満開の桜が美しい桜吹雪に変わる頃、お親しくしている若いご夫婦のところに、初めての赤ちゃんが誕生しました パパやママに似た、とても利発そうで、ハンサムな男の子ですよ、とお祝いにかけつけた友人から聞きました
さまざまな意味で、「恵まれた環境、恵まれた家庭」に生まれたプリンス。きっとこれから、豊かな世界の中で、ご両親の愛情をいっぱいに受けて、幸せな子どもとして育っていかれることと思います
その数日後、我が家の長男が誕生日を迎えました 知人宅に男児誕生!というニュースの後だったこともあり、私はその幸せな赤ちゃんに重ねて、我が家の息子が生まれた当時のことをしみじみと思い出しました。もう、23年も昔のことになりますが・・・
23年前。当時の私は、まさに「意気揚々と、母親業に勤しもう」と心に決め、息子を抱っこして寝かしつける時も真剣に歌を歌い、着替えをさせる時にも一生懸命に考えながら着替えをさせる・・・そんな感じでした
何でもかんでも「適当に」する、というようなことは自分達の中では許されず、妊娠を確認したその時から、古今東西の高名な方々が書いた育児書、流行の子育て本、そんなたくさんのものに夫婦で目を通し、とにかく、「万全の体制で生まれてくる子どもを我が家に迎えよう」と意気込んでいました
夫方、私方、どちらの家にとっても初孫となる息子は、まさに「宝もの」のように扱われ、みなが「めでたいムード」の中にいたようでしたねえ・・・
私は・・・と言えば、そういうことも十分に意識し、ひたすら、私の夢であり目標であった「良い母になる」を実践する日がやってきたことに高揚し「こだわりを持って育てる」プランが渦巻き、頭の中がパンクしそうになっていた、と思います
ベッドに取り付けるオモチャ一つにもこだわり、「子どものために良い」と言われるものは、ぜーんぶ実践しよう、と考えていました
確かに、その中の「いくつか」は、息子の成長の上で大きな役割を果たしたのだと思いますし、そういうこだわりが当時の赤ちゃん息子に「何らかの効果」をもたらしたことも事実でしょう。
でも・・・今振り返って当時のことを一つ一つ思い出してみると、恥ずかしいほど苦笑することばかりです
けれど、新米ママの私は、すべてのことに大真面目でしたし、ものすごいエネルギーを使って「母」をしていたのでした
そして・・・当然のことながら、4ヶ月ほど経過した夏の盛りの頃になって、すっかり疲労困憊し、育児そのものには支障はきたしませんでしたが、かなり私自身は「壊れて」いたと思います
要するに、私は真剣に「空回り」をしていたのでしょうね・・・今、思えば。
もし、今の「まどか先生」が、当時の南坊まどかママの子育てを身近なところでを見ていたとしたら??
きっと満面の笑顔でまどかママのお育てを労い、誉め、そして最後に、愛情を持って言うのでしょう
「まどかさん、もっともっと肩の力を抜いてね 子育ては始まったばかりよ。何事でも、意気揚々と突っ走ると、必ず息切れをするものです 突っ走る そしてハーハー、ゼーゼー また突っ走る そしてまたハーハー、ゼーゼー・・・ この繰り返しをしていては、あなたは完全にバランスを失うでしょう ママがそんなことになったら、一番あなたが大事にしている息子ちゃんがかわいそうでしょう? 子どもを育てる上で、様々な「こだわり」を持って取り組むことは、とってもステキなことですね 育児に限らず、何に取り組む時にも、こだわりを持たず、意識せず、刹那的に関わるのは賢い人のすることではありません でもね、だからといって、『こだわりを持つ』ことだけで自分で満足をしてしまい、こだわりの育児をしているぞーということに自分で酔ってしまう・・・それでは、自分がステキなママでしょう!と錯覚しているだけですよ もっと謙虚に、新米ママであることを自覚し、賢い母になろうと意識するよりも、「心をこめて」あなたの子どもに接してあげなさい 子育てはね、頭でするものではなく、心でするものよ」と。
子育て、という作業は、非常に責任の大きい仕事です。
誰に対しての責任か?と問われると、当然、その子に対しての親としての責任、というのが一番
そして、もう一つ。「社会に対しての責任」「子どもを授けてくださった神様?への責任」でしょうか・・・上手く表現できませんが・・・
我が子は、自分の子どもであると同時に、将来は、また人の親となって子どもを育てる、いわば次世代を担う人材です そのように考えれば、「自分の子どもなんだから、自分の思うように育てる」というのは、違いますよね
今では、育児グッズの進化で、新生児と思われるような小さな小さな赤ちゃんを連れて、レジャーやお買い物に同行させる方もたくさんいらっしゃいますね
今では、ベビーカーも公共の場所で市民権を得ていますので、電車やデパートなどでも、小さな赤ちゃんを連れたご夫婦が、新生児用の大きなベビーカーを押して歩いていらっしゃるのをよく目にします。
今さら、「私の子ども達が幼いころはね、ベビーカーは電車の中ではたたむものであって・・・」などと、つばを飛ばして20年以上も前の苦労話をするつもりをありません さすがの私も、今ではベビーカーの市民権には賛成ですし、ベビーカーの赤ちゃんをよくあやします
しかし、大混雑の休日の夕方のデパ地下、行楽地から帰る急行電車の中・・・など、人で溢れる中で、平気で大きな場所をとって、どどーんとベビーカーを存在させているご夫婦を見ると、やはり、そういう状況下では、「もうちょっと、まわりへの配慮はできないかな?」と、やはり少し若いご両親に対して残念に感じてしまいます
たとえば・・・夕方、混雑が予想されるデパ地下には、ママだけが行き、パパはベビーカーの赤ちゃんと一緒に、比較的広いスペースで、ママがお買い物を終えるのを待つ・・・こういうこともできますよね
急行や特急を諦めて、比較的空いている各駅停車に乗る、とか。
どうしても急いでいて、混んだ電車に乗らなければいけないのならば、ママが(パパが)赤ちゃんを抱っこし、パパが(ママが)ベビーカーをたたんで端っこに立つ、とか。
そういう、他者への配慮は大切だと思うのです・・・
また、我が子をあやすために、静かな場所なのに、大きな音をたてるオモチャを使って夫婦でご満悦だったり、大きな声で本を読んだり歌を歌ったり、我が子に大声で「ベロベロバー!」などと話しかけたり・・・こういうことも、私にはやはりまわりへの配慮に欠ける行為だと思えてしまいます
現代は、何でもかんでも「私」が中心の時代
「私」の居心地が悪いのは、気分の悪いことであり、「私」がハッピーであるためには、あまり「私」以外のことは考えない・・・という風潮のようです
子育て中は、その「私」が、「私と私の子ども」だったり、「私と私の家族」だったり、少し「私」の範囲が広がって、意識にあるようです。
「私と私の子ども」が楽チンであるためには、あまり他人の迷惑は考えないようですし、「私の家族」が楽むためには、他人の目や思考は気にならない、のでしょう
けれど、こんな子育てを実践していながら、そろそろ幼稚園に行くから・・・と、急に「しつけ」と称して「いいですか?人の迷惑にならないようにね!」などと呪文のように教えたとしても、我が子には通じる言葉ではないでしょう。
今や、「メ・イ・ワ・ク」は、多くの子ども達にとって、知っている言葉だけれども、本当はあんまり意味はわからない・・・という言葉の象徴のようです
これからは、ちょっぴり、「人の目」を気にする子育て・・・これを実践してみませんか?
さまざまな意味で、「恵まれた環境、恵まれた家庭」に生まれたプリンス。きっとこれから、豊かな世界の中で、ご両親の愛情をいっぱいに受けて、幸せな子どもとして育っていかれることと思います
その数日後、我が家の長男が誕生日を迎えました 知人宅に男児誕生!というニュースの後だったこともあり、私はその幸せな赤ちゃんに重ねて、我が家の息子が生まれた当時のことをしみじみと思い出しました。もう、23年も昔のことになりますが・・・
23年前。当時の私は、まさに「意気揚々と、母親業に勤しもう」と心に決め、息子を抱っこして寝かしつける時も真剣に歌を歌い、着替えをさせる時にも一生懸命に考えながら着替えをさせる・・・そんな感じでした
何でもかんでも「適当に」する、というようなことは自分達の中では許されず、妊娠を確認したその時から、古今東西の高名な方々が書いた育児書、流行の子育て本、そんなたくさんのものに夫婦で目を通し、とにかく、「万全の体制で生まれてくる子どもを我が家に迎えよう」と意気込んでいました
夫方、私方、どちらの家にとっても初孫となる息子は、まさに「宝もの」のように扱われ、みなが「めでたいムード」の中にいたようでしたねえ・・・
私は・・・と言えば、そういうことも十分に意識し、ひたすら、私の夢であり目標であった「良い母になる」を実践する日がやってきたことに高揚し「こだわりを持って育てる」プランが渦巻き、頭の中がパンクしそうになっていた、と思います
ベッドに取り付けるオモチャ一つにもこだわり、「子どものために良い」と言われるものは、ぜーんぶ実践しよう、と考えていました
確かに、その中の「いくつか」は、息子の成長の上で大きな役割を果たしたのだと思いますし、そういうこだわりが当時の赤ちゃん息子に「何らかの効果」をもたらしたことも事実でしょう。
でも・・・今振り返って当時のことを一つ一つ思い出してみると、恥ずかしいほど苦笑することばかりです
けれど、新米ママの私は、すべてのことに大真面目でしたし、ものすごいエネルギーを使って「母」をしていたのでした
そして・・・当然のことながら、4ヶ月ほど経過した夏の盛りの頃になって、すっかり疲労困憊し、育児そのものには支障はきたしませんでしたが、かなり私自身は「壊れて」いたと思います
要するに、私は真剣に「空回り」をしていたのでしょうね・・・今、思えば。
もし、今の「まどか先生」が、当時の南坊まどかママの子育てを身近なところでを見ていたとしたら??
きっと満面の笑顔でまどかママのお育てを労い、誉め、そして最後に、愛情を持って言うのでしょう
「まどかさん、もっともっと肩の力を抜いてね 子育ては始まったばかりよ。何事でも、意気揚々と突っ走ると、必ず息切れをするものです 突っ走る そしてハーハー、ゼーゼー また突っ走る そしてまたハーハー、ゼーゼー・・・ この繰り返しをしていては、あなたは完全にバランスを失うでしょう ママがそんなことになったら、一番あなたが大事にしている息子ちゃんがかわいそうでしょう? 子どもを育てる上で、様々な「こだわり」を持って取り組むことは、とってもステキなことですね 育児に限らず、何に取り組む時にも、こだわりを持たず、意識せず、刹那的に関わるのは賢い人のすることではありません でもね、だからといって、『こだわりを持つ』ことだけで自分で満足をしてしまい、こだわりの育児をしているぞーということに自分で酔ってしまう・・・それでは、自分がステキなママでしょう!と錯覚しているだけですよ もっと謙虚に、新米ママであることを自覚し、賢い母になろうと意識するよりも、「心をこめて」あなたの子どもに接してあげなさい 子育てはね、頭でするものではなく、心でするものよ」と。
子育て、という作業は、非常に責任の大きい仕事です。
誰に対しての責任か?と問われると、当然、その子に対しての親としての責任、というのが一番
そして、もう一つ。「社会に対しての責任」「子どもを授けてくださった神様?への責任」でしょうか・・・上手く表現できませんが・・・
我が子は、自分の子どもであると同時に、将来は、また人の親となって子どもを育てる、いわば次世代を担う人材です そのように考えれば、「自分の子どもなんだから、自分の思うように育てる」というのは、違いますよね
今では、育児グッズの進化で、新生児と思われるような小さな小さな赤ちゃんを連れて、レジャーやお買い物に同行させる方もたくさんいらっしゃいますね
今では、ベビーカーも公共の場所で市民権を得ていますので、電車やデパートなどでも、小さな赤ちゃんを連れたご夫婦が、新生児用の大きなベビーカーを押して歩いていらっしゃるのをよく目にします。
今さら、「私の子ども達が幼いころはね、ベビーカーは電車の中ではたたむものであって・・・」などと、つばを飛ばして20年以上も前の苦労話をするつもりをありません さすがの私も、今ではベビーカーの市民権には賛成ですし、ベビーカーの赤ちゃんをよくあやします
しかし、大混雑の休日の夕方のデパ地下、行楽地から帰る急行電車の中・・・など、人で溢れる中で、平気で大きな場所をとって、どどーんとベビーカーを存在させているご夫婦を見ると、やはり、そういう状況下では、「もうちょっと、まわりへの配慮はできないかな?」と、やはり少し若いご両親に対して残念に感じてしまいます
たとえば・・・夕方、混雑が予想されるデパ地下には、ママだけが行き、パパはベビーカーの赤ちゃんと一緒に、比較的広いスペースで、ママがお買い物を終えるのを待つ・・・こういうこともできますよね
急行や特急を諦めて、比較的空いている各駅停車に乗る、とか。
どうしても急いでいて、混んだ電車に乗らなければいけないのならば、ママが(パパが)赤ちゃんを抱っこし、パパが(ママが)ベビーカーをたたんで端っこに立つ、とか。
そういう、他者への配慮は大切だと思うのです・・・
また、我が子をあやすために、静かな場所なのに、大きな音をたてるオモチャを使って夫婦でご満悦だったり、大きな声で本を読んだり歌を歌ったり、我が子に大声で「ベロベロバー!」などと話しかけたり・・・こういうことも、私にはやはりまわりへの配慮に欠ける行為だと思えてしまいます
現代は、何でもかんでも「私」が中心の時代
「私」の居心地が悪いのは、気分の悪いことであり、「私」がハッピーであるためには、あまり「私」以外のことは考えない・・・という風潮のようです
子育て中は、その「私」が、「私と私の子ども」だったり、「私と私の家族」だったり、少し「私」の範囲が広がって、意識にあるようです。
「私と私の子ども」が楽チンであるためには、あまり他人の迷惑は考えないようですし、「私の家族」が楽むためには、他人の目や思考は気にならない、のでしょう
けれど、こんな子育てを実践していながら、そろそろ幼稚園に行くから・・・と、急に「しつけ」と称して「いいですか?人の迷惑にならないようにね!」などと呪文のように教えたとしても、我が子には通じる言葉ではないでしょう。
今や、「メ・イ・ワ・ク」は、多くの子ども達にとって、知っている言葉だけれども、本当はあんまり意味はわからない・・・という言葉の象徴のようです
これからは、ちょっぴり、「人の目」を気にする子育て・・・これを実践してみませんか?