令和・古典オリンピック

令和改元を期して、『日本の著名古典』の現代語訳著書を、ここに一挙公開!! 『中村マジック ここにあり!!』

家待・変そして因幡へ編(13)いや重(し)け吉事(よごと)

2012年01月13日 | 家待・変そして因幡へ編
【掲載日:平成24年1月13日】

あらたしき 年の始めの 初春の
        今日けふ降る雪の いや吉事よごと




明けて  天平宝字三年(759)正月
昨夜ゆうべからの雪が 見事に積もった
新春の朝日に えている
家持は 憂鬱ゆううつであった

 もう我々の時代は終わったのか
大伴 はこの国では
 のない氏族に成り下がったのか
 金村・狭手彦さでひこ以来の
もの のふの大伴は
どこ へ行ったのか
 ひな国守こくしゅごときに 留まってなるものか)

あらたしき春 迎えたというに
出て くるのは ぐちばかり

憂憤ゆうふんを押し殺して 
新年 の朝賀に臨む
賀を済ませてのうたげ
郡司ぐんじの面々が居並ぶ
み国守 家持のはからい
 は 歌会で始まる

それぞれ 
旧年 の内に精進した
 れこそはを披露する
いずれ の歌も
新年の迎えを寿ことほぐものだ
朗々 たる歌声の響くなか
家持 は推敲を重ねていた
順はめぐ
最後に 国守である家持がうた
列する 人々は
緊張のうちに耳をそばてる

あらたしき 年の始めの 初春の 今日けふ降る雪の いや吉事よごと
新年しんねんと 立春はつはる重なり 雪までも こんなえこと ますます積もれ》
                         ―大伴家持おおとものやかもち―(巻二十・四五一六)

年始 に立春の重なるめでたさ 
新雪 の清らかさ
降る 雪を思わせる「の」の繰り返し
ますます積み重なれと吉事よごとの寿ぎ
 
感嘆 のどよめきが静かに広がった

ひとり家持は 鬱然うつぜんたる思いでいた
(あらまほし吉事よごと か・・・)

数々の 歌停止ちょうじ
その時々 わけ無しとしないが
つい に 家持の歌作り
因幡の雪に うずもれる 

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家待・変そして因幡へ編(12)相(あひ)か別れむ

2012年01月10日 | 家待・変そして因幡へ編
【掲載日:平成24年1月10日】

秋風の 末吹きなびく 萩の花
        ともに插頭かざさず あひか別れむ




梅の花に代え 馬酔木あしびが 庭をいろどっていた
同じく 中臣清麻呂きよまろが屋敷
今日も こうしん派の集いうたげが 持たれていた

風物を楽しみ 景をみ 花を
風雅 に遊び 歌に結ぶ
これ 
政界の傍流ぼうりゅうに追いやられ
主流派の目を うかがいながらの宮仕え
不安からの 逃避む無きわざ

鴛鴦をしの住む 君がこの山斎しま 今日けふ見れば 馬酔木あしびの花も 咲きにけるかも
鴛鴦おしどりが んでる庭を 今日見たら 馬酔木あしびの花も 咲いとおるがな》
                         ―三形王みかたのおおきみ―(巻二十・四五一一)

池水に 影さへ見えて 咲きにほふ 馬酔木あしびの花を 袖に扱入こきれな
いけみずに 影をうつして 咲き誇る 馬酔木あしびの花を そでき入れ
                         ―大伴家持おおとものやかもち―(巻二十・四五一二)

いそかげの 見ゆる池水 照るまでに 咲ける馬酔木あしびの 散らまくしも
《磯景色げしき うつす池水 輝かせ 咲いてる馬酔木あしび 散らすんしな》
                         ―甘南備伊香かんなびのいかご―(巻二十・四五一三)

馬酔木あしび咲く庭 
何時いつしか 春のおぼろは 更けていく

天平 宝字二年(758)六月十六日
家持 に 突如の任
因幡いなばこくしゅ
上国じょうこくではあるが ちゅうべんとしては 左遷
奈良 麻呂の変 家持に及びしか

七月五日 大原今城いまき
家持 送別酒宴うたげ
集いし旧知とも 飲み うたい 交歓こうかん尽くすも
別れの酒は にが

秋風の 末吹きなびく 萩の花 ともに插頭かざさず あひか別れむ
《秋風が 吹きなびかせる 萩の花 髪插頭かざさんで 別れんやろか》
                         ―大伴家持おおとものやかもち―(巻二十・四五一五)

秋風吹く 都門みやこもんくぐ
山陰 任地に向かう 家持
同じく 天離あまざかるひなとはいえ
越中へ向かいし気負きおいに比べ
辿たどる 道の気重さ 
一概 年齢とし所為せいばかりでない

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家待・変そして因幡へ編(11)御代(みよ)遠(とほ)退(そ)けば

2012年01月06日 | 家待・変そして因幡へ編
【掲載日:平成24年1月6日】

高円たかまとの 野のうへの宮は 荒れにけり
             立たしし君の 御代みよとほ退けば




わしての 唱和しょうわが続く中
 言うとなく 
話題は 昔のき日に移っていく
あれ は 天平十年(738)ころ であったろうか
聖武のみかどの 高円たかまど離宮遊行ゆうこう
橘諸兄もろえ様が 右大臣となり 政権を保たれていた
かれこれ  二十年か
それぞれに 若く 青雲の志 いだいておった
藤原広嗣ひろつぐ反乱このかたの 政局混迷
みやこ放浪の末の 廬舎那大佛るしゃなだいぶつ造立ぞうりゅう
徐々に力付けし 藤原仲麻呂なかまろ台頭たいとう
そんな 中 高円離宮は 
訪ねる人とて無く 荒廃こうはい
そして 帝崩御ほうぎょ 橘諸兄もろえ様他界 
ついに 変の勃発ぼっぱつ
藤原仲麻呂なかまろの権力完全掌握しょうあく

それぞれが 胸の去来きょらいを包んだまま
今は 荒れ果てた 高円たかまど離宮みやを偲ぶ

高円たかまとの 野のうへの宮は 荒れにけり 立たしし君の 御代みよとほ退けば
高円たかまどの うえ宮は 荒れて仕舞た あのかた御代みよ 遠なったんで》
                         ―大伴家持おおとものやかもち―(巻二十・四五〇六)

高円たかまとの うへの宮は 荒れぬとも 立たしし君の 御名みな忘れめや
高円たかまどの 峰の上宮うえみや 荒れたけど お立ちの御名みなは 忘れられんが》
                         ―大原今城おおはらのいまき―(巻二十・四五〇七)

高円たかまとの 野辺のへくずの すゑつひに 千代ちよに忘れむ 我が大君おほきみかも
高円たかまどの 野辺葛蔓つるの 先々も 忘れるような 天皇おおきみちゃうぞ》
                         ―中臣清麻呂なかとみのきよまろ―(巻二十・四五〇八)

くずの 絶えずしのはむ 大君おほきみの しし野辺のへには しめふべしも
葛蔓つるの先 先々しのぶ 天皇おおきみの ご覧の野辺を 荒らしてなるか》
                         ―大伴家持おおとものやかもち―(巻二十・四五〇九)

大君おほきみの ぎてすらし 高円たかまとの 野辺のへ見るごとに のみし泣かゆ
天皇おおきみが 今もご覧の 高円たかまどの 野辺見るたんび 泣けて来るがな》
                         ―甘南備伊香かんなびのいかご―(巻二十・四五一〇)

しみじみ とした 空気漂う中
往古いにしえ偲ぶ 面々
思い出す  野辺吹く風 
今更ながら 胸み渡る

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家待・変そして因幡へ編(10)今日けふ)の主人(あるじ)は

2012年01月03日 | 家待・変そして因幡へ編
【掲載日:平成24年1月3日】

しきよし 今日けふ主人あろじ
         いそまつの つねにいまさね 今も見るごと




中臣清麻呂なかとみのきよまろ
庭に池 水めぐる岸辺に松 
梅花うめはなほころび 水面みなも揺らすは鴛鴦おしどり
こうしん派 つどうたげ さすがに 気の張りは無い

うらめしく 君はもあるか やどの梅の 散り過ぐるまで 見しめずありける
うらめしな 清麻呂あんたずるいで ここの梅 散って仕舞うまで 見させんといて》
                         ―大原今城おおはらのいまき―(巻二十・四四九六)
見むと言はば いなと言はめや 梅の花 散り過ぐるまで 君が来まさぬ
《見たいなと 言うたら見せた 梅の花 散って仕舞うまで んといてから》
                         ―中臣清麻呂なかとみのきよまろ―(巻二十・四四九七)

梅の花 をかぐはしみ とほけども 心もしのに 君をしぞ思ふ
《梅のの 清麻呂あんたかぐわし 遠いけど 心一途いちずに しとうています》
                         ―市原王いちはらのおおきみ―(巻二十・四五〇〇)

梅の花 咲き散る春の 長き日を 見れどもかぬ いそにもあるかも
梅花うめはなが 咲き散る春の 日暮れまで 見きん景色 この池磯辺いそべ
                         ―甘南備伊香かんなびのいかご―(巻二十・四五〇二)

君がいへの 池の白波しらなみ 磯に寄せ しばしば見とも かむ君かも
《池の磯 寄せる白波 しばしばや しばしば見ても 清麻呂あんた素晴らし》
                         ―大伴家持おおとものやかもち―(巻二十・四五〇三)

うるはしと あがふ君は いやに ませ我が背子せこ 絶ゆる日なしに
《素晴らしと 思う家持あんたよ 毎日も かよておいでや 日ぃやさんと》
                         ―中臣清麻呂なかとみのきよまろ―(巻二十・四五〇四)

磯の浦に つねむ 鴛鴦をしどりの しきあが身は 君がまにまに
いけきしに 鴛鴦おしどりの し思う 私の命 お心次第しだい
                         ―大原今城おおはらのいまき―(巻二十・四五〇五)

八千種やちくさの 花はうつろふ 常盤ときはなる 松のさえだを 我れは結ばな
《色々な 花はしおれる 常緑つねあおの 松枝まつえだ結び 弥栄いやさか祈ろ》
                         ―大伴家持おおとものやかもち―(巻二十・四五〇一)
しきよし 今日けふ主人あろじは いそまつの つねにいまさね 今も見るごと
したわしい 主人あるじ清麻呂あんた 今のまま 達者でって 松の葉みたい》
                         ―大伴家持おおとものやかもち―(巻二十・四四九八)
我が背子せこし かくしきこさば 天地あめつちの 神をる 長くとぞ思ふ
《そんなに うてくれるか 神さんに お願い頼み 長生き仕様しょうか》
                         ―中臣清麻呂なかとみのきよまろ―(巻二十・四四九九)

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家待・変そして因幡へ編(09)水底(みなそこ)深く

2011年12月30日 | 家待・変そして因幡へ編
【掲載日:平成23年12月30日】

大き海の 水底みなそこ深く 思ひつつ
              裳引もびならしし 菅原すがはらの里




先ほど より 長い思いが続いている
文机ふづくえ前に 端座たんざの家持
 に 歌一首

大き海の 水底みなそこ深く 思ひつつ 裳引もびならしし 菅原すがはらの里
《裾引いて ふこうに心 思いつめ し待った 菅原すがわらの里》
                         ―藤原宿奈麻呂妻ふじわらのすくなまろのつま―(巻二十・四四九一)

何故なにゆえに この歌 手元に
 藤原宿奈麻呂すくなまろ殿といえば
  先の 天平勝宝七年(755)二月
 防人さきもり検閲の折 相模守さがみのかみとして 引率いんそつ
その時 交誼こうぎを得たが
藤原仲麻呂なかまろ非難の舌鋒ぜっぽう鋭く
相変わらずの 血気けっきであった
過ぐる 天平十二年(740)藤原広嗣ひろつぐの乱
異母 弟ながら 連座し 伊豆流罪
二年 余りで 召還されたが 
不遇をかこっていた
 水底深く 思いつつ』か・・・)
《後年〈宝字七年(763)〉藤原仲麻呂が恵美押勝えみおしかつとなり その権勢欲しいままを いきどおり 押勝暗殺計画画策かくさく折 家持を誘うが この時 家持 知るよしもない》

天平 宝字二年(758)は 穏やかに明けた
明けるとすぐに うたげが待つ

【正月三日】たまはばきたまわっての内裏だいり
初春はつはるの 初子はつね今日けふの たまはばき 手に取るからに 揺らくたま
《新春の 初子はつねもらう たまほうき ろたら揺れる たま飾り房》
                         ―大伴家持おおとものやかもち―(巻二十・四四九三)
家持  用意するも 大蔵省関係任務で 奏せず

【正月七日の白馬あおうま節会せちえのため作歌】
水鳥みづとりの 鴨羽かもはの色の 青馬あをうまを 今日けふ見る人は かぎりなしといふ
《水鳥の 鴨はねいろの 青い馬 この日見た人 長生きうで》
                         ―大伴家持おおとものやかもち―(巻二十・四四九四)
前日 宮中般若経はんにゃきょう講義儀式 酒宴あり 奏せず

 正月六日】その酒宴
うちなびく 春ともしるく うぐひすは 植木の木間こまを 鳴き渡らなむ
《待っていた 春とはっきり 分かるに 鶯鳴けよ 木ぃ飛び移り》
                         ―大伴家持おおとものやかもち―(巻二十・四四九五)
家持  これも 奏さず

【二月十日】紫微しび内相ないしょう 藤原仲麻呂ふじわらのなかまろ宅 
      渤海ぼっかい国派遣の大使ら派遣 はなむけうたげ
青海原あをうなはら 風波かぜなみなびき 行くささ つつむこと無く 船は早けむ
海原うなばらは え風吹いて き帰り つつが船は 早よに進むで》
                         ―大伴家持おおとものやかもち―(巻二十・四五一四)
準備するも ぎんぜず

果たして  家持に 何が

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家待・変そして因幡へ編(08)狂業(たはわざ)なせそ

2011年12月27日 | 家待・変そして因幡へ編
【掲載日:平成23年12月27日】

いざ児ども 狂業たはわざなせそ
       天地あめつちの 堅めし国ぞ 大和やまと島根は




変後 の 民政安定のため
ばやの 施策せさく実施
 変一部始終 天下に公表
 改元 「天平宝字」に
徭役ようえき 年間六〇日を半減
 東国防人 廃止
藤原仲麻呂権勢 最早 とどめるものとてない

天平 宝字元年(757)十一月一八日
内裏だいり みかど主催の宴
新たに皇太子となった 大炊おおいおう・仲麻呂はうた

天地あめつちを 照らす日月の きはみ無く あるべきものを 何をか思はむ
《天と地を 照らし続ける 日や月に 限りは無いぞ 間違まちがいなしに》
                         ―大炊王おおいのおおきみ―(巻二十・四四八六)

いざ児ども 狂業たはわざなせそ 天地あめつちの 堅めし国ぞ 大和やまと島根は
《お前達 たわおこない 致すなよ 神々おわす(わし仕切ってる) この大和やまと国》
                         ―藤原仲麻呂ふじわらのなかまろ―(巻二十・四四八七)

列席 一同 平伏するしかない

騒擾そうじょうの 改元ねん
ようやく の 平穏取り戻し 暮を迎える
十二月 一八日
家持は 三形みかたおう屋敷のうたげにいた
変後の異動で ちゅうべんとなり
太政官だじょうかん執行部に席し 気を安らげていた

変直後の 重苦しさから かれたかに
つどいし面々 穏やかな歌が続く

み雪降る 冬は今日けふのみ うぐひすの 鳴かむ春へは 明日あすにしあるらし
 雪の降る 冬今日限り 鶯の 鳴く春来るん もうすぐそこや》
                         ―三形王みかたのおおきみ―(巻二十・四四八八)

うちなびく 春を近みか ぬばたまの 今夜こよひ月夜つくよ 霞みたるらむ
 うららかな 春近づいて もうそこや 今夜の月は 霞んでおるよ》
                         ―甘南備伊香かんなびのいかご―(巻二十・四四八九)

あらたまの 年行きがへり 春立たば まづ我がやどに うぐひすは鳴け
《鶯よ 年あらたまり 春来たら まずうちの庭 来て鳴くんやで》
                         ―大伴家持おおとものやかもち―(巻二十・四四九〇)

十二月二三日 大原今城おおはらのいまき宅での うたげ
ここ でも 家持 
 心地が 見える
  
めば いまだ冬なり しかすがに 霞たなびく 春立ちぬとか
《霞立ち 春来たみたい なびいてる 月かぞえたら まだ冬やのに》
                         ―大伴家持おおとものやかもち―(巻二十・四四九二)

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家待・変そして因幡へ編(07)昔の人し

2011年12月23日 | 家待・変そして因幡へ編
【掲載日:平成23年12月23日】

うつり行く 時見るごとに
         心痛く 昔の人し 思ほゆるかも




目まぐるしい  状況変化の中
六月二十三日 三形みかたおう屋敷にての うたげ
家持 詠いし心 何処いずれ

うつり行く 時見るごとに 心痛く 昔の人し 思ほゆるかも
《時うつり 世うつたびに 胸痛い うなった人 思い出される》
                         ―大伴家持おおとものやかもち―(巻二十・四四八三)

昔の人は 橘諸兄もろえなりや
こうしんかなめを偲び 橘諸兄もろえ有りせばか・・・

六月二十九日 最終謀議ぼうぎ 塩汁すすり 蜂起ほうき誓い
七月 二日 夕刻を期し
田村藤原仲麻呂なかまろ邸襲撃
仲麻呂 殺害 
皇太子・皇太后・孝謙帝退しりぞけ 
王位 交替実現

六月末より 密告しき
山背王やましろおう巨勢堺麻呂こせのさかいまろ上道かみつみちの・犬養佐美麻呂・佐味さみの宮守みやもり
蜂起ほうき計画 筒抜け

二日 より 逮捕相次ぐ
拷問ごうもん撲殺ぼくさつ
黄文きぶみおう道祖王ふなどおう・大伴古麻呂・丹比たじひの犢養うしかい・小野東人あずまひと賀茂かものつのたり
 流罪】
安宿あすかべおう夫妻・佐伯さえきの大成おおなり・大伴古慈斐こじひ丹比国人たじひのくにひと・大伴駿河麻呂・答本たほの忠節ちゅうせつ
 失脚・投獄・獄死?】
丹比たじひのいや麻呂まろ・大伴池主・丹比鷹主たじひのたかぬし・大伴兄人えひと

再三誘い受けし 佐伯さえきの全成またなり 自白後自害
くわだて知りし 右大臣藤原ふじわらのとよなり・三男乙縄おとただ 左遷
記録 は触れない 首謀者奈良麻呂
おそらくは 極刑きょっけい免れ得ず

騒然そうぜんたる 変後の 内裏だいり内外
一人  家持は 身を振り返っていた

咲く花は うつろふ時あり あしひきの やますがの根し 長くはありけり
《美しに 咲く花何時いつか おとろえて 菅の根だけは 長う伸びとる》
                         ―大伴家持おおとものやかもち―(巻二十・四四八四)

時の花 いやめづらしも かくしこそ あきらめめ 秋立つごとに
《秋の花 見事咲いてる 秋ごとに 花見て心 晴らされてたな》
                         ―大伴家持おおとものやかもち―(巻二十・四四八五)

 花も移ろい 時も移ろい 人もまた・・・
 伴造とものみやつこ役目の心決め 悔いはせぬが・・・
 独り 残って仕舞しもうた
  あの人も この人も
  花見ての 心晴らし されていたに
  見ても 晴れぬわ)

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家待・変そして因幡へ編(06)八峰(やつを)の椿

2011年12月20日 | 家待・変そして因幡へ編
【掲載日:平成23年12月20日】

あしひきの 八峰やつをの椿
         つらつらに 見ともかめや 植ゑてける君




 変わり 天平勝宝九年(757)
新年早々 訃報ふほうが届く
正月六日 元左大臣橘諸兄たちばなのもろえ 死去
時代 は 着実に 移りつつある

三月 四日
兵部ひょうぶ大丞だいじょう 大原今城おおはらのいまき宅 うたげ
兵部少輔ひょうぶのしょう 大伴家持 参席
兵部ひょうぶきょう 橘奈良麻呂たちばなのならまろ 服喪ふくも 不参

あしひきの 八峰やつをの椿 つらつらに 見ともかめや 植ゑてける君
《峰々の 椿つややか それ庭に 植えた今城あんたに れするわ》
                         ―大伴家持おおとものやかもち―(巻二十・四四八一)

席上 大原今城いまき 思いも掛けない歌披露

堀江越え とほき里まで 送りる 君が心は 忘らゆましじ
《堀江越え 遠いとこまで 送り来た 今城あんた心 わし忘れへん》
                         ―藤原執弓ふじわらのとりゆみ―(巻二十・四四八二)

藤原執弓とりゆみ 今を時めく 藤原仲麻呂次男
与えられし歌 臆面おくめんなく披露の今城
いずれとも くみせずの 超然ちょうぜん家持知ってか

橘諸兄もろえ死去に 重石おもし取れたか 藤原仲麻呂
いっせいの 局面展開

 三月二十日】
女帝寝殿 とばり裏に『天下太平』文字出現
瑞祥ずいしょう現るとし 親王・群臣に披露
 三月二十九日】
聖武 今際いまわに立てし皇太子 道祖王ふなどおうを廃す
 四月四日】
大炊王おおいおう 皇嗣こうしに決定
 は 藤原仲麻呂の亡き長男の元妻
大炊王おう 仲麻呂田村私邸に起居ききょ
 五月四日】
大宮改修につき みかど 仲麻呂田村私邸へ
 五月二十日】
藤原仲麻呂 紫微しび内相ないしょう
軍事指揮権掌握しょうあく
 六月九日】
 五条発布
やから集会禁止 
 馬数制限 
随身ずいしん兵数制限 
 京内武器保持禁断 
 京内二十騎行き交い禁止
 六月十六日】
人事異動  発令
奈良麻呂 兵部ひょうぶきょう解任
後任 石川年足いしかわのとしたり(七〇歳)
家持 兵部大輔ひょうぶのたいふ昇格

藤原仲麻呂 着々の警戒ぞなえの中
奈良麻呂 六月中 三度の謀議ぼうぎ
真綿絞めに 焦燥しょうそうつのりしか


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家待・変そして因幡へ編(05)しくしく君に

2011年12月16日 | 家待・変そして因幡へ編
【掲載日:平成23年12月16日】

奥山の しきみが花の 名のごとや
            しくしく君に 恋ひわたりなむ 




安宿奈杼麻呂などまろ 奈良邸宴の後
半月 ばかり
池主宅での飲宴うたげ
招待客 大原今城いまきの歌に 涙する池主

初雪は 千重ちへに降りしけ 恋ひしくの 多かる我れは 見つつしのはむ
《初雪よ 積りに積もれ 逢いとうて たまらんわしは 見てしのぶから》
                         ―大原今城おおはらのいまき―(巻二十・四四七五)

 今日も雪じゃが 
 何故なにゆえの 初雪? 初雪は新年の雪
  初雪見て 偲ぼうと言うか
 年明けては 最早もはや逢えぬとか・・・)

奥山の しきみが花の 名のごとや しくしく君に 恋ひわたりなむ
《奥山の しきみの花の 名前り しきりにあんた 逢いとなるんか》
                         ―大原今城おおはらのいまき―(巻二十・四四七六)
                                【十一月二十三日】

 『しくしく 恋わたりなむ』
 まして 仏前供えの『しきみ
 まるで 死別しわかれ歌じゃ
  おおう そうかそうか
 これは 正しく すけ殿どの託しの 別離わかれ
  おおぉ 輔殿・・・ 輔殿・・・)

夕霧に 千鳥の鳴きし 佐保さほをば 荒しやしてむ 見るよしを無み
《夕霧に 千鳥鳴いてた 佐保の道 かよけんで 荒れて仕舞うんか》
                         ―圓方女王まとかたのおおきみ―(巻二十・四四七七)

佐保川に こほり渡れる 薄氷うすらびの 薄き心を 我が思はなくに
《佐保川に 敷き詰め張った 薄氷 わしの思いは うすうはないで》
                         ―大原櫻井おおはらのさくらい―(巻二十・四四七八)

朝夕あさよひに のみし泣けば やき大刀たちの ごころれは 思ひかねつも
《朝に晩 泣きに泣いたら えて仕舞て しっかり心 くして仕舞しもた》
                         ―藤原氷上夫人ふじわらのひかみのふにん―(巻二十・四四七九)

かしこきや あめ御門みかどを けつれば のみし泣かゆ 朝夕あさよひにして
 朝廷の 今の様子を 思うたら 泣けに泣けるで 朝昼なしに》
                          ―作者未詳―(巻二十・四四八〇)

大原今城いまき殿
  『これは 手に入れし 古い歌じゃが』
  と 残せし歌
 皆々 挽歌ばんかもしくは 挽歌まがい
それ に 佐保路 佐保川・・・
全てこれ すけ殿どのが おもんばかり・・・)

 主に 今更ながらの 奈良麻呂同調悔やみ


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家待・変そして因幡へ編(04)さやかに聞きつ

2011年12月13日 | 家待・変そして因幡へ編
【掲載日:平成23年12月13日】

むらとりの 朝にし
        君がうへは さやかに聞きつ 思ひし如く




藤原仲麻呂なかまろ
橘奈良麻呂ならまろ
 決めした 家持
おくすること無き 動き

天平 勝宝八年(756)十一月八日
安宿奈杼麻呂あすかべのなどまろ 奈良屋敷でのうたげ
主客 安宿王あすかべおう

奈杼麻呂などまろ披露の歌は
出雲にての 勤務報告上京はなむけうたげ
かみ山背王やましろおうと じょう奈杼麻呂などまろとの 交わし歌
なんと 出雲守山背王 古慈斐こじひ解任後釜あとがま

大君おほきみの みことかしこみ の浦を 背向そがひに見つつ 都へ上る
《国からの 役向やくむけうけて 大の浦 景色も見んと 都目指めざすよ》
                         ―安宿奈杼麻呂あすかべのなどまろ―(巻二十・四四七二)

うちひさす  都の人に 告げまくは 見し日の如く ありと告げこそ
《着いたなら 都の人に うてんか わし変わらんと 元気でると》
                         ―山背王やましろのおおきみ―(巻二十・四四七三)

 入手の家持 
早速に 山背王おうに和しての返し歌

むらとりの 朝にし 君がうへは さやかに聞きつ 思ひし如く
《朝よに 行かれた山背王あんた 思たり 元気無事やと うかがいました》
                         ―大伴家持おおとものやかもち―(巻二十・四四七四)

この 安宿奈杼麻呂などまろ 奈良邸うたげ
いかにも いわ
主客安宿王あすかべおう 黄文王きぶみおうの兄
黄文 王 奈良麻呂派 盟主の一
 にて 安宿王 佐渡流罪
山背王やましろおう 黄文王の弟
長屋王ながやおうなるも 母藤原不比等むすめ
 にて 奈良麻呂密告の役割

家持  何を思うての 返し歌 

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家待・変そして因幡へ編(03)雪にあへ照る

2011年12月09日 | 家待・変そして因幡へ編
【掲載日:平成23年12月9日】

消残けのこりの 雪にあへ照る
      あしひきの 山たちばなを つと




 諭し公言』した今
家持に 躊躇ためらいはなかった
天皇おおきみ利用したてまつり 握りし権勢おごる 藤原仲麻呂なかまろ
 天皇おおきみ排したてまつり 新たな権力狙う 橘奈良麻呂ならまろ
 藤原仲麻呂なかまろあら
 橘奈良麻呂ならまろあら
 家持 必ずや 伴造とものみやつこの道
 皇室やんごとなきどころ守護まもりの道 貫き通さでか)

壬申じんしん(672)の昔
 天皇すめらみことに 付き従い
 飛鳥浄御原あすかきよみはら御代みよ作りに お役立ちの祖先
  恥ずべきする 家持に 御座いませぬ)

大君おほきみは 神にしせば 赤駒の 腹這はらば田居たゐを みやこと成しつ
天皇おおきみは 神さんやから 赤馬が 腹這はらばう田んぼ 都しはった》
                         ―大伴御行おおとものみゆき―(巻十九・四二六〇)

大君おほきみは 神にしせば 水鳥みづとりの すだく水沼みぬまを みやこと成しつ
天皇おおきみは 神さんやから 水鳥みずどりの れてる沼を 都しはった》
                         ―作者未詳さくしやみしょう―(巻十九・四二六一)

天皇おおきみが 政治まつりの全てであった あの頃
 時変わり 律令が政治おさめいしずえとなった今
 官人つかさびと中心は 致し方なけれど
 皇室やんごとなきどころないがしろは 頂けぬ
  じゃとて
皇室やんごとなきどころ繋がりおおきみ担ぎ 新た天皇すめらみこと画策
 いずれも 同じ穴のむじな

消残けのこりの 雪にあへ照る あしひきの 山たちばなを つと
《消え残る 雪にえてる たちばなを 土産みやげするため 摘んでたいな》
                         ―大伴家持おおとものやかもち―(巻二十・四四七一)
                          【十一月五日】
純白じゅんぱく雪にえる やまたちばなの赤い実
真心まごころ貫きし 赤心せきしん橘諸兄もろえを 懐かしむ家持

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家待・変そして因幡へ編(02)なほし願ひつ

2011年12月06日 | 家待・変そして因幡へ編
【掲載日:平成23年12月6日】

水泡みつぼなす れる身ぞとは 知れれども
             なほし願ひつ 千歳ちとせの命を




 池主殿 それは ならぬぞ
仲麻呂殿の されよう 如何いか無道むどうと云え
天皇おおきみ 皇太后様 巻き込む所業しょぎょうは ならぬ
皇室やんごとなきどころ守護まもり任ずる 大伴
伴造とものみやつこ役目 
守りきたる ご先祖に あだ為すもの
ならぬ  ならぬ」
すけ殿どのの申し条
分かればこその 進言しんげんでござる
大伴 一族 すでに 一家を立てしは 多く
まとまっての団結 望むべく無く
古慈斐こじひ殿 古麻呂殿 奈良麻呂殿と結盟けつめい
我輩それがしも 参ずる所存 固めし処
元より  成算薄きは 承知の上
然れば こその 願い事
大伴家 存続 
すけ殿どのが手に ゆだねられております
佐保大納言家一族への さとしの公言
これ 無くしての 
生き延び 手段 御座いませぬ
古慈斐殿 讒言ざんげん
まさ に 仲麻呂が宣戦布告
今をいて 
やからさとし公言』の好機 御座いませぬ」

 思えば 何と云う時代に 巡り合わせたことか
一族 が 散り散りになる事態
進む も地獄 残るも地獄
池主 殿 申して居った
『以後の行き かなわぬゆえ
お目 もじは これが最後
最早もはや お会いせぬが 一族が為』
万端ばんたん む無しの 『族諭やからさとしし公言』
発すれど 蜂起ほうき止める術なし
皇室やんごとなきどころ守護まもりが 大伴役目
佐保大納言家 いや 家持一人いちにんなりとも
 たさで なるものか・・・)

身の病に 沈鬱しずみ心の病
家持 は 思わずに 仏を祈る

うつせみは かず無き身なり 山川の さやけき見つつ 道を尋ねな
《人の世は はかないもんや 山川の 清さ見つめて 修行しゅぎょうはげも》
                         ―大伴家持おおとものやかもち―(巻二十・四四六八)

渡る日の 影にきほひて 尋ねてな きよきその道 またもはむため
《毎日を 日数ひかずかさねて 尋ねこ さとりの道を 来世らいせために》
                         ―大伴家持おおとものやかもち―(巻二十・四四六九)

水泡みつぼなす れる身ぞとは 知れれども なほし願ひつ 千歳ちとせの命を
《水に浮く あぶくみたいな 身やけども ねごうてみるで 千年せんねんいのち
                         ―大伴家持おおとものやかもち―(巻二十・四四七〇)
                                   【六月十七日】

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家待・変そして因幡へ編(01)いよよ研(と)ぐべし

2011年12月02日 | 家待・変そして因幡へ編
【掲載日:平成23年12月2日】

つるぎ大刀たち いよよぐべし
     いにしへゆ さやけくひて にしその名ぞ




聖武帝 崩御ほうぎょ
失意最中さなかの 家持に 追い打ち
同族 大伴古慈斐おおとものこじひ 朝廷誹謗ひぼうで逮捕(五月十日)
 謙天皇 勅により 放免(十三日)も 
淡海三船おうみのみふね讒言ざんげんにより 出雲守いずものかみ解任
仲麻呂 の魔手 遂に動くかに
政界 動揺 不安は広がる

あれこれ思いわずらう 家持
心疲れが こうじ 病のとこ
苦慮 に沈み やがての決意
やからさとす歌』の したため 六月十七日

久方の あまの戸開き 高千穂の たけ天降あもりし 皇祖すめろきの 神の御代みよより 
高天原たかまがはらの あま開き 高千穂たかちほだけに 天下あまくだられた 天皇おおきみ祖先そせん 神さんから》
はじゆみを 手握たにぎり持たし 鹿児かごを 手挟たばさみ添へて 大久米おほくめの ますら健男たけをを 先に立て ゆき取りほせ 山川を いはさくみて 踏みとほり 国ぎしつつ 
《弓に持って 矢を脇抱わきかかえ 勇者大久米おおくめ 先頭立たせ ゆぎって 山川越えて 岩根いわね踏みき 国土りょうちを求め》
ちはやぶる 神を言向ことむけ 衣従まつろはぬ 人をもやはし 掃き清め 仕へ奉りて 
《張り合いがみの 心をほどき さからうものを さとしてくだし 天下平定へいてい 成し遂げられて》
蜻蛉島あきづしま 大和やまとの国の 橿原かしはらの 畝傍うねびの宮に 宮柱 太知り立てて あめの下 知らしめしける 皇祖すめろきの あめ日嗣ひつぎと ぎてる 君の御代みよ御代みよ 
《ここの大和やまとの 橿原かしはら畝傍うねび 宮殿柱みやどのばしら 立派に立てて 国を開かれ おおさめされた 天皇すめらみことの あと次々と いで来られた その御代みよ御代みよで》
かくさはぬ 赤き心を 皇辺すめらへに きはめ尽して 仕へる おやつかさと 言立ことだてて 授け給へる 子孫うみのこの いやぎに 
まことごころ 一途いちずと尽くし おつかえ申した 一族祖先そせん 心められ 天皇おおきみ様が これが役目と おさずけされた つかさ名前を 次々子孫しそん
見る人の 語りぎてて 聞く人の かがみにせむを あたらしき 清きその名ぞ 
《見ては言いぎ 聞いては手本てほん 有りがと受けた その名は清い》
おぼろかに 心思ひて 虚言むなことも おやの名つな 大伴の うぢと名にへる 大夫ますらをとも
あだおろそか やすなその名 うじに大伴 その名を付けた 我ら一族 心をいたせ》
大伴家持おおとものやかもち―(巻二十・四四六五)

磯城島しきしまの 大和やまとの国に 明らけき 名にともの男 心つとめよ
大和やまと国 隠れ無き名の 大伴の 一族我ら 心しはげめ》
                         ―大伴家持おおとものやかもち―(巻二十・四四六六)

つるぎ大刀たち いよよぐべし いにしへゆ さやけくひて にしその名ぞ
大刀たちみがき 心をげよ 昔から けがれも無しに 伝えきた名ぞ》
                         ―大伴家持おおとものやかもち―(巻二十・四四六七)

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