風の強かった昨日、北海道では、竜巻などいうとんでもない惨事が起こり、日本中を驚かせました 私は夕方、スーパーへの買い物の帰りにふと思い立ち、強い風の中、お気に入り場所に立ち寄ってみました
そこは、いつもの道から、ほんの少し路地を入ったところ・・・人のお家の駐車場前 秋、冬の晴れた日には、そこから、新横浜のビルの向こうに、大山の上にそびえる富士山が見えるのです 特に夕焼けの時間は美しく、真っ赤な空の中に、シルエットになった富士山がどーんと姿を現します
私は、教室のホームページ内のプロフィールにも書いていますが、幼い頃から、富士山が大好きなのです 大阪育ちの私にとっての富士山は、そんなに簡単に見られるものではありませんでした。こうして20数年、関東に暮らしていると、ちょっと高い見晴らしの良いところに行けば、必ずと言ってよいほど富士山が見えます
しかし、大阪暮らしでは、見えるのは金剛山、生駒山、六甲山系・・・やはり、あのすっくと美しくそびえる富士山から比べると、大層見劣りがしてしまいます
昨日もやはり、あの強い風のためか、赤く染まった空の中、箱根の山々を従えるように、立派な富士山が拝めました 私は思わず、手を合わせたい気持ちになりました・・・
そう、手を合わせる・・・拝む、祈る、という姿勢ですね。
私には、宗教色のある学校で、教育を受けた経験がありません ここ関東には、非常に多くのキリスト教の学校があります。カトリック系の学校、プロテスタント系の学校などなど。
しかし、もともと私の郷里の大阪には、関東ほど多くのクリスチャンの学校はなく、むしろ、仏教系の学校のほうが、数としては多かったのではないか?と思っています。
話しを元に戻しますが、宗教教育を受けたことのない私にとって、「手を合わせる」という行為は、常に「何かを対象としたものではない」ものなのですね
もちろん、お宮参りに始まって、初詣、十日戎(商人の町大阪では、えべっさんと呼ばれるこのお祭りは、とても賑やかで大きなお祭りです。私が、このお祭りの日の生まれで、福娘と呼ばれたことは、すでに以前のブログで書いていますね)、七五三、そして神前結婚・・・子供が生まれてからは、合格祈願、というのもあり、私の生活の中では、神社が大きく関わっています
しかし、そんな私も、カトリックの「めでたし」のお祈りには、大変支えていただきました
というのも・・・今から14年前、主人が3年間のジャカルタ駐在のため、日本を離れた10日後、急に義父は悪性の肺ガンを告知され、余命半年、と宣告されました。しかし、主人は公務員ではありませんでしたが、当時のインドネシア駐在は、社命を受けてのインドネシア鉱山エネルギー省というところへの公務転勤であったため、自分親が入院したからと言って、自由に帰国したり、任期を短くしたり、ということは出来ず・・・
そんなことで、小学校2年生の息子と、幼稚園の年中さんの娘、大阪に住む主人の父の入院・・・と、私の留守宅を守る生活は、とても悲惨なものになりました。
そんな私の大変な様子を静かに見ていた娘は、ある日、出かける電車の中で、「ママ、私ね、ママに『めでたしのお祈り』を教えてあげる!きっとマリア様が守ってくださるから、元気になれるよ」と言って、私がしっかりと覚えるまで、何度も何度も懲りずに繰り返し、『めでたし』を唱えたものでした
当時娘は、カトリック校の付属幼稚園の年中さんで、朝は「てんにまします」降園時には「めでたし」のお祈りを毎日していたのでした。
ああ・・・あのころは、本当に、困った時、情けないと思った時、泣きそうになってしまった時、私は必ず心の中で「めでたし」を唱えましたねえ・・・
不思議とあれから15年近く経った今も、「めでたし」は私の心を穏やかにしてくれるお祈りであり、一生懸命に教えてくれた時の娘の真剣な表情を忘れることはできません
しかし。
私には、特別の信仰はありません。人一倍信心深く、「手を合わせ、祈る」ということを頻繁にする私ですが、特に何か特別な宗教に帰依しているわけではありません さきほども書いたように、幼い頃に宗教色のある教育を受けた経験もないために、どうも私が手を合わせる対象は、何か特定のものには成り得ないようです。敢えて言うならば、手を合わせ、祈る対象は・・・「そのものの心」と言えるのかもしれません
たとえば、雲一つない青空に映える富士山。凛とたつその姿に、私は崇高な存在、畏敬の念を感じます そして、その崇高さの中に、富士山という山の持つ「心」を感じるのです
日本には、八百万の神(やおよろずのかみ)という考え方があります。一つ、一つのものに宿る神、です。山には山の、川には川の・・・この考え方が、数年前に大ブレイクした「千と千尋の神隠し」の中、随所に見られましたね 私は、この日本古来の考え方に、非常に納得のいくものを感じています。
我が家の子供達は、すっかり大きくなった今も、何か古くなったものを捨てる時には、口にだして「ご苦労様。ありがとう!よくがんばってくれたね」などと語りかけ、愛おしそうにそのものを持ち、なでなで・・・としてから処分します。
きっと幼い頃から、小さくなって履けなくなってしまった靴や上履き、体操服などを新しいひとサイズ大きいものに替える時、「ほら、○○にありがとう!ご苦労様でした!をしないさい」と言い、そのような習慣を付けさせたからだと思います・・・
私にとっての祈り・・・は。
心静かに、心穏やかにして、私を取り巻く身のまわりのものすべてに感謝し、見つめることなのかもしれません
そこは、いつもの道から、ほんの少し路地を入ったところ・・・人のお家の駐車場前 秋、冬の晴れた日には、そこから、新横浜のビルの向こうに、大山の上にそびえる富士山が見えるのです 特に夕焼けの時間は美しく、真っ赤な空の中に、シルエットになった富士山がどーんと姿を現します
私は、教室のホームページ内のプロフィールにも書いていますが、幼い頃から、富士山が大好きなのです 大阪育ちの私にとっての富士山は、そんなに簡単に見られるものではありませんでした。こうして20数年、関東に暮らしていると、ちょっと高い見晴らしの良いところに行けば、必ずと言ってよいほど富士山が見えます
しかし、大阪暮らしでは、見えるのは金剛山、生駒山、六甲山系・・・やはり、あのすっくと美しくそびえる富士山から比べると、大層見劣りがしてしまいます
昨日もやはり、あの強い風のためか、赤く染まった空の中、箱根の山々を従えるように、立派な富士山が拝めました 私は思わず、手を合わせたい気持ちになりました・・・
そう、手を合わせる・・・拝む、祈る、という姿勢ですね。
私には、宗教色のある学校で、教育を受けた経験がありません ここ関東には、非常に多くのキリスト教の学校があります。カトリック系の学校、プロテスタント系の学校などなど。
しかし、もともと私の郷里の大阪には、関東ほど多くのクリスチャンの学校はなく、むしろ、仏教系の学校のほうが、数としては多かったのではないか?と思っています。
話しを元に戻しますが、宗教教育を受けたことのない私にとって、「手を合わせる」という行為は、常に「何かを対象としたものではない」ものなのですね
もちろん、お宮参りに始まって、初詣、十日戎(商人の町大阪では、えべっさんと呼ばれるこのお祭りは、とても賑やかで大きなお祭りです。私が、このお祭りの日の生まれで、福娘と呼ばれたことは、すでに以前のブログで書いていますね)、七五三、そして神前結婚・・・子供が生まれてからは、合格祈願、というのもあり、私の生活の中では、神社が大きく関わっています
しかし、そんな私も、カトリックの「めでたし」のお祈りには、大変支えていただきました
というのも・・・今から14年前、主人が3年間のジャカルタ駐在のため、日本を離れた10日後、急に義父は悪性の肺ガンを告知され、余命半年、と宣告されました。しかし、主人は公務員ではありませんでしたが、当時のインドネシア駐在は、社命を受けてのインドネシア鉱山エネルギー省というところへの公務転勤であったため、自分親が入院したからと言って、自由に帰国したり、任期を短くしたり、ということは出来ず・・・
そんなことで、小学校2年生の息子と、幼稚園の年中さんの娘、大阪に住む主人の父の入院・・・と、私の留守宅を守る生活は、とても悲惨なものになりました。
そんな私の大変な様子を静かに見ていた娘は、ある日、出かける電車の中で、「ママ、私ね、ママに『めでたしのお祈り』を教えてあげる!きっとマリア様が守ってくださるから、元気になれるよ」と言って、私がしっかりと覚えるまで、何度も何度も懲りずに繰り返し、『めでたし』を唱えたものでした
当時娘は、カトリック校の付属幼稚園の年中さんで、朝は「てんにまします」降園時には「めでたし」のお祈りを毎日していたのでした。
ああ・・・あのころは、本当に、困った時、情けないと思った時、泣きそうになってしまった時、私は必ず心の中で「めでたし」を唱えましたねえ・・・
不思議とあれから15年近く経った今も、「めでたし」は私の心を穏やかにしてくれるお祈りであり、一生懸命に教えてくれた時の娘の真剣な表情を忘れることはできません
しかし。
私には、特別の信仰はありません。人一倍信心深く、「手を合わせ、祈る」ということを頻繁にする私ですが、特に何か特別な宗教に帰依しているわけではありません さきほども書いたように、幼い頃に宗教色のある教育を受けた経験もないために、どうも私が手を合わせる対象は、何か特定のものには成り得ないようです。敢えて言うならば、手を合わせ、祈る対象は・・・「そのものの心」と言えるのかもしれません
たとえば、雲一つない青空に映える富士山。凛とたつその姿に、私は崇高な存在、畏敬の念を感じます そして、その崇高さの中に、富士山という山の持つ「心」を感じるのです
日本には、八百万の神(やおよろずのかみ)という考え方があります。一つ、一つのものに宿る神、です。山には山の、川には川の・・・この考え方が、数年前に大ブレイクした「千と千尋の神隠し」の中、随所に見られましたね 私は、この日本古来の考え方に、非常に納得のいくものを感じています。
我が家の子供達は、すっかり大きくなった今も、何か古くなったものを捨てる時には、口にだして「ご苦労様。ありがとう!よくがんばってくれたね」などと語りかけ、愛おしそうにそのものを持ち、なでなで・・・としてから処分します。
きっと幼い頃から、小さくなって履けなくなってしまった靴や上履き、体操服などを新しいひとサイズ大きいものに替える時、「ほら、○○にありがとう!ご苦労様でした!をしないさい」と言い、そのような習慣を付けさせたからだと思います・・・
私にとっての祈り・・・は。
心静かに、心穏やかにして、私を取り巻く身のまわりのものすべてに感謝し、見つめることなのかもしれません