先日の「たなばた」、満天の星空は残念ながら見ることは出来ませんでしたね でも、きっと空の上では、年に1回のデートを果たされたことでしょう
梅雨が終われば、いよいよ夏がやってきます 子供達にとれば、とっても楽しい季節の到来ですね 海、川、山、高原、野原、虫・・・自然に触れることが多くなります
ちょっとここで「星」のはなしを・・・
みなさんは「星」はお好きですか?「星」をゆっくり見上げたことはありますか?
じつは、私は子供の頃から、とっても星が好きなんです
たぶん、一番最初に「星」を意識したのは、小学校1年生の夏、母方の祖父が亡くなり、母に「おじいちゃまは、お空の星になったのよ」と言われた時だったと思います。それ以来、私は空を見上げて、一番光る星を見つけては「おじいちゃまの星」と思い、心の中でたくさんのお話をしましたねえ・・・
こんなふうに書くと、さぞかし私が「おじいちゃんっ子」だったと思われそうですが、実際には、年に2,3度しか会うことのなかった存在でした
他の孫達は、全員が祖父の近所に住んでいたことに対して、私一人が大阪に住む孫・・・
都会っ子の私の存在は、祖父にとって「特別」であったようで、わざわざ棚の上に、「まどか用」と書かれた箱があり、その中には私専用のハサミや折り紙などが入れられてあったことを、今でもよく覚えています
星になったおじいちゃま・・・たぶん、そのことが私にとって、とてもインパクトがあったのでした そういう意味では、亡くなってからのほうが、私は毎晩空を見上げ・・・祖父は近しい存在になったように思います
今の子供達は、何でもかんでも、とっても現実的です。いや・・・科学的、と言うほうが正しいでしょうか
優秀だけれども、夢がない・・・
私のように「私の奈良のおじいちゃまはね、お星様になったのよ!」などと言おうものなら、きっと幼稚園児でも、「もの知り博士的」な子がつかつかとやってきて、「人は死んでも星になんかならないよ!だって、星は、すんごーーーーく遠いところにある、地球みたいなものなんだもの。人が死んだって、星になんてならない」などと言いそうです
確かに、知識として、様々なことを知ることは、とてもすばらしいことです でも、同時に、やはり「夢のある心」「モノを物体として見る目だけではなく、感じる感性を持つ」ことも、やっぱり大切だと思えてなりません
私は、今までの人生の中で、3回、星空を見て「特別な感情」を持ったことがあります
1回目は小学校4年生の夏の剣沢で。
両親との山行で、剣沢にテントを張っていた夜のことです。見上げると、晴天の夜空はあまりにも星が近く、周囲には何の音もなく、吸い込まれてしまうのではないか・・・と思ったものです。
2回目は、大学2年生の夏。国際キャンプでテキサス州に行った時のこと。
6週間のキャンプを終えて、レイクブリッジポートという湖のほとりで、ヨーロッパから来たキャンパー達と一緒に寝ころんで満天の星空を見ました
テキサスは大変フラットな土地で、寝ころんでいる真横から、星空がありました。まさに、半休の星空の中に自分が横たわっていました。光のくずを散りばめたような星空をじっと見ていると、何個もの人工衛星がゆっくりと進んでいるのが、はっきろと見えるのです ひっきりなしに、流れ星も見えました。私はこの時に初めて、星や空というものが「宇宙」なのだという「科学としての空」を実感したのでした
そして3回目、それは、主人が駐在したインドネシアでのこと。
ジャカルタから船で1時間のリゾート「プロウ・スリブ」。プロウ・スリブとは、1000の島、という意味で、小さな島が点在するエリアの中、マタハリ島という島がありました。
その小さな島の使われなくなったヘリポートに寝ころんで星空を見上げるのです。もちろん、空には満天の星。海の音が聞こえます。この時には、幼稚園児と、小学校低学年の子供達も一緒です。日頃はおしゃべりな二人も、マタハリにいくたびに、あのヘリポートで星空を見上げる時だけは、妙に静かでした。
当時、私はよく「きっと、この子達も、星空に『何か』を感じているのだろうなあ・・・」と思ったものです
いかがですか?
都会では、なかなか満天の星を見ることはできませんが、手始めはプラネタリウムで「星」をもっと知ることもできますよ
せっかくの「夏」です。星を見上げて、宇宙の話、人工衛星の話、星座の話、そして「星になった誰かの話」・・・たくさんの話の種、考える種、感性の種になる「星」を、あらためて見てみませんか?