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令和・古典オリンピック

令和改元を期して、『日本の著名古典』の現代語訳著書を、ここに一挙公開!! 『中村マジック ここにあり!!』

家待・政争の都編(03)時雨(しぐれ)の常か

2011年08月30日 | 家待・政争の都編
【掲載日:平成23年8月30日】

十月かむなづき 時雨しぐれの常か
      我が背子せこが やどの黄葉もみちば 散りぬべく見ゆ




少納言 職を得 家持は多忙を極めていた
朝廷 の変化
漏れ聞いてはたものの
いざ  その空気に触れ 
緊迫きんぱくただよい の当たりに

 武帝退位が 
天平感 宝元年(749)七月四日
皇太子 阿部あべ内親王ないしんのう 孝謙こうけん天皇となり
天平 勝宝と改元
七日  藤原仲麻呂 大納言
政治は 孝謙天皇の生母 光明こうみょう皇大后こうたいごう中心へ
皇后官職を改め 『紫微しび中台ちゅうだい』とし 
実質 権限は 長官仲麻呂に
中台要職に 氏族有為ゆうい人材を取り込む

仲麻呂  大納言昇進と同時期
 奈良麻呂 参議に
年来の政敵が 廟堂びょうどうで顔合わす事態
これを機に 奈良麻呂 謀議ぼうぎの働きかけ
天平 十七年(745)に次ぎ 二度目
誘われし 佐伯全成さえきのまたなり 再度の拒否 謀議頓挫とんざ

そんな中 家持帰任後の最初のうたげ
紀飯麻呂きのいいまろ屋敷 十月二十二日

船王ふねのおおきみ きょうの古歌を詠む】
手束弓たつかゆみ 手に取り持ちて 朝狩りに 君は立たしぬ 棚倉たなくらの野に
手束弓てつかゆみ 手に取りなされ 朝狩に お立ちなられた 棚倉たなくらの野に》
                          ―作者未詳―(巻十九・四二五七)

中臣清麻呂なかとみのきよまろ 明日香古京の古歌を詠む】
明日香川 川門かはとを清み おくれ居て 恋ふればみやこ いやとほそきぬ
《瀬ぇ清い 明日香あすかの川に 未練みれんして 残っとったら 田舎いなかなったで》
                          ―作者未詳―(巻十九・四二五八)

二首の 往古いにしえ懐かしみ古歌に導かれ
家持 散りゆく 黄葉もみじを惜しみ 

十月かむなづき 時雨しぐれの常か 我が背子せこが やどの黄葉もみちば 散りぬべく見ゆ
《十月の 時雨しぐれの雨に 誘われて 飯麻呂あんたの庭の 黄葉もみじ散りや》
                         ―大伴家持おおとものやかもち―(巻十九・四二五九)

この 集い 
政局に溜息ためいきする旧守派氏族
大伴  紀 中臣が 参集している



家待・政争の都編(02)相飲まむ酒(き)そ

2011年08月26日 | 家待・政争の都編
【掲載日:平成23年8月26日】

よつの船 ふなならべ 平安たひらけく
   はや渡り来て 返言かへりごと まをさむ日に
      相飲まむそ このとよ御酒みき




天平勝宝四年(752)うるう三月
出発を 旬日じゅんじつに控えて
大伴古慈斐こじひ宅 入唐副使大伴古麻呂こまろはなむけうたげ

唐国からくにに 行きたらはして 帰りむ 大夫ますら健男たけをに 御酒みき奉る
からくにへ 役目たしに する 雄々おお男児おとこに 酒ささげましょ》
                         ―丹比鷹主たじひのたかぬし―(巻十九・四二六二)

くしも見じ 屋内やぬちかじ 草枕 旅行く君を いはふとひて
《櫛見んと 掃除もせんと 祈ります 旅の古麻呂あんたの 無事を願うて》
                         ―作者未詳さくしやみしょう―(巻十九・四二六三)

出発間近まぢか 難波ざいの大使藤原清河きよかわへのたまわり歌

そらみつ 大和やまとの国は 水のうへは つち行く如く 船の上は とこる如 大神おほかみの  いはへる国ぞ 
《この大和やまと 海でも土を 踏む様な 船でも床に 座るな 安らか旅を かなえさす 神さん守る 加護かごの国》
よつの船 ふなならべ 平安たひらけく はや渡り来て 返言かへりごと まをさむ日に 相飲まむそ このとよ御酒みき
四艘よんそうふねが 舳先を揃え 無事にはように 行き還り 報告終える その日こそ また飲もうぞや この捧げ酒》
                         ―孝謙天皇こうけんてんのう―(巻十九・四二六四)

よつの船 早帰りと 白髪しらか付け が裳の裾に いはひて待たむ
四艘よんそうの 船のかえりを 祈るため すそ白髪しらが 結んで待つぞ》
                         ―孝謙天皇こうけんてんのう―(巻十九・四二六五)
                ―――――――――――――――
遣唐使 
それは 先進文物ぶんぶつ摂取のため 唐へ派遣の使節しせつ
選抜は 貴族子弟してい 優秀留学生 学問僧
帰国後 我がくに文化発展に多大の貢献
選ばれ しは 名誉この上なし
 しながら
船 脆弱ぜいじゃくにして 強風波浪はろうえず
遭難 船続出 漂流 難破 漂着
生還率  実に 五割満たず

この 度の 第十次遣唐使
大使 藤原清河ふじわらのきよかわ
副使 大伴古麻呂おおとものこまろ
副使 吉備真備きびのまきび

清河  藤原北家
 麻呂 天平五年(733)留学生に次ぎ二度目
真備 橘諸兄たちばなのもろえ元政治顧問
    勝宝二年左遷で 筑前守 肥前守
   急遽きゅうきょ抜擢ばってき 当年五十七歳
    養老元年(717)留学生に次ぎ二度目

権謀けんぼう術数じゅっすう渦巻く中 これらの派遣
藤原 南家 仲麻呂の何らかの意思 働き居るか
もっとも  
仲麻呂六男刷雄よしお 留学生に名を連ねている・・・



家待・政争の都編(01)唐国(からくに)へ遣(や)る

2011年08月23日 | 家待・政争の都編
【掲載日:平成23年8月23日】

大船おほぶねに かじしじ
        この我子あこを 唐国からくにる いはへ神たち




天平 勝宝三年(751)九月
家持  帰京
 は 遣唐使送りの話題に 湧いていた
  二年九月任命
大使 藤原北家房前ふささきの子 藤原清河ふじわらのきよかわ

春日野かすがので行われた 入唐祈願祭礼】
大船おほぶねに かじしじき この我子あこを 唐国からくにる いはへ神たち
《大船に かじ多数よけ付けて この子をば 唐へつかわす 守らせ給え》
                         ―光明皇后こうみょうこうごう―(巻十九・四二四〇)
春日野かすがのに いつ三諸みもろの 梅の花きてあり待て かへるまで
春日野かすがので 祭る三諸みむろの 梅花うめはなよ 咲きさかえ待て わし帰るまで》
                         ―藤原清河ふじわらのきよかわ―(巻十九・四二四一)

【藤原仲麻呂邸 入唐使はなむけうたげ
天雲あまくもの かへりなむ ものゆゑに 思ひぞがする 別れ悲しみ
く雲も また湧き戻る そやうに 別れ悲して わししずんどる》
                         ―藤原仲麻呂ふじわらのなかまろ―(巻十九・四二四二)
住吉すみのえに いつはふりが 神言かむごとと 行くともとも 船は早けむ
住吉すみのえの 神のお告げが うてるで きも帰りも 船足軽い》
                         ―丹比土作たじひのはにし―(巻十九・四二四三)
あらたまの 年の長く 我がへる 児らに恋ふべき 月近づきぬ
年月としつきの なごうにわしが いとしんだ 妻との別れ こなって来た》
                         ―藤原清河ふじわらのきよかわ―(巻十九・四二四四)
 ――――――――――――――
 天平五年(733)第九次遣唐使 派遣時の歌】
そらみつ 大和やまとの国 青丹あおによし 平城ならの都ゆ 押し照る 難波なにはくだり 住吉すみのえの 御津みつに船乗り ただ渡り 日の入る国に つかはさゆ 我が背の君を 
大和やまと国 平城ならみや離れ 難波なにわ来て 住吉すみのえ浜で 船に乗り 海を進んで 日ぃ沈む 国へのつかい あんたをば》
けまくの ゆゆしかしこき 住吉すみのえの 我がおほ御神みかみ ふなに うしはいまし 船艫ふなどもに みたちいまして さし寄らむ 磯の崎々 てむ とまりとまりに 荒き風 波にはせず たひらけく て帰りませ もとの国家みかど
霊験れいけんまこと あらたかな 住吉すみのえ神よ 頼みます 船のさきに すわられて 船のともさき お立ちなり 寄る崎々さきざきの いそみなと 荒い波風 わさんと 無事戻してや もとの国まで》 
                          ―作者未詳―(巻十九・四二四五)
おきつ波 なみな越しそ 君が船 ぎ帰り来て 津につるまで
おききし どっちの波も 立たんとき 船ぎ帰り 港着くまで》
                          ―作者未詳―(巻十九・四二四六)

天雲あまくもの 退きへのきはみ 我がへる 君に別れむ 日近くなりぬ
《雲の果て 限りしたう 母上に お別れする日 こなりました》
                         ―阿倍老人あべのおきな―(巻十九・四二四七)

これらの歌 越中さかん高安種麻呂たかやすのたねまろの手で 家持に



家待・越中編(二)(01)心隔(へな)てつ

2011年08月19日 | 家待・越中編(二)歌心湧出
【掲載日:平成23年4月日】

あしひきの 山は無くもが
          月見れば おなじき里を 心へなてつ



越前国のじょう 池主から 便りが届く
《先日のお便り 
「独り  晩春の名残りを惜しみ
 いつの日か  共の楽しみを」拝見
 たまさか 公用にて 国境くにざかいに参り
 北のかた かみ殿どのおられる 越中国府 望み
 遭いたさしきり 懐かしさ込み上げ
 矢も楯もたまらず ふみ送る次第
 意尽くせませぬが  お読み下されたく》

月見れば 同じ国なり 山こそば 君があたりを へだてたりけれ
《月見たら どこもおんなじ 国やのに あんたるとこ 山へだてとる》
                         ―大伴池主おおとものいけぬし―〔巻十八・四〇七三〕
桜花さくらばな 今ぞ盛りと 人は言へど 我れはさぶしも 君としあらねば
桜花さくらばな 今盛りやと みな言うが あんたらんで わしさみしいわ》
                         ―大伴池主おおとものいけぬし―〔巻十八・四〇七四〕
相思あひおもはず あるらむ君を あやしくも 嘆き渡るか 人の問ふまで
《こっち程 思てもらん 守殿ひとやのに なんで恋しと みな聞くんやで》
                         ―大伴池主おおとものいけぬし―〔巻十八・四〇七五〕
                              【天平二十一年三月十五日】 
《追伸 
 先の便りによりますと 
 昨年四月 上皇お亡くなりののち おおよそ一年ひととせ
 歌作り 停止ちょうじとのこと
 また 我輩それがし 越前転任この方 長歌ちょうか無作とか
 そこここ  お気持ち 察するものの
 歌作りは かみ殿どのが天職
 かつての 漢詩り取りの折
 「とても  人麻呂殿 赤人殿には 及びつかず」
 との 申され条 我輩それがし かねて不承知
 かみ殿どのこそ ご両所を継ぐに相応ふさわしい歌詠み
 いや むしろ はるかしのぐと 思うにより
 何卒なにとぞの 歌作り再開を
 凡夫ぼんぷの 申すところではありますれど
 お聞き入れの段  伏して願う次第》

〔それほどまでに この家待 うてくれるか
 友なればこその 諫言かんげん 無碍むげには出来ぬな〕
家持は  ようやくに 重い筆を執る

あしひきの 山は無くもが 月見れば おなじき里を 心へなてつ
《この山が 無いとえなあ 月見たら 同じ里やに 思い届かん》
                         ―大伴家持おおとものやかもち―〔巻十八・四〇七六〕
我が背子せこが 古き垣内かきつの 桜花さくらばな いまだふふめり 一目ひとめ見に
《あんたた 元の屋敷の 桜花さくらばな 今つぼみやで 見にえへんか》
                         ―大伴家持おおとものやかもち―〔巻十八・四〇七七〕
ふといふは えも名付けたり 言ふすべの たづきも無きは が身なりけり
《「恋しい」は え言の葉や その他は 思い付かんわ わしの気持は》
                         ―大伴家持おおとものやかもち―〔巻十八・四〇七八〕
三島野みしまのに 霞たなびき しかすがに 昨日きのふ今日けふも 雪は降りつつ
三島野みしまのに 霞棚引く 春やのに 昨日も今日も 続いて雪や》
                         ―大伴家持おおとものやかもち―〔巻十八・四〇七九〕
                                   【三月十六日】 


家待・越中編(二)(02)後(ゆり)も逢はむと

2011年08月16日 | 家待・越中編(二)歌心湧出
【掲載日:平成23年4月26日】

百合ゆり花 ゆりも逢はむと 思へこそ
           今のまさかも  うるはしみすれ



年号が  改められた
天平二十一年〔749〕は  
四月十四日をって 天平かんぽうとなった
改元は 大仏鋳造ちゅうぞうに不足していた 黄金きん
陸奥むつの国 小田郷おだのこうりで出土 朝廷献上
みかど いたく感じ入り 感宝とされた
黄金こがね出土 改元の報に 
家待  さしたる感慨を覚えなかった
橘諸兄たちばなのもろえこころよしとしない 大仏造立ぞうりゅう故か

五月五日 家持は 東大寺僧平栄へいえいを 迎えた
東大寺に与えられた 開墾かいこん田地見聞けんぶん使いである
宴席  家持は 平栄から 
帝の 盧舎那佛るしゃなぶつへの傾倒振りを 耳にする
四月一日 
帝 東大寺におもむ
皇后 皇太子 ぐんしんひゃくりょう列し たみ参集のもと
橘諸兄もろえに大仏への詔書しょうしょを 読ませた
三宝ほとけやっこと仕え奉る天皇すめらみこと・・・』
帝の 政治動乱 天変地異を 畏怖いふ
自らの  安らぎ求めが ひしひし伝わる

うたげにおいて 酒を献じての歌詠み
今ひとつ  気に添わぬ家持 儀礼的

やき大刀たちを 砺波となみの関に 明日あすよりは 守部もりへり添へ 君をとどめむ
明日あしたから 砺波となみの関に 番人ばん置いて あんた帰るん 見張らしするわ》
                         ―大伴家持おおとものやかもち―〔巻十八・四〇八五〕
                                    【五月五日】 
平栄へいえいを 見送った数日後
さかん 秦石竹はだのいわたけの館 
百合ゆりばなかずらうたげ
夏の山百合を 豪華に飾り立てたかずらが用意
それぞれが 頭にせての宴
主人の粋な計らいが  集い面々の 陽気を誘う

あぶらの 光りに見ゆる 我がかづら さ百合ゆりの花の まはしきかも
あかりに くっきりえる このかづら 微笑ほほえみかける 百合ゆりはなかずら
                         ―大伴家持おおとものやかもち―〔巻十八・四〇八六〕

燈火ともしびの 光りに見ゆる さ百合ゆり花 ゆりも逢はむと 思ひそめてき
あかりに 浮かんで見える 百合ゆりの花 またまた次も 逢いとなったで》
                         ―内蔵縄麻呂くらのつなまろ―〔巻十八・四〇八七〕

百合ゆり花 ゆりも逢はむと 思へこそ 今のまさかも うるはしみすれ
《次にまた 逢いとう思う それやから 今日のうたげを 楽しゅう過ごそ》
                         ―大伴家持おおとものやかもち―〔巻十八・四〇八八〕
                                   【五月九日】 


家待・越中編(二)(03)あはれの鳥と

2011年08月12日 | 家待・越中編(二)歌心湧出
【掲載日:平成23年4月29日】

・・・聞くごとに  心つごきて うち嘆き あはれの鳥と 言はぬ時なし


霍公鳥ほととぎす
夏のおとずれ告げる 鳥
それ は 家持 心ときめかせの鳥
 主の励ましに 力を得て 詠う
 に 一年八カ月ぶりに詠む 長歌

高御座たかみくら あま日嗣ひつぎと 天皇すめろきの 神のみことの きこす 国のまほらに 
山をしも さはに多みと ももとりの て鳴く声 春されば ききかなしも
 
《天おさむ 日の神いだ 天皇おおきみの おおさめなさる え国に
 山仰山ぎょうさんに あるのんで いろんな鳥が 可愛かいらしに 春になったら 来て鳴くよ》
いづれをか きてしのはむ の花の 咲く月立てば めづらしく 鳴く霍公鳥ほととぎす
《特にどれとは わへんが の花開く 月なると え声で鳴く ほととぎす》
菖蒲草あやめぐさ たまくまでに 昼らし わたし聞けど 
聞くごとに  心つごきて うち嘆き あはれの鳥と 言はぬ時なし

菖蒲あやめの草を 薬玉たまにする 五月来るまで 鳴き続け 昼は日中ひなかじゅ 夜通よどおしで
 聞き続けても 胸おどり こころ満足 する鳥や 風心ええ鳥やなと いっつもおもう》
                         ―大伴家持おおとものやかもち―〔巻十八・四〇八九〕

行方ゆくへ無く あり渡るとも 霍公鳥ほととぎす 鳴きし渡らば かくやしのはむ
《ほととぎす 浮き世のさに 暮らしても 鳴き飛ぶ声で さ忘れるわ》
                         ―大伴家持おおとものやかもち―〔巻十八・四〇九〇〕
の花の ともにし鳴けば 霍公鳥ほととぎす いやめづらしも 名り鳴くなへ
の花の 咲く同時ときに鳴く ほととぎす ここぞの声に 心かれる》
                         ―大伴家持おおとものやかもち―〔巻十八・四〇九一〕
霍公鳥ほととぎす いとねたけくは たちばなの 花散る時に とよむる
《ほととぎす なんと小憎こにくい たちばなの 花散る好機じきに 声響かすん》
                         ―大伴家持おおとものやかもち―〔巻十八・四〇九二〕
                                    五月十日】

霍公 鳥の声に 心動かされた 家持
初夏 の薫りに誘われ
渋谿しぶたに 松田まつだ に 馬をらせて
の浜辺にと立つ
じょうが崎の断崖が 海にせり出す この浜
 からの風 まともに受け 白浜伸びる
夏吹く 東風あゆが 白波を 寄せている
家持 の胸に 湧く歌心と同じに 次々と 

英遠あをの浦に 寄する白波 いや増しに 立ちき寄せ 東風あゆいたみかも
英遠あを浦に 寄せて来る白波なみ 次々や 立ってかさなる 東風かぜ激しんや》
                         ―大伴家持おおとものやかもち―〔巻十八・四〇九三〕
                                    五月十日】



家待・越中編(二)(04)小田(をだ)なる山に

2011年08月09日 | 家待・越中編(二)歌心湧出
【掲載日:平成23年5月3日】

・・・とりが鳴く あづまの国の 陸奥みちのくの 小田をだなる山に 黄金くがねありと・・・


歌作りの心は 高揚こうよう芽生めばえを見ていた
 人麻呂殿 赤人殿の名を 
 確固たるものとした長歌ちょうか
 その長歌 何としても おのれのものとせねば〕 
思いにふける家持のもと
感涙 の 文書が届く

先の 僧へいえいらいえつ時には もたらされなかった
天下公民に発せられた『黄金こがね出土』の詔書しょうしょ
大伴おおとも佐伯さえき両氏に 言葉及び
《・・・その祖先 朝廷親衛軍として つかえ来たり
 功績甚大じんだいにして 今に及ぶ
 子孫 たるもの
 同じ の心もて 仕え奉るを旨とし・・・》

大伴家の本領とする 伴造とものみやつこのその名
帝の 詔書しょうしょに 麗麗れいれいしく記載
家持 感奮かんふん極に達し
ほとばし胸中むねなか 口をいて 歌となる

葦原あしはらの 瑞穂みづほの国を 天降あまくだり らしめしける 
皇御祖すめろきの 神のみことの 御代みよかさね 天の日嗣ひつぎと らしる 君の御代みよ御代みよ
 
あし育ち みのり豊かな この国を 天下あまくだられて おさめ来た
 ご先祖せんぞかみは だい重ね 後をがれて おさめらる 天皇すめらみことの 御代みよ御代みよに》
きませる 四方よもの国には 山川を 広みあつみと 
たてまつる 御調みつき宝は 数へえず くしもかねつ
 
《おおさめなさる 卿々くにぐには 山川おおて 豊かやで
 献上けんじょうされる 宝物 数え切れんに 多数ようけある》
しかれども 我が大君おほきみの 諸人もろひとを いざなひ給ひ 善き事を 始め給ひて 
黄金くがねかも 確けくあらむと 思ほして した悩ますに
 
《そうした中で 聖武帝おおきみが 民に呼び掛け 導かれ 大きな事業 起こされて
 黄金こがねの量が りるかと 心ひそかに なやまれた》
とりが鳴く あづまの国の 陸奥みちのくの 小田をだなる山に 黄金くがねありと 
申し給へれ 心を あきらめ給ひ
 
《丁度その時 陸奥みちのくの 小田おだの山から 黄金こがね出て
 知らせを受けた 天皇おおきみは 心晴れ晴れ なさられて》
天地あめつちの 神あひうづなひ 皇御祖すめろきの 御霊みたま助けて 
とほき代に かかりし事を 御代みよに あらはしてあれ  す国は 栄えむものと
 
《「起こした事業 たふといと 天地神々かみがみ 思われて ご先祖御霊みたま ご加護
 遠い昔に 起きたのと おんなじことを 我れに 起こされたんは この国が 栄える証拠あかし 違いない」 
かむながら 思ほしめして 物部もののふの 八十やそともを 衣従まつろへの 向けのまにまに 
老人おいひとも をみな童児わらはも が願ふ 心だらひに で給ひ おさめ給へば・・・・・・
 
おおせなされて 諸々の 臣下の心 まとめられ
 おいわかきも おんなも 願うところの 安らぎを 得られする様に 申された・・・》
                              【「にこそ死なめ」へ続く】


家待・越中編(二)(05)辺(へ)にこそ死なめ

2011年08月05日 | 家待・越中編(二)歌心湧出
【掲載日:平成23年5月6日】

・・・海行かば かばね 山行かば 草かばね 
                 大君おほきみの にこそ死なめ・・・



【「小田をだなる山に」続き】

・・・・・・此処ここをしも あやにたふとみ うれしけく いよよ思ひて 
大伴の 遠つ神祖かむおやの その名をば 大来目主おほくめぬしと ひ持ちて 仕へしつかさ
 
《・・・なんととおとい 有難い そこで思うで 大伴は
 遠い祖先を 大来米おおくめの ぬしと云う名を 自負じふしつつ つかえ来たった つわもので》
海行かば かばね 山行かば 草かばね 
大君おほきみの にこそ死なめ かへり見は せじと言立ことだ
 
《「海をったら 水にき 山をったら 草の中
 しかばねなろと 大君おほきみの 足元死ぬぞ 後悔は せん」と宣言うそぶき》
大夫ますらをの 清きその名を いにしへよ 今のをつつに ながさへる おや子等こどもぞ 
大伴と 佐伯さへきうぢは 人のおやの 立つる言立ことだて 人の子は おやの名絶たず 
大君おほきみに 奉仕まつろふものと 言ひげる ことつかさ
 
大夫ますらをの 由緒ゆいしょある名を 昔から 今に伝えた 末裔まつえい
 大伴佐伯さえき 氏の子は ご先祖様の 言葉り 氏の名前を 絶やさんと
 天皇すめらみことに おつかえし 奉仕一途いちずの 家柄と 言いがれ行く 氏族しぞくぞよ》
梓弓あづさゆみ 手に取り持ちて つるぎ大刀たち 腰に取りき 
朝守り ゆふの守りに 大君おほきみの 御門みかどの守り 我れをおきて 人はあらじと
 
あずさの弓を 手に持って つるぎ大刀たちを 腰に
 朝に守護しゅごして よるで 警護固めて 大君おほきみの 御門ごもん守るは わし以外 人はらんと》
いや立て 思ひしまさる 大君おほきみの 御言おことさちの 聞けばたふと
 《ふるい立ち たかぶりおるぞ 大君おほきみの 寿ことほぎ言葉 とおとに聞いて》
                         ―大伴家持おおとものやかもち―(巻十八・四〇九四)

大夫ますらをの 心おもほゆ 大君おほきみの 御言みことさちを 聞けばたふと
大夫ますらおの 心沸々ふつふつ 湧いてきた 大君おほきみ尊語ことば とおとに聞いて》
                         ―大伴家持おおとものやかもち―(巻十八・四〇九五)
大伴の とほ神祖かむおやの 奥津城おくつきは しるしめ立て 人の知るべく
《大伴の 遠い祖先の 存在ありどこを 立派に示せ 人知れるに》
                         ―大伴家持おおとものやかもち―(巻十八・四〇九六)
天皇すめろきの 御代みよ栄えむと あづまなる 陸奥みちのく山に 黄金くがね花咲く
天皇おおきみの 御代みよの栄える 兆候しるしやな 東国山とうごくやまで 黄金こがね出たんは》
                         ―大伴家持おおとものやかもち―(巻十八・四〇九七)
                                 五月十二日】


家待・越中編(二)(06)八十(やそ)氏人(うぢひと)も

2011年08月02日 | 家待・越中編(二)歌心湧出
【掲載日:平成23年5月10日】

物部もののふの 八十やそ氏人うぢひとも 吉野川
             絶ゆることなく  仕へつつ見む



帝の詔書しょうしょに 精神の高揚こうよう覚えた 家持
湧き上がる 制作意欲は 
次々 と 長歌の群れを生む
〔いまは こここしにこうして
 役目果たしに いそしみおるが
  やがてのこと 帰京がなれば
 ていによる 吉野行幸みゆきの 従駕じゅうがもあろう
 その折には 従駕歌 うたわねば〕

高御座たかみくら あま日嗣ひつぎと あめの下 知らしめしける 皇祖すめろきの 神のみことの 
かしこくも 始め給ひて たふとくも 定め給へる み吉野の この大宮に ありがよひ し給ふらし

《天おさむ 日の神いで この国を おおさめされた ご先祖が
 始めなさって 造られた このみ吉野の 大宮に 天皇おほきみ様が かよわれて ご覧なされる ここの宮》
物部もののふの 八十やそともも おのへる 己が名負なおひて 大君おほきみの けのまにまに 
この川の 絶ゆることなく この山の いやぎに かくしこそ 仕へまつらめ いやとほなが

《お仕え申す 我々も それぞれの 家名かめいち 天皇おほきみ様に 従って
 この川のに 有り続け 山の峰々 続くに 仕え続け ずうっとずっと》
                         ―大伴家持おおとものやかもち―〔巻十八・四〇九八〕

いにしへを 思ほすらしも 我が大君おほきみ 吉野の宮を ありがよ
《その昔 しのばれるか 大君おほきみは 吉野の宮に おかよいなさる》
                         ―大伴家持おおとものやかもち―〔巻十八・四〇九九〕
物部もののふの 八十やそ氏人うぢひとも 吉野川 絶ゆることなく 仕へつつ見む
《大勢の つかえの人も 吉野川 したがい続け 見続けするで》
                         ―大伴家持おおとものやかもち―〔巻十八・四一〇〇〕
                               五月十二日】

しょうむのみかどが 最後に吉野へ行かれたは
 確か  天平八年〔736〕
 あれ から 十三年 早いものだ
 わしは 内舎人うちとねりにも なってらなんだ
 藤原きょうの疫病死 橘諸兄 もろえ様左大臣
 広嗣ひろつぐが乱
 関東行幸みゆき に   京 紫香楽しがらき いろいろあった
 その後 の 朝廷は ごたごた続き・・・
 ああ 昔の 君臣しての 行幸みゆきうたげ 
 今一度 かなわぬものか〕
皇親こうしん穏健おんけん派 家持 思いに沈む
        ――――――――――――――
のち 天平勝宝二年〔750〕十月
河辺東人かわべのあずまひとから 入手の 天平八年吉野行幸みゆき時歌

朝霧の たなびく田居たゐに 鳴く雁を とどみ得むかも 我がやどの萩
《庭萩よ 朝霧なびく 田ぁで鳴く 雁のくんを められんかな》
                         ―光明皇后こうみょうこうごう―〔巻十九・四二二四〕