野>へ


歴史編(12)秋山われは

2009年07月26日 | 歴史編
【掲載日:平成21年6月30日】


冬こもり 春さり来れば 
       鳴かざりし 鳥も鳴きぬ
              咲かざりし 花も咲けれど・・・ 


場は 色めきたった 
中大兄皇子なかのおおえのおうじが 額田王ぬかたのおおきみを呼べ と命じたのだ

先刻から 続けられている 「歌競うたきそい」
一方が 春をはやせば
他方が 秋をてる
春組が 花のはなやぎをでれば
秋組が もみじのいろどりたたええる

集うは 「漢詩」読みの上手じょうずばかり
勝ち負けの いずれは さすがに つけがた
判定は 額田王おおきみの「やまとうた」でとの
皇太子の いきな はからいである
ざわめきが しずまるのを待ち 額田王が ゆっくりとうたいだす

冬こもり 春さり来れば 鳴かざりし 鳥も鳴きぬ 咲かざりし 花も咲け・・・ 
春組は みのうなずきをかさねる

・・・咲けれど 山をしげみ 入りても取らず 草ふかみ 取りても見ず・・・
肩落とす春組 秋組「得たり」と手を打つ 

秋山の 木の葉を見ては 黄葉もみちをば 取りてぞしのふ・・・
秋組から「おおっ」の声 

・・・青きをば 置きてぞなげく そこしうらめし
一転 天仰ぐ秋組 「やった」と叫ぶ春組 

息を詰め 固唾かたずを飲む うたげの場
場の鎮まりを 静かに待った 額田王おおきみ
おもむろに 

・・・・・・秋山われは 
                          ―額田王―(巻一・一六)
一瞬静まり返った 宴席は やがて 万雷ばんらいの拍手に包まれた


≪冬ってもて 春来たら
   鳴けへんかった 鳥も鳴く 
      咲けへんかった 花も咲く 
 そやけども      山茂ってて はいられん
       草深いから 取られへん 
 秋山はいって 葉ぁ見たら
    紅葉こうようした葉は え思う
       けど青い葉は つまらへん               そこが かなんな 
 うう~ん・・・秋やな うちは 



歴史編(13)安見児得たり

2009年07月25日 | 歴史編
【掲載日:平成21年7月1日】


われはもや 安見児やすみこ得たり
         皆人みなひとの 得難えかてにすといふ 安見児得たり


天智天皇てんじてんのうは ご機嫌であった
宴席は 笑いに満ち 
座を埋める 官人らの 
酔いまぎれの 声が 大きい 
「そこの采女うねめ 大王おおきみの お声が掛からないようであれば わしが 面倒見ても よいぞ」 
「アハハハ あの采女は ダメじゃ だめ とんと おのこに気を懸けぬ」

鎌足は 渋面しぶつらで 杯を重ねていた
(有力な豪族から 寄せられた 采女 
 召す召さぬは 大王おおきみの専権じゃ
 官人ごときが 知ったことではないわ 
 采女に 手を出せば 首の飛ぶこと 
 知らぬでもなかろうに) 

「思いついたぞ」 
天皇てんのうの 声が響いた
「この席の采女 一番は どれだと思う」 
「思い わしに同じなら 下げ渡しても構わぬが」 
一同を 見まわす 天皇てんのう
座は 静まり返った 
「おう 白けたか 座興ざきょうじゃ 座興 誰ぞ 申してみよ」
せきとして 声なく 重苦しさが 立ち込める

眉根まゆねを寄せた鎌足 杯の手が忙しくなる
大王おおきみ たわむれが 過ぎますぞ
 名乗り挙げては 首が無いと みな承知) 

「わしの座興に 付いてれぬと 申すか」
天皇の 声が けわしくなった

ふらり  
鎌足が 立ちあがる 
天皇すめらみこと ワレは 安見児やすみこと ぞんずる」
言うや どっかと胡坐あぐらに組み 杯を突き出す

静かに 杯を満たす 安見児やすみこ

「ウワッハッハッハ・・・」 
「鎌足が言うたか ハハハ わしの 負けじゃ」 
つかわす 安見児を 約束じゃ」
「じゃが ばつがある 気持ち 歌にめ」

われはもや 安見児やすみこ得たり 皆人みなひとの 得難えかてにすといふ 安見児得たり
《わしろた 安見児ろた 誰もみな しいおもてた 安見児ろた》
                         ―藤原鎌足―(巻二・九五)

無骨でならす鎌足の 頬が赤い 

歴史編(14)すだれ動かし

2009年07月24日 | 歴史編
【掲載日:平成21年7月2日】


君待つと わが恋ひをれば
        わが屋戸やどの すだれ動かし 秋の風吹く



【犬養孝揮毫<簾動かし>歌碑・東近江市本町・市神神社】

天智八年(669)中臣鎌足 死去 
中大兄皇子なかのおおえおうじ 天皇即位の 翌年であった

大化改新以来の盟友 
自分のきさき 鏡王女かがみのおおきみを 正妻として下げ渡し
采女うねめ 安見児やすみこを 与えて優遇した
その死にあたって 
最高冠位 大職冠たいしょくかんに任じ
大臣の位 藤原の姓を授けた 

最も信頼すべき 相談相手を亡くし 
天皇は 近江大津宮での 政務に掛かりっきりであった 

久しく お越しはない 
額田王ぬかたのおおきみは 張りのない日々を 送っていた
(空は澄み 山は 赤や黄にもみちしている 
 もみち狩りの お誘いでもあれば 気も晴れように 
 そういえば 昔 前触れなしの突然のお越しがあった もしや そんなことも・・・) 

君待つと わが恋ひをれば わが屋戸やどの すだれ動かし 秋の風吹く
《あっすだれ 動いたおもたら 風やんか あんまりうちが 焦がれるよって》
                         ―額田王―(巻四・四八八)

「えっ 風のせいと間違えたの 額田王おおきみ

風をだに 恋ふるはともし 風をだに むとし待たば 何かなげかむ
うらやまし 風と間違まちごて うちなんか 待つ人おらんで なげかれへんわ》
                       ―鏡王女―(巻四・四八九)
「鎌足公は 亡くなられたもの」 
鏡王女は さびしく つぶやく