今朝、我が家のマンションを出たところで、道路の工事が始まっていました 小規模な工事らしく、警備員の方がお一人、工事を知らせる大きな看板の前で立っていらっしゃいました。
私は思わず、その方の前を通り過ぎる時、会釈だけではなく「おはようございます」とご挨拶をしました。
すると、警備員さんは、少々面食らった顔をなさった後で、すぐに小声で「おはようございます」を応えてくださいました。工事は、直接はうちのマンションには関係のない工事ですから、たぶんその方は、どうして自分のマンションに関係のない工事のために来ている警備員に、わざわざ挨拶をしたのだろう?という発想だったのだと思いました。
私にとっては、その方が自分の生活に直接関係ある、なしに関わらず、「おはようございます」と気持ちよく挨拶をして、たとえ一瞬でも関わり、その方との間に、「あたたかい時間」を持ちたい、そう思ったのでした
私はとても小さな頃から、「愛想の良い子ねえ」と言っていただけるタイプの子供でした 商人の町大阪で生まれ育った私にとっては、「愛嬌良し」というのは、かなりの財産だったのです
私の祖母などは「笑顔、千両」とよく話しました それほど、愛想の良い、笑顔良しの女の子は、評価が高かったのです
とは言え、私の愛想は、努力の上にあるものではありません 生まれた時からきっと備わったものであり、幸いなことに、気づけば愛想の良い子供、だったわけです
ただ、人一倍「人好き」だったことは、その愛想良しに拍車をかけていたかもしれません。
この「人好き」が高じて、国籍を問わず、多くの人とコミュニケーションがとりたい、という思いとなり、外国語学習が好きになりました ですから、私にとっての英語も、学生時代の第2外国語のフランス語も、主人の駐在時に学習したインドネシア語も、高1の友好訪韓団以来、懸案となっている韓国語学習も、すべて「言葉の学習」が目的ではなく、その言葉を使って、人と話したい、時間を共有したい、共に笑ったり泣いたりして、理解し合いたい、というものだったのですね・・・
そういう意味で、自分で話していて通じないような言葉は、私にとっては意味がないものです どんなに格調高い言葉を知っていても、どんなに正しい構文を使いこなすことが出来ても、もし、その言葉が相手に通じないような「読み書き的な言葉」や「カタカナ的な言葉」では、私にとっては価値のないものでした
たとえば・・・私の主人は英語が堪能です。彼にとっては英語は仕事をする上で、必要不可欠な道具でした 会議をする、契約を取り交わす、商売上での法的な取り決めをする、などなど。新聞もスラスラですし、CNNのニュースも、彼の好きな番組です
では、私は?と言えば・・・英字新聞は読めません CNNは、せいぜいスポーツのコーナーだけで、それ以外はかなり困難 英語で会議?法的な取り決め?契約書を交わす?とととととととんでもない!の世界です。
私が出来るのは、お隣のおばさんとバックヤードに実ったとうもろこしの話しとか、2ブロック先のHさん宅の猫が、○○社のキャットフードが好きだとか、ホスト家庭のお父さんとお母さんの結婚の馴れ初めとか・・・そんなよもやま話しで盛り上がり、一緒に冗談を言いながら笑い合うことだけです
でもね、そこにはあたたかい人間関係があり、血の通ったつきあいがある
言葉が人と人とをつなぎ、心と心が通う・・・私にとっての言葉は、そういうものでした
先日、考査を目前に控えた年長のクラスで、「もし、あなた達が歩いている時、知らない人から道をたずねられたら、あなたはどうする?」と聞いてみました。
すると、ある子から、全く躊躇なく、「知らない人から話しかけられたら、絶対にその人のほうも見ないで、知らんぷりをして、どんどんと歩く」という答えが返ってきました。
じつは、私は不覚ながら、そういう答えを全く予想していなかったので、大変驚き、大きな時代の変化を実感したのでした
子供達が、確かに多くの危険にさらされているこういう時代の中で、「人への親 切」や「人との関わる優しさ」などを、どのように教えていけば良いのか?心底その難しさを感じた時間でした
「すみません、お嬢ちゃん、○○の駅は、この道で間違っていないかしらねえ?」と、にこやかに微笑み、近寄っていったおばさんをキッと睨み、足早に通りすぎるかわいい小学生・・・
仕方のないことなのかもしれません。けれど、私はどうしても、そういう光景を想像するだけで、胸が痛みます。
危険と隣り合わせの現代。どこに子供にとっての落とし穴があるかが、わからない世の中です。そんな中で、やっぱり私は、人と人とがふれあうことのすばらしさ、人との関わりの中で育つ心の豊かさを、幼い子供達に教えていきたい、心からそう考えています そのための方法を、私は毎日、真剣に考えているのです
明日、朝に顔を合わせるであろう工事現場の警備員さんは、きっと私の姿を見ると、ふっと表情を和らげ、今日よりも親しげに「おはようございます!」と応えてくれるに違いない。私はそう信じています
私は思わず、その方の前を通り過ぎる時、会釈だけではなく「おはようございます」とご挨拶をしました。
すると、警備員さんは、少々面食らった顔をなさった後で、すぐに小声で「おはようございます」を応えてくださいました。工事は、直接はうちのマンションには関係のない工事ですから、たぶんその方は、どうして自分のマンションに関係のない工事のために来ている警備員に、わざわざ挨拶をしたのだろう?という発想だったのだと思いました。
私にとっては、その方が自分の生活に直接関係ある、なしに関わらず、「おはようございます」と気持ちよく挨拶をして、たとえ一瞬でも関わり、その方との間に、「あたたかい時間」を持ちたい、そう思ったのでした
私はとても小さな頃から、「愛想の良い子ねえ」と言っていただけるタイプの子供でした 商人の町大阪で生まれ育った私にとっては、「愛嬌良し」というのは、かなりの財産だったのです
私の祖母などは「笑顔、千両」とよく話しました それほど、愛想の良い、笑顔良しの女の子は、評価が高かったのです
とは言え、私の愛想は、努力の上にあるものではありません 生まれた時からきっと備わったものであり、幸いなことに、気づけば愛想の良い子供、だったわけです
ただ、人一倍「人好き」だったことは、その愛想良しに拍車をかけていたかもしれません。
この「人好き」が高じて、国籍を問わず、多くの人とコミュニケーションがとりたい、という思いとなり、外国語学習が好きになりました ですから、私にとっての英語も、学生時代の第2外国語のフランス語も、主人の駐在時に学習したインドネシア語も、高1の友好訪韓団以来、懸案となっている韓国語学習も、すべて「言葉の学習」が目的ではなく、その言葉を使って、人と話したい、時間を共有したい、共に笑ったり泣いたりして、理解し合いたい、というものだったのですね・・・
そういう意味で、自分で話していて通じないような言葉は、私にとっては意味がないものです どんなに格調高い言葉を知っていても、どんなに正しい構文を使いこなすことが出来ても、もし、その言葉が相手に通じないような「読み書き的な言葉」や「カタカナ的な言葉」では、私にとっては価値のないものでした
たとえば・・・私の主人は英語が堪能です。彼にとっては英語は仕事をする上で、必要不可欠な道具でした 会議をする、契約を取り交わす、商売上での法的な取り決めをする、などなど。新聞もスラスラですし、CNNのニュースも、彼の好きな番組です
では、私は?と言えば・・・英字新聞は読めません CNNは、せいぜいスポーツのコーナーだけで、それ以外はかなり困難 英語で会議?法的な取り決め?契約書を交わす?とととととととんでもない!の世界です。
私が出来るのは、お隣のおばさんとバックヤードに実ったとうもろこしの話しとか、2ブロック先のHさん宅の猫が、○○社のキャットフードが好きだとか、ホスト家庭のお父さんとお母さんの結婚の馴れ初めとか・・・そんなよもやま話しで盛り上がり、一緒に冗談を言いながら笑い合うことだけです
でもね、そこにはあたたかい人間関係があり、血の通ったつきあいがある
言葉が人と人とをつなぎ、心と心が通う・・・私にとっての言葉は、そういうものでした
先日、考査を目前に控えた年長のクラスで、「もし、あなた達が歩いている時、知らない人から道をたずねられたら、あなたはどうする?」と聞いてみました。
すると、ある子から、全く躊躇なく、「知らない人から話しかけられたら、絶対にその人のほうも見ないで、知らんぷりをして、どんどんと歩く」という答えが返ってきました。
じつは、私は不覚ながら、そういう答えを全く予想していなかったので、大変驚き、大きな時代の変化を実感したのでした
子供達が、確かに多くの危険にさらされているこういう時代の中で、「人への親 切」や「人との関わる優しさ」などを、どのように教えていけば良いのか?心底その難しさを感じた時間でした
「すみません、お嬢ちゃん、○○の駅は、この道で間違っていないかしらねえ?」と、にこやかに微笑み、近寄っていったおばさんをキッと睨み、足早に通りすぎるかわいい小学生・・・
仕方のないことなのかもしれません。けれど、私はどうしても、そういう光景を想像するだけで、胸が痛みます。
危険と隣り合わせの現代。どこに子供にとっての落とし穴があるかが、わからない世の中です。そんな中で、やっぱり私は、人と人とがふれあうことのすばらしさ、人との関わりの中で育つ心の豊かさを、幼い子供達に教えていきたい、心からそう考えています そのための方法を、私は毎日、真剣に考えているのです
明日、朝に顔を合わせるであろう工事現場の警備員さんは、きっと私の姿を見ると、ふっと表情を和らげ、今日よりも親しげに「おはようございます!」と応えてくれるに違いない。私はそう信じています