まどか先生の「ママ達のおやつ」

ママの笑顔は、我が子が幸せであるためのママ・マジック。ママが笑顔であるために、この「おやつ」が役立つことを願っています!

我が子のお誕生日

2010年04月29日 | にこにこ
 お誕生日、みなさんはどんなふうに迎えられますか?
ご自分のお誕生日は?夫や妻のお誕生日は?我が子のお誕生日は?お父様、お母様のお誕生日は?

 教室の子ども達に聞いてみると、「ケーキを食べる」「プレゼントをもらう」「ハッピバースデーのお歌を歌う」という答えが返ってきます。 みな、一様にとてもうれしそうに話してくれます。自分のお誕生日でも、パパやママ、兄弟、姉妹のお誕生日の時も・・・です。
 でも、どうしてハッピーな気分、なんでしょうね?ケーキが食べられるから?(現代では、ケーキを食べることそのものは、それほど貴重な体験ではなく、ある意味、日常茶飯事のことでしょうが、1ピースのものではなく、ホールのケーキを買って食べる、ということは、やはりウキウキすること、かもしれませんね)好きなご馳走だからでしょうか?それともプレゼントがもらえるから?
 きっと、どれもこれも「ピンポーン」でしょうね。そして、物心づいた頃から、「お誕生日は、どこのご家庭でもハッピーな気分、ハッピーな演出をして迎える」ようにしているから、それが幼い子どもであっても「うれしい気分になる日」なのでしょう。
 
 では、親であるみなさんにとって、我が子のお誕生日は、どんな日でしょうか?
毎年、何か決まったことをされるでしょうか?中には、必ず写真を撮る、という方もおいでになります きっと、何年か撮りためていかれると、それはそれは貴重な成長の記録であり、どんな様子で、どんなことを話してそのお写真を撮ったのか・・・など、すべてが尊い思い出になることでしょう

 我が家の場合も、大抵、ケーキの用意をして、お誕生日の主役の好物のご馳走を作り、ハッピーバースデイの歌を歌ってプレゼントを渡す・・という、とてもオーソドックスなスタイルです そして、それが子ども達のお誕生日の場合には、私は毎年必ず、彼らが生まれた日のこと、その前後の日のことを思い出します
 陣痛に耐えながら考えていたこと、その時の音、空気・・・すべてのものを思い出しますね・・・病院の匂いだったり、真夜中の真っ暗な陣痛室だったり、助産婦さんの声であったり、病室から見た陽射しだったり、花壇の花々だったり・・・(残念ながら、帝王切開だった息子の出産は、そういうドラマチックな出産の思い出ではなく、出産後の痛さに耐えて数えた天井の幾何学模様の数であり、2日目にしてやっと見た我が子の、しわくちゃのおじいさんのような顔・・・なのですが、はっはっは

 でも、それがお猿さんのような真っ赤な顔であったとしても、そんなふうに、毎年、誕生の頃のことを思い出しているうちに、自然に胸が熱くなり、必ず最後は一人でウルウルしながら「ああ、生まれてきてくれて、ありがとう」そういう思いでいっぱいになります。
 多くのお母様達も、きっと同じ思いを持たれるのではないですか?

 つい10日ほど前、息子がお誕生日を迎えました すでに成人もしている息子ですから、幼い頃のような「絵に描いたようなお誕生日」ではありませんが、それでもお誕生日は特別な日。誕生から今日までのさまざまなシーンを思い出していると・・・やっぱり、ウルウルします

 けれど、今年の息子のお誕生日は、今までとはかなり違う、さまざまな感覚、考えを持った日になりました
 すでにみなさまはご存知ですが、息子は昨年の11月に緊急入院をし、翌月の12月、心臓の弁置換手術をしました。(そういう一連のことは、ブログにも書かせていただきました)かなり重度の心不全の状態で手術を受けなくてはいけなかったため、普通の弁置換手術の何倍も命の危険性があり、夫も私も、無事に手術が終わり、息子の心臓が自力で動き出したことを知らされた時には、それは「奇跡」に思え、神様に大きな大きな感謝をしました
 感動、とか、安心、という言葉がありますが・・・そういう言葉は、まさに「この時」のために使う言葉だったんだなあ、と実感した瞬間でした。

 じつは・・・
私は息子の心臓病が発覚し、手術をすることになったあの時以来、ものの考え方や人生観というもの、すべてが、すっかり変わった・・・そう思います。上手く言葉で表現できませんが・・
 何というのでしょうか・・・人は「生きている」という事実だけで、すでに大きな価値がある そう思うようになった、とでも言えばよいでしょうか。

 とかく、人は「ああだったらいいのに」とか「こんなふうであって欲しいな」とか思うものです それを「欲」と言うのですね。
 もちろん、私にも「欲」はありますよ。おいしいものが食べたい、とか、一度は○○に行ってみたいな・・・とか。
 でも、あの時以来、息子や娘(娘は健康そのもの、ですが)に対しては、親として我が子に望む「欲」が、すっかり消え失せた・・・そんな気がしています。(案外、私は欲深く、彼らが幼い頃から、かなりいろいろと我が子に望むタイプの母親である自覚があったのですよ

 退院して3ヶ月以上が経過した今でも、私は入院時の息子の様子、手術後のICUでの姿を思い出すと、平常心ではいられません
 そして迎えた今年のお誕生日
病室を出て、看護師さんと一緒にエレベーターに乗り、自分で歩いて手術室に向かった息子。振り返り、私達に小さく手を挙げ・・・そして姿が見えなくなりました。
 私は何度も何度も手を挙げた息子の姿を思い出して・・・「あの子は無事に病室に戻ってこられるのだろうか・・・あたたかい春がやって来て、あの子は次のお誕生日を迎えられるのかな・・・」何て縁起でもないことを思っているんだ、と自分に腹を立てながらも、その不安を消し去ることができませんでした

 4月、東京に季節はずれの雪が降った日。息子はお誕生日を迎えました
今年のその日は、息子の誕生の頃や、歩き始めた頃、小学校の入学式、中学受験、中高の文化祭・・・そんな懐かしい胸キュンの成長の年月を振り返ることはありませんでした。母親の私が、ひたすら思っていたことは「生まれてきてくれて、ありがとう!」ではなく、「今、生きていてくれて、ありがとう」でした。

 それで・・・私は思ったのですよ
私の場合は、我が子が命の危険のある大病、大手術をしたから「今、生きていてくれて、ありがとう」と思ったわけですが、でも、そんな特別なシチュエーションではなくても、「子ども達の思い出、子ども達の過去」に思いを馳せるのではなく、「今」にスポットライトを当てることはできるはず

 我が子のお誕生日を祝うその日、5歳ならば誕生からの5年間、10歳ならば10年間の懐かしい胸キュンの成長を振り返り、「生まれてきてくれて、ありがとう」と思うのではなく、「今、まさに目の前にいる、そこにいる我が子をしっかりと眺め、あなたがこうして、今、ここにいてくれて、パパは、ママはうれしいよ」と、あらためて実感する日にすること・・・これも、お誕生日の大事な一面なのではないか?と思いました

 人はみな、よく「昔は良かった」と言います。案外、子育ての上でもそういうことを言っていませんか?
 「昔は、口ごたえも反抗なんかもせず、ママ、ママって私の後を追ってばかりいる、かわいい子だったんです・・・」
 「腕白で手を焼いたこともありましたけど、無邪気で、すごくいっぱいおしゃべりをしてくれる、明るい子だったのに・・・」とか。

 こういう親の言葉というものは、じつは、過去の我が子を今の我が子よりもかなり肯定し、現在の人柄等をどちらかと言えば否定的な目で見ている・・・ということですよね
「生まれてきてくれて、ありがとう」という気持ちは、決して誕生の瞬間のことを言っているわけではありませんが、それでも「今、存在していること」にポイントがあるわけではないでしょう

 お誕生日に、今の我が子をあらためて眺め、「今、こうしていてくれて、本当にうれしい・・・あなたは、私達のかけがえのない宝物」と思い、そう我が子に伝えてみませんか?
 「あなたが生まれた時はちっちゃくてねえ、本当にかわいかったのよ!」ではなく・・・
 「今、ママは幸せよ あなたのような子どもを持って、本当に幸せ 今日、こうしてあなたのお誕生日をお祝いできることに感謝するわ」・・・
 そんなふうに思うと・・・きっと、「今の我が子」がぐっと近くなると思います
 そして子どもも「自分に向けられている親の目」を感じ、「今の自分をしっかりと見てくれている安心感」が生まれるでしょう。それは、親の愛情を確かに感じられること、だと思います
 息子だって娘だって、幼稚園児であろうと、小学生であろうと、中学、高校生、いえいえい成人していても、我が子はみな「今」、この瞬間を、一生懸命に生きているんですものね・・・
コメント
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