まどか先生の「ママ達のおやつ」

ママの笑顔は、我が子が幸せであるためのママ・マジック。ママが笑顔であるために、この「おやつ」が役立つことを願っています!

確かに利発な少年だったけど・・・

2007年01月16日 | う゛う゛ー

 先日、電車に乗り込むと、突然に携帯電話が鳴りました 電話ではなく、メールだったためにすぐに音は鳴りやみましたが、それでも、確かに派手に携帯電話は鳴りました
 すっかり言い訳ですが・・・24時間、携帯電話をオンにしている私は、頻繁にマナーモードにしたり解除したりを繰り返します。昨日は、ついうっかり電車に乗る時にマナーモードをオンにするのを忘れたままで乗り込んでしまったのでした

 そう、その電話が鳴ったとたん、前に座っていた2年生くらいに見える、ランドセルを背負った男の子が・・・
  「マナーモードにしてください
と、すかさず私に注意をしました
 比較的静かだった車内に鳴り響いた着信音で、すっかり動揺してしまっていた私は、すぐに慌てて携帯電話の操作をしながら、
  「ほんと、その通りよねごめんなさいね」と応えました。
 男の子は、次の駅で降りて行きました
 
 とっても賢そうな、しっかりとした子でした
電車の中では、携帯電話はマナーモードにする!それは、誰もが守るべき極々当たり前のルールです。
 大声でしゃべるような女子高生や、傍若無人ないまどきの若者でもあるまいし、ついうっかりとは言えそんなマナーも守れず、車内で大きな着信音を響かせたオバサンは、叱られて当然です

 でも・・・どうしてなのか、私の気分はしっくりとはいきませんでした。何と言おうと私が悪いのです それでもなお、何だかすっきりしない・・・
 私に注意をした男の子は、間違っていません。ましてや、勇気をもって大人に注意をするなんて、とてもすばらしい行為です でも・・・

 同乗していた私の友人も、じつは同じ気分を感じていたらしく、少年が降りた後、「むー、確かに、あの子の言う通りなんだけどね・・・」と言いました。
 ああ、彼女も私と同じ気持ちなんだな。彼女のそのひと言で、急に私も、「しっくりといかない気分」について話したくなりました。

 物事には「善」と「悪」があります。
時には、その中間、つまり「善でもなければ、悪でもない」という場合は、ほとんどありません まあ、善悪の中間の「どちらでもない」ものもあるでしょうが、実際には、それはその時々の状況によって、条件がつけられたり、例外になったり、注釈がつけられたり・・・ということであり、やっぱり本来は「中間」はないでしょう

 しかし、男の子が降りていった後、友人と私がいろいろと話し合った結果、到達した結論は・・・
 「正しいことを言う、ということが、いつも『良い』わけではない」 でした。

 いかがですか?実際に生活をしていると、こういうことはよくありませんか?

 じつは、子供の世界、幼稚園や学校などの団体生活の場では、頻繁にここが「人付き合いのポイント」になっています
 たとえば、Aちゃん。とても利発で、先生からの評価も高い ママ達の中でもAちゃんはしっかりとした賢いお子さんだ、という評判です
 そのAちゃんは、よく先生にこんなことを報告します・・・

  「先生、○○ちゃんは廊下を走っていました!走ってはいけないというお約束を守りませんでした。」
  「先生、△△ちゃんがおしゃべりを止めません。~~な時はおしゃべりをしてはいけないのに・・・」
 Aちゃんのご両親は、きっと我が子のことを「非常に正義感が強く、悪いこと、間違ったことを許せない子供」だと、秘かに我が子のその部分を長所として自負されることでしょう 確かに、その通りです ご両親が自慢に思われるのは、非常に自然な思いでしょう

 しかし、とても残念なことではありますが・・・
子供の世界の中でのAちゃんの評価は、時には「なかなか難しいポジション」ということもあり得るのです
 間違いなく、Aちゃんは「一目置かれる存在」です これは間違いのない事実でしょうね。
 ただ、時には、正義感強く、何でも正そうとする姿勢は、同年代の世界の中では「鬱陶しい」「うるさい」「煙たい」という存在、として見られてしまうこともあるのです

 現代社会の中では、子供の世界でも、たぶん大人の世界でも、ヒーローの存在はいつも「ビニョー・微妙」なのです
 換言すれば、勧善懲悪とは、アニメや映画、ドラマの中だけで拍手喝采される対象であり、実際の世界ではなかなかそうはいかない・・・

 ただ
親が物事の善悪を教えなければならない、ということは、至極当然のことです。
 しかし、問題は、「そのあと」なんですね

 ついつい、大人は「善を善」「悪を悪」として評価することをすばらしいこととして感じています もちろん、善悪を正しく認識することは大切です。
 しかし、子供がハッピーに団体生活の中で生きていくために、親がもっと力を入れて教えるべきは、「それをどう表現するか?」ではないでしょうか?

 先ほどのAちゃんの話しですが。
たとえば・・・Aちゃんが先生に○○ちゃんはいけない、と言いに行くのではなく、直接○○ちゃんに「○○ちゃん、廊下を走っていたら危ないよー、転んじゃったらAちゃんがケガしてしまうかもしれないよ!」と言うとしたら??
 少しは言葉の響きは違ってくるでしょう

 つまり・・・言葉は生きているのです
言葉の使い方ひとつで、さまざまなものが大きく違ってくるのですね。聞いた人がどのように感じるか?によって、語られたことが、たとえ正しいことであったとして、評価されない、という現実があります
 これは親子の間でもそうですね
話した言葉がどんなに正しくとも、相手に伝われないようであれば、それはその言葉は生きてはいないのです

 「悪」を感じた時、それをどう伝え、正すか?
 自己満足ではなく、話す相手に伝わり、心に響く言葉を話す、とは?
これは、老若何女、すべての人にとって永遠のテーマなのでしょうね

コメント (7)
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