【掲載日:平成22年10月15日】
田跡川の 滝を清みか
古ゆ 宮仕へけむ 多芸の野の上に
広嗣蜂起 天平十二年〈740〉九月
攻め来たる皇軍に対し
「朝命叛きの意思無し 奸臣二人の処分が望み」
の広嗣奏上
この物言い 士気喪失となり 十月末 乱鎮圧
鎮圧の報 未だの 十月十九日
「朕 関東へ赴く 乱最中と謂えど 已む無し
鎮圧将軍 驚くなかるべし」との勅
軍装大部隊 車駕を固めて 伊勢へと向かう
突然の 行幸発令
右往左往の 従駕人の誰もが
御心を 測りかねていた
内舎人家持同行
河口頓宮 十日もの滞在 気を倦ます家持
河口の 野辺に廬りて 夜の経れば 妹が手本し 思ほゆるかも
《河口の 野宿の夜が 続いたで お前手枕 恋してならん》
―大伴家持―〈巻六・一〇二九〉
行幸は 伊賀 伊勢 美濃 近江と巡る
妹に恋ひ 吾の松原 見渡せば 潮干の潟に 鶴鳴き渡る
《お前恋い 吾の松原 見望むと 干潟へ鶴が 飛び鳴いて行く》
―聖武天皇―〈巻六・一〇三〇〉
後れにし 人を思はく 四泥の崎 木綿取り垂でて 好くとぞ思ふ
《残し来た お前思うて 四泥崎で 木綿張り垂らし 無事祈ったで》
―丹比屋主真人―〈巻六・一〇三一〉
天皇の 行幸のまにま 吾妹子が 手枕纏かず 月そ経にける
《天皇の 行幸お供で 日ィ過ぎた お前手枕 出けへんままで》
―大伴家持―〈巻六・一〇三二〉
御食つ国 志摩の海人ならし 真熊野の 小船に乗りて 沖辺漕ぐ見ゆ
《供御作る 志摩漁師かな 熊野船 乗って沖へと 漕いでく見える》
―大伴家持―〈巻六・一〇三三〉
古ゆ 人の言ひくる 老人の 変若つといふ水そ 名に負ふ瀧の瀬
《昔から 若なる水と 伝え言う 名前通りの この滝の瀬よ》
―大伴東人―〈巻六・一〇三四〉
田跡川の 滝を清みか 古ゆ 宮仕へけむ 多芸の野の上に
《田跡川の 激流清いんで 多芸の野で 行宮を作って 長ご仕え来た》
―大伴家持―〈巻六・一〇三五〉
関無くは 還りにだにも うち行きて 妹が手枕 纏きて寝ましを
《関無いと とんぼ帰りの 馬飛ばし お前手枕 しに帰るのに》
―大伴家持―〈巻六・一〇三六〉
二カ月近い長旅 一行は山背 甕の原に
甕の原こそ 橘諸兄 所縁の地
ここで 恭仁京新都 発令
藤原根城の 平城京 捨てられる運命に