まどか先生の「ママ達のおやつ」

ママの笑顔は、我が子が幸せであるためのママ・マジック。ママが笑顔であるために、この「おやつ」が役立つことを願っています!

年頭にあたり 「親の役割 1」

2007年01月01日 | にこにこ
 あけまして おめでとうございます
本年も、一生懸命、思いを込めてブログを書きます。どうぞよろしくお願いいたします

 さて。
2007年、平成19年も穏やかに明けました。昨夜は年を越してすぐに、近所の神社にお参りをし、帰宅後もゴソゴソとしているうちに時間が過ぎ・・・すっかり寝坊をしてしまったために、せっかくの「初日の出」を拝めませんでした
 我が家は南東向きにベランダがあり、マンションそのものが高台にあるため、幸い、住宅街の向こうから昇る朝日をしっかりと見ることが出来るのです。
 今朝、カーテンを開けた時には、すでにお日様はかなり昇ってしまっていて、とても残念に思いました。きっと、美しい初日の出が拝めたはずですから

 年末年始は、遊びでもお買い物でも、外出をするときには子供連れ・・・というのが定番ですね 私も年末のお買い物の時、昨夜の初詣の時、多くの「親と子」を見かけました。
 私は、外に出るとどうしても、子供連れの家族に目がいき、相手がお気の毒なほど、こそっとではありますが、それらの親子をじっくりと観察してしまいます。
 そして・・・過去のブログにも数回、書いたことがありますが、私はここ数年「叱らない親」を実感し、とても腹立たしく、情けなくなってしまうのです
 私のように、日頃から多くの子どもを観察し、教室でも子供に接していると、間違いなく「叱らない親」に育てられていることの歪みが、如実に、子供達に悪影響を与えていることを感じます
 「ああ、またこの話題かあ」と辟易とされる方も多いのでは?と思いますが、やはり年の始めに、このことはしっかりと伝えたい、と考え、敢えて元日の話題にしたいと思います
 すでにこれに関して読み飽きた方は、どうぞ今日はスキップをなさってくださいね。

 たとえば電車の中、デパートの売り場、神社の神殿前・・・こういうところは、公共の場、です それぞれに状況の違う場所ですが、一般人と接する空間、という意味では、やはり同じ意味を持った場所、でしょう。
 そういうところで、ふざけている我が子を叱らない・・・いつまでもダラダラと泣いている子供を叱らない・・・理不尽なことを言って、親を困らせている我が子を叱らない・・・どうしてなのでしょうか? 
 
「昔は、うるさがたの人がご近所にいたりして、よく子供を叱ってくれたものです 最近では、そんなふうに子供を叱る人が少なくなったのは残念ですねえ・・・」などとテレビでよく語られますが、いやいや、なかなか人の子供は叱れるものではありません。なぜなら、側で親が平気な顔をしていたり、時には「いやだわ、この子ったらあ」などと笑っている親を差し置いて、「なんですかあ、あなたはー」と他人の子供を叱れません
 もし、私がそんな子供達を叱って歩いていたら、叱り疲れてしまって、二度と外出など出来なくなるかもしれませんし・・・ ははは

 「叱らない」親には、大きく分けて二つのタイプがあります。
まず、ひとつ目のタイプ。
 それは、「あまりにも親としての意識が低い」や「親としての品格に大きな問題がある」という場合 こちらは、残念ながら決定的、です。親そのものの意識や教養に問題があるのでは、子供の家庭教育や躾以前に、親のほうに「躾と教育」が必要になります。
 高校の制服のスカートを、お尻が出るくらいに短くした女子校生が、駅のホームのベンチに靴のままで足を乗せ、ルーズソックスに履き替えたり、ソックスを直したりする時代になって、すでに5年が過ぎたでしょうか。
 その彼女達が、深い覚悟もないままに安易に結婚をし、成り行きのように親になる時代・・・かもしれません そういう現実を思うと、この「ひとつ目のタイプ」は、今後、増加していく傾向にあるのでしょうね・・・

 しかし、私はむしろ、もう一つのタイプのほうに、憤りと、危機感を感じるのです。
そう、その二つ目のタイプは・・・親に十分な教養も教育もあり、ご自分達が意識を高く持って育児に携わっている、という場合。
 こういう方は、どこかで、子供を育てる上での意識の高さを、間違って解釈しているのだと思えてなりません。

 むかーしむかし、まだ私に子供がいなかった頃のお話しです。
主人の母が上京し、私は、出来て間もない東京ディズニーランドにお連れしました 何に対しても純粋に向かい喜んでくれる義母は、TDLのさまざまなものを満喫し、大変楽しんでくれました。そして、お茶をするために入ったお店で、急に義母は私にこんなことを尋ねたのでした
 「ねえ、まどかさん、あなた、子供が出来てね、あんなふうに子供が聞き分け悪く、泣いて騒いだ時にはどうする?」
 ちょうどその時、お店の外で、何かをねだって聞き入れてもらえないために、大声で泣き、道に寝転がっている子供が見えていたのでした 義母は、その様子を見て、ふっと私に聞いてみたい、と思われたのでしょう。
 私は、躊躇せず、胸を張って答えました
 「はい、お母さん。私だったら、決してあんなにみっともなく泣かせたりしません ちゃんとここはどんなところなのか、ということを話し、泣いたり寝ころんだりすることがどんなにいけないことかをしっかりと言い聞かせます
 それを聞いた義母は、ふんふんと頷きながら、笑顔で私の答えを聞いてくれていました
 厳しい家庭で育ち、大学では専門ではなかったまでも、大学卒業後、仕事の上での必要性があり、幼児心理や幼児教育を学んだ私です。自信を持って答えたその優等生的な答えは、自分にとって大変満足のいく答えでしたし、正論であると思っていたのでした
 しかーし 私は、今でもあの時のことを思い出すと、冷や汗が流れそうになります

 そうです。そんな理想、そんな教科書的な考えで、子育てなどは出来ないのですよ・・・本当はね
 私はその1年後、とんでもないやんちゃ者の長男を生みました 彼が困ったことをするたびに、私はこんこんと物事の道理を説き、「もうしません」と約束をさせます。彼は「ごめんなさい」と涙を流して詫びますが・・・私が一瞬目を離した隙に、もう次の悪事?を働きます・・・
 妙な言い方ですが、息子は幼い頃から、物事が理解できない、言葉が理解できない、というわけではありませんでした たぶん、私がこんこんと説く道理も理解していましたし、教え続ける道徳観もものの善悪もわかっていたと思います

 しかし 子供は、そういう「頭や理性」では説明できない部分の世界を持っていて、その中に一度入ってしまうと、どんなに厳しい親の禁止の言葉や約束よりも、自分の好奇心が勝ってしまう・・・
 理不尽な我が儘を言って泣き出してしまうと、理性のブレーキが利かなくなり、どんどん興奮が興奮を呼んで収拾がつかなくなってしまう・・・ 
そういうもの、なんですねえ

 こんな時、TDLで、したり顔で私が話していたような・・・
 「ねえ、そんなに泣いてどうするの?あなたは間違っているじゃない?違うかしら?・・・」などというような親の冷静な言葉や、
 「ダメじゃないの、こんなところで騒いだりしちゃいけないでしょう?あなたはお利口さんだから、本当はちゃんとわかっているでしょう?さあ、お座りをしましょうね、いい子ねえ・・・」などという甘い親の言葉では、その「困ったちゃん世界」からは脱出は出来ないのです

 それなのに、「二つ目のタイプの親」に限って、何が何でも、こういう冷静さの中で、子供を諭し、事態収拾を図ろうとします あたかもそれが、賢い親のあるべき姿、理想の姿だという高い意識の思いから

 しかし、実際の子育ての上では、そんなの・・・ダメダメです
子供にはね、ガツンと言ったり、怒鳴ったり、時にはピチャリとお尻を叩いたりして、「困ったちゃん世界」を遮断したり、その世界から引っ張り出したりする必要のある時があるのです

 そこが公共の場であろうと、人がたくさんいる所であろうと、少々気の張る席であろうと、親は毅然と叱り、声を荒げ、そんな親の変化にひるみ、驚いた子供が「パパが怖いから、止める ママが怖いから、止める」という理性を越えた、動物的とも言える一瞬の判断をさせることも必要です

 今の子供達には、困ったことに「怖いもの」がありません
ママは優しく、そして、昔は怖いものの代名詞であったパパも、またまた優しいのです こういう感情がエスカレートすれば、子供は親を、大人を「なめる」のですよ
 私から見れば、すっかりなめられているのに、そのことに気づかず、相変わらずガミガミだけのお念仏を唱えている親は多いものです。

 最近の子供達に「お母さんはどんな人?」と尋ねると、必ず「優しい」という答えが戻ってきます。これは、とっても素敵なことですね
 やはりお母様は、まずは子供にとっていつでも戻っていけば抱きしめてくれる「優しい人」であるべきだと私も思います。
 しかし、ほとんどの場合、優しい、だけでは終わらず、「でも、ママはうるさい」と言うのです。
 おわかりでしょうか?ママは厳しいのではなく、ママは「うるさい」と子供には受け止められているのです。そう、私がさっき書いた「ガミガミのお念仏」は、子供にとっては何の効果もなく、ただただ「うるさい」だけなのですね。これは、なめられている、第一歩です

 お父さんにもお母さんにも、本当に求められているものは、「優しさと厳しさ」だと思います

 「パパもママもいつも笑顔で優しいけれど、ぼくが(わたしが)いけないことをした時には、とても怖い顔をして、大きな声で叱ります!ぼくはそんな時、とてもドキドキして、パパのことが怖いと思います。いつも優しいパパが、こんな怖い顔をしてぼくを叱るのだから、今ぼくがしたことは、本当にいけないことなのだと思い、ぼくはすぐにやめました。このあいだ、それでもぼくがいけないことを止めなかった時、パパはバシンとぼくのお尻をぶちました。ぼくはびっくりしました。・・・」
 きっと、子供の心の中には、こういう心の動きは必要でしょう
 こういう「めりはり」こそが躾であり、家庭教育なのではないでしょうか?

 昔は、父や母の「一瞥(いちべつ)」に効果がありました。
子供が、何か度を超したと感じた時、ふっと父や母のほうを見たら、すごい顔をして、眼光鋭く睨んでいた・・・それで、思わず止めた・・・ こんな絶大な効力を発揮する一瞥を送ることの出来る親は、すっかり少なくなってしまいました

 諭し、教えることも大切です
しかし、それは、子供が冷静な状態の時にしか効果はありません。一度子供が騒ぎ出したり、収拾がつかないほど泣いたりした時には、説いても諭しても意味はありません。

 いかがですか?
今年は「効果ある一瞥を送れる親」になってみませんか?
日頃はとっても優しくて、そして時にはとても厳しくて怖いパパやママ・・・きっとそれが、本当の意味での意識の高い親だと、私は思います

コメント (2)
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