森羅万象、政治・経済・思想を一寸観察 by これお・ぷてら
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教育基本法改悪反対・市民賛同緊急署名にご協力ください
ハムニダ薫さんから以下のコメントをいただきました。みなさんのご協力をよろしくお願いします。
こんにちは。相変わらずTBが送れないので(TB専用のミラーブログを開設する予定ですが、忙しくて手が回りません)、コメント欄を利用させていただきます。 教育基本法「改正」情報センターの下記のページで「公述人・参考人として教育基本法案の徹底審議を求めます」への市民緊急賛同署名を集めています。 http://www.fleic.dyndns.org/cgi-bin/appeal1206.cgi 締め切りは12月13日(水)午前10時です。すでに多くのブロガーさんたちが、この署名についてとりあげていおられますが、まだこの署名運動自体を知らない方が多くいらっしゃいます。よろしければ貴ブログでもこの署名の告知をしていただけないでしょうか。よろしくお願いします。 |
■賛同署名はこちら (教育基本法「改正」情報センターはこちら)
国会は会期末15日をひかえ、自民・公明両党が11日、教育基本法改悪法案について、13日の参院教育基本法特別委員会で締めくくり総括質疑と採決という日程を野党側に示しました。また、状況を見定めつつ、国会の会期延長も14日ごろに最終判断する方針を決めています。
まだ間に合います。ご協力をお願いします。
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格差社会の中のワーキングプアという貧困
NHKが放映した『ワーキングプアⅡ-努力すれば抜け出せますか』は再び反響をよんだようだ。多くのブロガーのみなさんがこれを取り上げていた。
ワーキングプアという新しい貧困は、高度成長期をへて定着したといわれている終身雇用や年功序列賃金などの日本型雇用システムの解体とともに現れてきた。
正規雇用から非正規雇用への「置き換え」は、たとえば1年間で100万人を超える大リストラに端的に象徴されるように、かつての労働環境を一変するものであった。それを昨日の当ブログではみたのだが、ワーキングプアはこの過程のなかでつくりだされた人為的な現象だ。
当ブログではNHKが報じたことについて「もっとも犠牲と矛盾が集中した層ともいえる女性、中小企業、高齢者に照準をあてていた」とのべた。離婚後、女手ひとつで月10万にも満たない賃金で生計をたて、二人の子どもと暮らす女性。子どもの一人がなにがを望むのかを問われて「お母さんにいっぱい話したい」とのべたことが印象的だった。人間というものが人と人とのコミュニケーションによって成り立ち、生きていく動物であるとすれば、この子どもたちと母親は非人間的な環境のなかに強制的に置かれていると断言せざるをえない。それでも救われると私が思ったのは、子どもたちの生きて生きたいという強い意思を表すような彼らの眼の輝きであった。
番組では、中小零細業者と無年金の高齢者の生活ぶりにも光をあてていた。これらの人びとの今日は、彼らが自身がつくりだしたものでも、自ら選択した結果でもない。聞くところによれば、この番組を通して日本社会の今日抱える実態に迫り、どこが問題なのかを抽出しようとする番組関係者への「圧力」が強まっているようである。
その圧力は、関係者とともにじかに番組をみた私たちがはね返さなければならない。とりあえずできることは、ファクスやメールで番組の感想を送ることである(メールフォームはこちら、ファクスはこちら)。
話を元に戻せば、番組でとりあげられたケース以外に、たとえば新しい貧困の実態をつぎの指標でうかがい知ることができる。
日本は貧困化率第2位。今年7月に経済協力開発機構(OECD)が公開した「対日経済審査報告書」はつぎのようなデータを明らかにしている。それによれば、日本は、OECD加盟国中、1980年代半ばから2000年にかけて絶対的貧困の増加を経験した唯一の国であり、所得の中央値の半分以下しかない人口の比率と定義される相対的貧困率は、この間著しく増加して、加盟国中上から5番目に高い国となっている。日本よりもこの割合が高いのは、メキシコ、米国、トルコ、アイルランド(上からの順)。また、18歳から65歳までの生産年齢人口の可処分所得の分布をとると、その中央値の半分以下の所得しかないものの比率はつぎのとおりで米国と日本は平均の8.4%よりはるかに高い。
- 米国 13.7%
- 日本 13.5%
いま一つあげれば、貯蓄率ゼロ世帯の急増である。1970年代から80年代までほぼ5%前後で推移している。90年代に入り10%前後にはね上がるが、2001年から急増する。現在は24%といわれている。実に全世帯の4分の1に相当する。したがって、今日、サラ金の多重債務で苦しむ債務者が数多くにのぼり、強引な取立てが社会問題となっているが、窮したときにサラ金以外によるところがない世帯が増加していることの反映でもある。これらは格差社会がもたらす一面にすぎず、460万を超える国保料滞納世帯など歪んだ実態はあげれば限りない。
世界では、チャベス三選など際立つ中南米の政治的なうねりについてマスメディアでも注目されてきた。たとえば東京新聞は「特報」欄で「ベネズエラ・チャベス大統領 人気の真相 圧倒的貧困層トコトン支援」と題する記事を掲載した。
たとえばチャベスの勝利は、この東京新聞の記事も伝えるように、貧困層の圧倒的な支持に裏づけられているようだ。ここでも新自由主義のもと貧困から逃れでようとする人たちの強い願いが、東京新聞デスクメモがいう「世界の潮目は明らかに変わりつつある」状況をつくりだしてきている。
さらに、バングラデシュの金融機関「グラミン(農村)銀行」とその創始者であるムハマド・ユヌス氏にノーベル平和賞が贈られ10日、授与式がおこなわれた。朝日新聞によれば、ユヌス氏は演説で「世界の指導者の関心が貧困との闘いからテロとの戦いへと移行した」と指摘した。「貧しい人々の生活改善に資金を投入する方が、銃に使うよりも賢明な戦略だ」として、イラク戦争に巨費を投じる米国などの姿勢を批判した。さまざまな評価がありうるが、しかし、貧困が国際的関心を集めていることは確実だろう。
いま教育基本法改悪をめぐり国会はもっとも緊迫した状態だといえる。政府与党は国会会期末が15日に迫る中、是が非でも成立させようとしている。教育基本法改悪案は、格差社会をいっそう深化させるとことは確実である。
「できる者」しか視野に入れず、そこに金をつぎ込む。「できない子」は排除の対象で、金をかけない。国家の統制を強め、国家への忠誠を徹底する。そこにみえてくるのは最悪の分断と差別の格差社会の姿にほかならない。その結果はまたしても貧困の拡大であることも私たちが容易に推測できることだろう。
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ワーキングプアと100万人の大リストラ
高度成長期をへて日本では雇用の安定と年功型賃金が基盤となった。これが90年代後半から崩れはじめ、2001年からの不良債権処理という名の企業淘汰とリストラをとおして、このシステムは解体したといわれている。
昨日放映された『ワーキングプアⅡ-努力すれば抜け出せますか』は、前編につづき、たとえばこんな今日の雇用状況とそこから生み出される問題点を照らし出すものであった。
90年代前半までの日本の雇用システムがいまや解体したといったが、その際、とても重要な数字をわれわれは見落としていた。下記表をごらんいただきたい。正規雇用労働者が大きく減るのは1999年からだ。1998年に3790万人の労働者は2005年3330万人と450万人ほど減っている。若年の労働者は1995年から減り始め、絶対数は580万人から280万人程度に減ってしまった。
しかし、経年的にみて、たしかに正規雇用労働者が減ったことをわれわれは知りえていたが、2001年から1年間で100万人の大リストラがおこなわれていたのだ。この大リストラの数字をわれわれがほとんど知らず、マスコミもこれを取り上げることなく現在に至ったという。このことを私は後藤道夫氏(都留文科大学教授)の論文で知った。後藤氏は、このことによって、「労働者側が長期雇用慣行を自分たちの権利の基礎において、会社に対してものをいう状況がほぼ消えた」という。
この結果もたらされたものが賃金水準の低下であり賃金格差の拡大だ。
7年間で460万人も減少した正規雇用労働者。後藤氏によれば、他方で非正規雇用労働者が400万人もふえるという「巨大な置き換え」が進行した。この置き換えで、日本の賃金水準は劇的に変化したのだ。
当ブログでは、こうした労働者へのしわ寄せへの一方で、大企業が法外な利益をあげてきたことを指摘してきた。労働者へのこうした犠牲転嫁に加えて、大企業への法人税減税など制度的優遇、さらに規制緩和がいっそう社会の貧困化に拍車をかけたと思う。加えていえば社会保障の制度改悪がこれに追い討ちをかけたことは明らかである。
この「置き換え」のなかでの変化の1つとして、企業規模による賃金格差の拡大をあげることができる。1999年の平均賃金を100とすれば、10人から99人の企業では2005年には94に下がっている。1000人を超える企業では2005年、100を超えている。この数字に端的に示されるように、小企業のほうが大企業に比べると賃下げ率が高い。それは全年齢層でそうだと後藤氏は指摘している。一方で、年収1000万円を超える層の比率が高まっていることもこれまでたびたび指摘されてきた。
先のNHK『ワーキングプアⅡ』が報道した実態は、こうした大きな変化のなかの新しい貧困だといえる。同番組では、ワーキングプアを働いても生活保護基準以下の状態と定義した。同日の放映では、もっとも犠牲と矛盾が集中した層ともいえる女性、中小企業、高齢者に照準をあてていた。
ワーキングプアは無縁だと考えるのなら、それはまちがいだといえるだろう。すでに現在の日本は急速に事態は進行している。夫婦と子ども世帯で妻の年齢が30歳~44歳というグループをとると、つぎのような変化がみられる。2002年度で610万世帯といわれる。
階 層 | 97年 | 02年 |
---|---|---|
500万円未満 | 24.5% | 30.9% |
400万円未満 | 11.5% | 16.2% |
4人世帯で500万円というのは、これからさまざまな控除、公租公課があるのでそれを差し引くと、生活保護基準とほぼ同じ水準になる。むろん生活保護は地域によって基準が異なるが、600万世帯のうち推計22%程度がワーキングプアとされるのだ。つまり全勤労世帯の5分の1はワーキングプアだといえる。われわれのだれもが少し条件が変わってしまうとたちまち同じ事態に立ち至る不安を感じるのではないだろうか。働いても貧しいという、だれが考えても異常な事態にたいする即刻打開の声をいまあげるときではなかろうか。
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教育基本法改悪をみる科学者の眼 -池内了
科学者からみると教育基本法改悪をどうみるのだろうか。
『日本労働年鑑・第24集・1952年版』(法政大学大原社会問題研究所編)につぎのような記述がある。
東西日本の学界の代表的な人たちを集め、1948年秋に結成された東京と関西の「平和問題談話会」では、1049年末、東京で講和問題についての討議会をおこない、1月15日、その議事録に基いて東京、京都でそれぞれ会合をひらき、声明書を作成発表した。声明書の結語はつぎのとおりである(岩波書店、「世界」1951年4月号別冊による)。
(1)講和問題について、われわれ日本人が希望を述べるとすれば、全面講和以外にない。
(2)日本の経済的自立は単独講和によって達成されない。
(3)講和後の保障については、中立不可侵を冀い、併せて国際連合への加入を欲する。
(4)理由のいかんによらず、いかなる国に対しても軍事基地を与えることには、絶対に反対する。
この声明にたいし、3月14日付読売新聞社説は「これは客観的にみて、かなり共産党の政策に接近したものである。進歩的な知識人として当然であり、われわれもその純粋な考え方に共感するものであるが、このような知識人の思想指導は他面大きな危険をともなう」と論じ、「平和は無色者の公平な、無偏見な要求でなくてはならない」と主張した。
上記の年鑑ではまた、以下のように記している。
4月3日、伏見康治、中村誠太郎、坂田昌一ほか百数十名の物理学者有志は、つぎのような「平和に関する声明」を発表した。
われわれ日本の物理学者は平和を熱愛する。また日本の学問がみずからの足で立ち、人類の幸福のために自由に発展することを熱望する。最もわが国の世界平和を祈り学問の将来をうれえる良心的な科学者によってつくられている平和問題談話会は、日本の講和をめぐる諸問題を愼重に研究し、各自の政治的立場を越えた共通の見解を発表した。
われわれ物理学者は原子爆弾、水素爆弾に関する専門的関心からいっても彼らの見解を全面的に支持することを声明する。
日本学術会議は、日本学術会議法第2条に記されているとおり、「科学の向上発達を図り、行政、産業及び国民生活に科学を反映浸透させることを目的」としている日本の科学者の内外に対する代表機関といえる。上の声明が「日本の学問がみずからの足で立ち、人類の幸福のために自由に発展することを熱望する」と謳っていることが重要である。
当時の状況は、敗戦後の開放的な意識状況を反映したものであることは疑うべくもない。
いずれにせよ、日本は敗戦をへて二度と戦争はしないとの思いで出発したのだが、科学者もまた、その決意を固め、人類の幸福のために科学の自由な発展を願ったのであった。
それから60年余りが経過した。時の移り変わりは速い。科学者の多くもまた、戦後まもない時期に先輩科学者たちが決意したのと同じように、今回の教育基本法改悪の動きを科学者らしい臭覚でもってとらえている。以下に宇宙物理学者・池内了の発言を紹介したい。
本来「愛国心」などの内心の問題は各人がいろいろな経験を通して形づくるものです。それを法律に書けばある種の強制が伴う。今でも「日の丸・君が代」が強制されています。教育基本法が改悪されれば、より強制力が働くでしょう。教育にときどきの権力者が介入し、国家目的に沿うように誘導されていきます。 科学は人々が豊かに、便利に暮らす道具になると同時に、人を殺す道具、戦争の道具にもなりえます。国家に対してものをいわない科学者、「愛国心」に満ちた科学者ぱかりになってしまうと科学が戦争のために動員される体制が生まれます。 科学は本来、国の壁を超えた普遍性があるものです。「国のため」に科学研究を行うということはそれと矛盾するばかりか、非常に危険なことです。批判的精神をもった科学者が多くならなければ、科学の成果は人々のために生かされません。 大学も本来の目的は、公共の「知」を発見し、人々に伝えることにあります。国に対しても意見をいい、新しい方向を提示していく役割を持っています。だから、大学の自治、学問の自由が与えられてきたのです。教育はこうあるべきだというのが国家に定められてしまうと、それがおびやかされ、体制を批判することが困難になります。 現在でも大学は競争原理に巻き込まれ、自由な活動ができにくくなっています。まだ露骨ではありませんが、国のいうことをきく大学には金を回し、批判的な大学の予算を削る仕組み、大学を国家に従属させる体制が仕組まれているのです。 教育は10年、20年先に結果が表れるものです。ところが新自由主義がはびこる中で、目先の成果さえ上げれぱいいという風潮が強く、先を見すえて教育を考えることが非常に希薄になっています。文科省は学力テストをやるといいますが、そのようなやり方ではますます狭い範囲の知識量だけを競うことになり、一番大切な、自分の頭でものを考える力は身につかない。学校がランクづけされ、上位の学校に入れない子どもは切り捨てられ、小さいうちに将来が決められてしまいます。 国の思うがままになる教育体制をつくり、その上で憲法を変える。自分で考えず、上で旗を振ればみんながついていく体制をつくる。基本法改悪にはそういう狙いがあると思います。 |
【関連エントリー】
以下のエントリーに池内了の本『物理学と神』の感想を記しています。
神の領域・または・見えざる手
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加藤周一 -未来のために今必要なこと
私はこれまでの民主党には懐疑的だが、それでも沖縄知事選での野党共闘の枠組みを尊重したいし、共闘の維持にあたった同党の努力もまた評価したい。だが、民主党の態度はここにきてどうか。
法案提出者の民主党・枝野幸男は「手続き法がないとおかしいという意見はあるが、ぜひつくれという意見は大きくはない」としながら、「つくらないでいいことではない」と語っている。この開き直りにはほんとに辟易する。手続き法案の審議が今後の改憲にむけた一階梯であることはだれの目にも明らかだろう。手続きに関していま与党案も民主党案もいずれも、民意をくみつくそうという立場にたっておらず、下手をすると有権者2割の賛成で改悪案が承認されかねない。他の法案同様、この法案も重大な局面にある。あらためていえば、世論調査の結果をみても国民はいま改憲をのぞんでいるのではない。
歴史にはターニングポイントとなる局面がむろんある。昨年の自民党大勝から今日、そして来年の参院選まで、のちのち振り返って歴史の画期になるのかもしれない。こんな状況のなかで、護憲か改憲かをめぐる問題の所在を、簡潔で、しかもとても分かりやすく本質をえぐった発言に出くわした。加藤周一の発言である。
その思考の明晰さを疑う人はおそらくいないだろう。加藤は以下の発言でもそれを如何なく発揮している。平和を考える上で、憲法をめぐって日本が今後採らなければならない選択肢について、端的にこれほど明快に考察し説いたものを私は知らない。九条の会・憲法セミナー(11・25)での発言である。 加藤は、いまこそ未来のために私たちが考えを深めることを説いている。
セミナーは、仲間を広げることと、考えを深めることという、二つの仕事のうち、深めることに重点があります。 考えを深めるため、問題提起をしたい。もともと平和は対外関係です。九条を守ることと、対外関係における判断の独立性は無関係ではない。そこで、二つの独立変数、護憲か改憲かと、独立か従属かを組み合わせると、今後の日本には四つの選択肢があります。 一つは、憲法をそのままにして独立する。二番目は、憲法はそのままだが従属する、独立の程度が低い。三番は、改憲して、独立を強める。四番は改憲をすると同時に、従属的な態度をとる―この四つの選択肢です。 一番は理想的です。憲法を守りながら、独立の外交政策の自由度が大きくなる。それを使って周辺国との緊張関係をなくしていくことができる。平和が強まれば軍備の必要も減っていく。 二番は現状のまま。平和主義だが外交での自由は非常に限られる。長い時間がたつとへだんだんと外国いいなりが嫌だという考えが強くなる。 嫌ならアメリカから離れて軍備を増強するか。それが三番です。しかし、アヅアの緊張を高め、アメリカからも歓迎されない。どんどん軍備を増強すると、ある段階で核兵器も、ということになる。すべての国との関係が悪化する。非常に非現実的です。 四番はどうか。これが今進んでいる改憲の方向です。そこで軍備を増強すれば、米軍に従属したものとなる。日本人が日本のためでなく外国のために戦死することになる。そんなことは受け入れられない。 一番現実的で未来のために必要なのは一番です。武器による安全保障ではなく、外交的手段で安全を保障することは、アジアでも非常に歓迎されます。どの可能性が一番現実的で日本人にとって受け入れやすいのかよく考えて、その可能性を推進すべきだと思います。 |
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澤地久枝または「満を持す」ということ
ましてや誕生後まもない、しかもその首領としての力量がさまざま取沙汰されてきた安倍某の政権がこれをおこなうのだから、なおさら釈然としない気持ちがどこかに残る。
だが、この今日の状況こそ、私は「満を持す」という言葉がぴったりするのではないかと思う。いうまでもなく「満を持す」とは弓道で使われる言葉である。辞書によれば、準備を十分にして機会のくるのを待つ(岩波国語辞典・第4版)とある。『史記』に由来する。いいかえると、「弓を引き絞ったままの状態を維持すること」である。そうではないだろうか。
弓をきりきりと引き絞り、腕の力で弓を支える。とにかく力がいる。いったんそれを緩めようものなら、的にねらいを定めた矢はたちまちその方向を失うだろう。要するに、力を保ったまま、緊張が強いられる、とてもしんどい時間にほかならない。そう私は考えている。
しかし、相手にしてみれば、この時期ほど怖いものはないのかもしれない。鋭い眼光で見据えられ、そして恐ろしく尖った矢が自分をいまにも射抜こうとねらっているのだから。
こんな相手との張り詰めた関係があればこそ、われわれは力を発揮できる。弓を精一杯引いておくことができる。周囲に気をとられることなく、相手をしっかり見据えておくことができるのだ。
そしていま一つ欠いてはならないことがある。それは、こちら側の内部の緊張関係だ。足を引っ張り合うことでは少しもない。われわれ自身のねらいの精度をお互いが引きあげていく作業が必要なのだ。そのための忌憚のない意見交換と共同の意思の確認。そして、ブロガーの世界ではブロガーとブロガーではない人たちとの共同。そんな緊張関係がどうしても必要だと私は考えている。
その上にたって、おそらく自らの緊張を保ちながら、ついには相手を射抜くことも可能になるだろう。いまは、おそらくそんなときにちがいない。
澤地久枝が九条の会で講演している。その要旨を以下に転載する(しんぶん赤旗、11・27)。発言の末尾にある「恥知らずな権力と向き合うとなかなか勝つことはできない。しかし、あきらめることはやめたらいい。勝つまでは意思を捨てないことです」という言葉は、紛れもなく澤地による「満を持す」ときというメッセージにほかならない。
人類が第一次世界大戦後、悲願として、痛切な祈りのようなものとして達成したいと考えてきたこと――平和であれかし、武力・軍事力はいらない、交戦権は封印しよう――二十世紀の歴史のなかでの願いをそっくり体現したのが、私たちの憲法です。 “九条、九条といって平和を守れるか”と冷笑する人がいます。たしかに、この世には矛盾があるし、自衛隊は大きくなり、経済的圧迫は私たちの日常に追っている。 しかも日本は依然としてニセ独立国で、アメリカがいえぱすぐに自衛隊が出ていき、血を流さないといけないといって、集団的自衛権という言葉を持ち出してアメリカの傭兵(ようへい)のように戦争にいこうとする。 しかしアメリカのブッシュさんは世界で孤立しているし、イギリスのブレアさんも浮き上がっているではありませんか。アメリカに向かって、あなたたちの国は私たちの国がやった愚かな選択と同じ方向に行こうとしている、イラクで先制攻撃をやった結果がどうなっているか冷静に考えるべきだといっていい。 私は、戦争で死んだ人と残された家族のことをお尋ねして文章を書いてきた人間です。ニューギニアでお兄さんを亡くした方がいました。お兄さんは30代で予備役だったが「赤紙」(召集令状)がきた。その晩、小さな部屋でうずくまってひどく泣いていたというんですね。お父さんを亡くした方もいた。召集されて軍隊にいく前の夜に、四人兄弟をしっかり抱きしめて泣きじゃくっていた記憶がある。 日本の男たちは女々しいのでほない。骨肉の情、愛れんの気持ちが泣かせるのです。生きて帰れるかどうかわからない場所に、強権をもって引きずりだすというのは本当にむごい。多くの男たちは帰らず、帰らなかった男たちの6-7割は餓死です。無残なことです。 歴史の時間としては、60年はつい昨日のことです。どういうことが戦争の時代にあったかということを、若い人たちが、自分につながる人の話として分かるように伝えていかなければならない。そして、日本が憲法の原点にかえることで、アジアの盟主ではなく、一国として尊敬をもって受け入れられる国になるだろうと思います。 評論家の丸岡秀子さんのおぽあさんが口癖のようにいったのが「苦労を泣かせるな」という言葉だそうです。私たちが背中に負っている多くの死者たちの苦労を泣かせないために、この人たちを忘れず、若い世代に語り伝えていく。 そして、伝えたいのは「憲法を泣かせるな」という言葉です。憲法を泣かせてはなりません。恥知らずな権力と向き合うとなかなか勝つことはできない。しかし、あきらめることはやめたらいい。勝つまでは意思を捨てないことです。 |
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ピーコ、日本国憲法を大いに語る
焼夷弾による火の海をくぐりぬけるという空襲の体験を私はもたない。戦争を例にとれば、15年戦争のなかで実際に生き、また敗戦後のアメリカの占領を体験した者とそうでない者の想像力は、明らかに異なる。たとえば、私が炎をながめていると仮定しよう。そこから出発して、いまみているその炎から私の想像はなんらかの形をとって広がっていくだろう。だが、空襲で家が焼け落ち火の海になったまちの様相を、逃げ惑う人びとの表情を、そしてそのときの炎の色を、想像の中で私が言語で表現することが一つの可能性としてはあっても、戦争をじかに体験した者の表現にほとんど遠く及ばない。戦争を体験した者の、自らの、あるいは他者の一つひとつの行為と結びつく言語が、あたかも織物のように織りなす体験の記憶が喚起する想像力とくらべれば、私をふくめてそれを実際に体験していない者の想像力ははるかに貧弱にならざるをえないのは明らかだろう。原体験を言語化できるか否かは、想像力において決定的な意味をもつ。
以下のピーコの言葉は実際の体験をふまえた発言という意味において何にもまして力強い。「全国革新懇ニュース」(11・5)から引用した。
「地球上に戦争が有ることや、日本が戦争に巻き込まれる⊂と、戦争に参加することを絶対に許せない」。著書『片目を失って見えてきたもの』(文春文庫PLUS)のあとがきに書かれた一節です。
平和を守ろうとするその思いの背景は――。
「私は戦争中に生まれていますから、小、中学生の頃はまだそこいらじゅうに戦争の傷跡がありました。親にも『家の前の川にもいっぱい死んだ人が流れていた』など戦争の話を聞きました。まわりには引揚者もたくさんいたので、中国やシベリア、樺太でどんな悲惨な体験をしたか、戦地はどうだったかなどの話はすごく身近でした。高校生のときには(太平洋戦争中の過酷な戦場体験を描いた)大岡昇平さんの『俘虜記』を読み、文化祭に招いて話も聞きました。そういう経験は心に残るものです。 なにがあっても戦争なんかしてはいけないと思います。人間の命より国が大切だなんて思いません。国を守るために人の命を捨てるという考え方も私はしません。国というのは国民がいてこその国なのです。人間の命の方が大切でね、生きていればこそなにかをできるのですから」 憲法を守ることにも強い思いがあります。 私たちはいろんなものを見たり読んだりして自分の意見を持ち、もっと冷静に考えないといけないと思います。 |
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姜尚中『愛国の作法』再び -なぜ「愛国」なのか
姜尚中の以下の一節からはじめよう。
姜とほぼ同時代を生きたものには、彼の説くところは手に取るよう分かり、それにおそらく一々うなづくだろう。姜自身はたしかに「在日」という、姜が語る「パーリア」的状況に置かれており-むろんそれは私にとってみると直接経験しえないし、理解しようにも理解しえないものでもあるのだが-、それでも、その後「何事もなかったかのように『ミーイズム』の安全地帯に脱兎のように避難する同世代」の者にたいする激しい憤りを当時、また私も感じ取ったものであった。まさに同時代を生き共有していたという気がしてならない。
そして時間はすぎていった。 だれもが当時、予測しえなかった時代をむかえたのだ。
本書のようなタイトルで新書を書くことになろうとは、10年前には想像もしなかったことです。「愛国」や「憂国」の類など、聞くだけで禍々しく思えたのは、それらが70年代初めの三島由紀夫の割腹自殺と結びついていたからです。 その頃学生になり立てのわたしは、ただひたすら彷徨っていました。「在日」という、アーレントの言う「パーリア」的状況を生きるわたしの身体を風が吹き抜けていくようでした。何に自分を賭けていいのか皆目見当もつかず、しかも自分が誰なのかよくわからない不安に怯えるひ弱な学生、それが私の実像だったのです。 そんなとき、「愛国」や「憂国」を絵に描いたような三島の華々しくもグロテスクな割腹自殺は、わたしの中に名状しがたい感情の波を引き起こしました。激しい嫌悪感と未知のものへの好奇心がない交ぜになり、そのアンビバレントな感情をどう処理していいのか、よくわからなかった記憶があります。 その後、わたしは父母の国(韓国)にはじめて足を踏み入れ、その経験がキッカケとなって「民族的」に目覚めることになるのですが、それでも「憂国」という言葉には何か白々しい思いがしていました。どうしても、自分の身体がそれに馴染まなかったのです。 ただそれでも、朴元大統領の維新独裁に抗議して決起したソウル大学生のデモを「愛国的義挙」として褒め称える立て看を書いた憶えがあります。当時学内を闊歩する新左翼のセクトから「右翼小児病」などと激しく罵られたものです。 「愛国」という言葉をなぜ使ったのか、その当時はよくわかりませんでした。ただ、政治の季節が潮を引くように退き、まるで何事もなかったかのように「ミーイズム」の安全地帯に脱兎のように避難する同世代の学生達に対する激しい怒りのようなものがそこに籠められていたのでした。 73年の初め、旧通産省による初の余暇白書「わが国の余暇の現状と余暇時代への願望」が発表され、時代は「モーレツ」から「ゆとりの時代」への転換しようとしていました。一方で土地成金が高額所得者の上位100を独占し、金製品の自由化とともに金ブームが到来し、他方では「庭付き一戸建て住宅」は庶民には高嶺の花でしたが、過剰なほどの大衆消費社会とレジャーブームが列島を席巻しようとしていました。「憂国」だの、「革命」だの、物騒な言葉は一部の過激なアウトサイダーの専売特許になり、「堅気の」フツーの人々には無縁な死語になろうとしていたのです。 あれから30年、今や「憂国」や「国を愛すること」は、メディアを通じて誰でも使える共通通貨になり、若者達を結びつける生きた靭帯に様変わりしつつあります。もはやそこには、禍々しさや影は見られません。むしろ都会的な明るい軽やかさすら漂っています。 そんな表層的な「愛国」の空気が広がる中、もはや「愛国」をただ避けているだけでは済まなくなりました。本書では、そんな時代の変化に対するわたしなりの取り組みを述べてみたかったのです。(『愛国の作法』あとがきから) |
それからかなりの歳月を経た今日、安倍某が政権につき、「愛国」という言葉を弄び、われわれがそのもとで生きてきた日本国憲法の否定を口にし改定をも日程化する時代となった。
そんなときだからこそ、以上の姜の言葉はあらためて特別の重みをもってわれわれに語りかけるのではないだろうか。
くしくも大澤真幸がこの姜のあとがきを取り上げていた(西日本新聞・時評論壇、12・4)。
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野口悠紀雄 -税制改革で庶民は潤わない
野口の主張の特徴は、政府がいま考えている法人税減税に反対していることだ。政府税制調査会(税調)は1日答申したが、その税調の改革の柱が法人税減税にあるのだから、野口の主張はほぼ税調答申の否定といって差し支えないだろう。
「法人税を下げるだけで経済は活性化しない」「業績好調の業種では最近、過去の欠損金を使い尽くし、法人税を支払う段階に入った。企業にとっては、その納税額を減らしたい、というのが本音」「企業所得が伸びても賃金が上がらない。それは世界的な傾向」「法人減税して、所得税や消費税を増税しようというのだ」、これらは私がいっているのではなく、野口が説いているものだ。野口の説くところは庶民の思いを代弁するものになっていないだろうか。以下、朝日から引用する。
安倍政権になって、法人税を減税して日本経済を活性化しようという路線が強まっている。これには強い違和感を感じる。 法人税率の引き下げは企業の設備投資を増やさない。税引き後の投資収益は増えるが、支払利子のうち損金算入できる額が減るので資本コストが上昇し、両者が打ち消しあうからだ。これは経済の教科書として世界中で使われているドーンプッシュ、フィッシャーの『マクロ経済学』にも記されている経済学の常識だ。つまり法人税を下げるだけで経済は活性化しない。 日本の法人実効税率は40.87%。米国(ロサンゼルス、40.75%)も同じぐらい高いが、経済の調子はいい。スウェーデンだって所得税や間接税を含めた租税負担率で考えると、非常に負担率が高いが、経済は好調だ。現実の世界では「税負担が重いと経済が悪化する」という議論とは全く逆のことが起きている。 それにもかかわらず、法人減税の圧力が強まっているのは、景気回復で企業利益が増加したためだ。長期不況で、法人税を負担していない欠損法人の比率は03年に68%にのぼった。税制上、欠損は最大7年繰り越しできる。しかし、業績好調の業種では最近、過去の欠損金を使い尽くし、法人税を支払う段階に入った。企業にとっては、その納税額を減らしたい、というのが本音だろう。 安倍政権は来年度の税制改正で減価償却制度を見直し、企業負担を軽減する意向のようだ。その恩恵を最も受けるのは、巨額投資した設傭を持つ重厚長大産業、とりわけ鉄鋼業だ。 法人税を下げれば、税引き後の法人所得が増えるので、分配が企業の側に多くなるのは間違いない。それは、企業の役員所得や配当など比較的豊かな人の所得になる。・ 高度成長期には、企業所得が伸びれば、賃金に還元されて国民が全体として豊かになった。しかしグローバリゼーションが進んで、社会主義圏の30億人もの労働力が市場経済に組み入れられ、賃金の下げ圧力が強まった。企業所得が伸びても賃金が上がらない。それは世界的な傾向だ。 だからこそ、公的な施策を通じて、所得の再分配機能を強めないといけないのに、現実には全く逆方向の税制改革が行われようとしている。法人減税して、所得税や消費税を増税しようというのだ。これは重大間題で、政治的に大きな対立が起こって当然だ。本来は民主党がこの問題を提起して、来夏の参院選の最大の争点にする必要がある。 |
政府や財界はこれまで、「社会保障の財源を補うために消費税の増税が必要」などといって、消費税の導入・増税をすすめてきた。消費税は以下の図であきらかなとおり、所得の低い人ほど負担割合は高い(図;消費税をなくす会パンフから)。だとすると、野口もいうように、所得の再分配を強めようという立場とこれ、つまり税調などの消費税増税の立場はまったく逆の方向になる。再分配とは、所得の低い人の底上げを図ろうというものだから。
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田口ランディ -教育基本法改悪は国民を縛るもの
そのことを田口ランディが的確に指摘している(しんぶん赤旗、12・03)。田口のいうように「自分達の都合のよい国をつくるために国民を変え」る、そのことに教育基本法改悪のねらいがある。
いま政治の中枢にいる方たちは、どうやら自分たちの都合のよい国をつくるために国民を変えたいらしい。私はこの国の未来のために行政に携わる人々の意識を変えてほしいのだが、教育基本法の改正方針を見ると、自分たちが変わる気はないようだ。 愛国心も公共心も、国が関与すべき事柄ではない。国が守るべきものは子供の人権であって、教育基本法は「国の権力によって子供の人権を侵してはならない」という縛りを与える法律でなければならない。でも、今回の改正案では、国家が法律による縛りの対象からうまく外されているように思える。 表向き「愛国心や、公共心の育成」という名目の改正になっているが、本当にやりたいことは「国も子供の権利を侵す権力になりうる」という部分を削ることではないか。法の縛りから逃れた権力は、裁くものがいない。憲法改正にも同じことを感じる。 もし、無自覚にそのような法改正をしようとしているのであれば、いま、国政に携わっている政治家は、あまりに自分達が「権力者」であるという自覚が薄いと言えるだろう。権力者であり続けると、その自覚ができなくなるのは当然かもしれない。私は政治家の家系で三代目、四代目の方には政治家になっていただきたくない。権力の中枢に居続けた人達は、権力そのものがわからなくなるから危険だ。親を見て育てば政治戦略を習得して狡猾(こうかつ)であろう。しかし、そのふりを見て「血筋」に安心感を覚えるのは誤りである。彼らは世慣れていても権力の自覚がない。それは本人が悪いわけではなく成育環境の問題であり、見抜く責任は国民にある。 安倍総理にしても、ご自身は心から『美しい国」を思い描いているだろう。だが、それが誰にとって美しい国なのかを考えるだけの、自己客観性を失っていると思う。最近の安倍総理はタウンミーティングの不祥事の弁明で、自分も被害者のような顔をしている。政治家は自分の正しさを信じきってはいけない。常に客観的に自分が「権力」の側にいることを自覚し、戒める人であってほしい。そのような人たちによってしか法を守ることはできない。 |
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中南米の愉快な反・新自由主義の波
ウゴ・チャベス――反・新自由主義の旗頭として一躍有名になった。ベネズエラの大統領だ。
元軍人。1989年2月、カラカスでの貧困層の人民蜂起に陸軍が出動したことに衝撃をうけ、1992年にクーデタを試みるが失敗、投獄される。
チャベスは少年期に貧困を目の当たりにしたという。それがのちのちの貧困層への徹底した眼差しになっているのだろう。90年代以降の新自由主義政策と現実のベネズエラ政治から遠ざけられた貧困層の圧倒的な支持を背景に99年、大統領に選ばれた。1992年にクーデターを試みたが、失敗し投獄された。しかし、1980年代以降推進された新自由主義経済改革と、民主行動党とキリスト教社会党の二大政党制、富裕層や労働組合幹部に独占されていた医療や福祉に不満をもつ貧困層の圧倒的支持を受け1999年に大統領に選ばれた。チャベスは、反米・社会民主主義の姿勢を明確にし、いわゆるボリバル革命とよばれる路線をひき今日にいたっている。
このベネズエラだけでなく、中南米の反自由主義のうねりとそれにともなう変革の嵐はどうやらやみそうにない。つい先日も、エクアドルで左派・国民同盟のラファエル・コレアが新しく大統領の座についた。11月にはニカラグア大統領選で16年ぶりに、左派・サンディニスタ民族解放戦線(PSLN)党の元大統領・オルテガが返り咲いている。周知のとおり、ニカラグアでは反政府武装組織を支援してきたアメリカの干渉がつづきオルテガが敗れたのであった。
中南米でのこのうねりは、新自由主義が結果として格差を広げるばかりで、貧困はいっこうに改善されないことにたいする怒りや不満の表れに他ならない。人びとは、変化をもとめてチャベスに、コレアらに託したのであった。まさに、反・自由主義をかかげる旗頭である彼らは人々の救世主となりえたのであろう。陽気で、愉快な中南米にふさわしい政治の変革の嵐といえる。
こんな中、きょう12月3日は、このチャベスの立候補するベネズエラ大統領選挙の投票日である。チャベスの再選は衆目の一致するところだ。
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「地球の裏側」を経由して教育基本法改悪、格差社会を見る
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池田香代子が語ったこと
ドイツ文学翻訳家・池田香代子が教育基本法改悪をしかり、つぎのように語っている。政府与党がなぜ改悪を急ぐのか、簡潔でしかも明快に語っている。
よほどのうそがなければ、戦争など起こせません。満州事変、トンキン湾事件、イラク戦争。みんなうそから始まりました。よほどのうそがなければ、変える必要のない法律を変えることなどできません。 教育基本法はアメリカの押しつけだといううそ。タウンミーティングのやらせ質問といううそ。とくに、やらせ質問は、権力が私たちの税金を使って、私たちのさして関心のない課題を関心があるがごとくクローズアップし、しかも変えたいとの私たちの意思があるがごとく偽装した、ゆゆしき事件です。 教育にはさまざまな問題がありますが、教育基本法がその元凶ではありません。 教育基本法を変えたい政治家は、子どものモラル低下を嘆いてみせます。しかし、50年前に比べて少年犯罪発生率は5分の1以下です。「子どもの規範意識低下」は教育基本法がらみのうそのなかでも、もっとも許せない大うそです。 やらせタウンミーティングが皮肉にも雄弁に先取りしているように、教育基本法を変えることを望む人々は、政治家や官僚が人々の心のありように無制限に介入し、そんな政治家や冨僚に従順な、彼らの思惑を自分の考えであるかのような「態度」をとれる人間をつくりたいのです。 教育予算を非エリートとされた者にはできるだけ使わず、限られたエリートにのみ集中したいのです。それは政府案の「義務教育」の個所から「9年」という文言が消え、「法律の定めるところにより」が新たに加わったことに現れています。 教育現場を評価でいまよりもさらにがんじがらめにしようというねらいも顕著です。 国連は「子どもの権利条約」にしたがい、5年の間隔をおいて二度も日本の子どもたちのストレスの重さを指摘し、改善を勧告しています。 相次ぐ自殺や自殺予告は世界的に見ても異常なストレスがあるところに、昨今の教育現場の問題が最後のひと押しとなった現象ではないでしょか。ことに自殺予告は政治家や官僚に対する子どもたちの批判ではないでしょうか。(しんぶん赤旗、11・29) |
池田が指摘するように、うそにまみれた政府与党のすることとはこの程度のものと考えざるをえない。
12月4日には、以下の地方公聴会が開かれることになった。
- 新潟 ホテルオークラ 時間 9:00~11:15
- 長野 メトロポリタン 時間 15:00~17:15
- 神戸 ホテルオークラ 時間 9:00~11:00
- 徳島 阿波観光ホテル 時間 15:00~17:00
神戸では、公聴会にあわせて抗議行動も組まれている。こちら
また、日本教育学会歴代会長が1日、法案の徹底審議と廃案を求める連盟の要望書を参院教育基本法特別委員会委員などに送付した。太田尭、堀尾輝久、寺崎昌男の各元会長と佐藤学現会長である。
可能なことをすべてやり尽くす。それぞれの立場でいま、このときに、これが求められている。
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木下順二逝く -"未清算の過去"
いろいろなことがめぐってくる。
劇作家としての出発点ともいえるだろう『彦市ばなし』。『風浪』『山脈』『オットーと呼ばれる日本人』、さらに『三池炭鉱』『沖縄』、山本安英との『夕鶴』。そして『子午線の祀り』。『子午線の祀り』では、コラボレートのはしりともいえる、歌舞伎、能との技法の「融合」を図った。
馬の話をするときの木下、「安保体制打破新劇人会議」での木下。
木下の眼光は、劇作でも、それをはなれた発言でも常に社会に鋭く向けられていた。
『劇的とは』という木下の新書がある(岩波書店、1995年刊)。この著作で、木下は「未清算の過去」についてなんども繰り返している。戦後責任にたいする関心は、木下の言論活動を深く貫いていたといえる。その一節を以下にあげる。
まずいいたいのは、何度もくり返した"未清算の過去"という言葉の意味です。未ダ清算セザルノ過去。きちんと清算しておかねばならぬ問題をいい加減にしたまま、われわれは先を急ぎ過ぎていないか。それは個人的にも社会的にも。 日本敗戦以来の半世紀の中で、私にとって最も大きな"未清算の過去"は、日本の戦争責任の追及を私たち日本人が、ドイツの場合と違って、自分たち日本人の手できちんとやらず、事柄をうやむやにいたまま今日に来てしまっているということです。 戦後すぐの頃は私も、いわゆる戦後世代の若いわれわれが、日本人の戦争責任を追及すべきだと意気込んでいたようです。戦争責任をしょいこんでいない、いわば手が”きれい”なわれわれ若い世代がその追及をやる資格があると考えていました。しかしそのことはなかなか思ったように進まず時が経つうちに、私はだんだんこう考えだしたのです。 自分の手が"きれい"だったのは、戦前戦中の自分が、まだ社会的発言権を持っていなかったからに過ぎないのではないか。もし戦争中に私が例えばもの書きに既になっていたら、私もやはり陸軍報道班員か何かになって、南方あたりへ行って、帝国陸軍の、皇国軍人のすばらしさを誉めたたえる文章を書いていたかも知れない。それを拒否しそれに抵抗することは、自分にはできなかったのではないか。いや、できなかっただろう。 そうしてみると、手が"きれい"だから他人の戦争責任を追及する資格があるのだという考え方はどうもおかしい。つまり、同じ人間として批判され追及される可能性を自分も持っているのだということ、そういう辛い自覚がなければ他人の戦争責任を追及する資格はないということ――そのことにやっと気がつき始めたのは、しかし戦後も10年を過ぎて、もう世の中が旧い体制でもって着々と整備されかけた頃でした。例えば、A級戦犯として占領軍に逮捕されたことのある人物が、日本国の首相に納まってしまうという状態でありました。つまり手おくれ、というか、自分がまともな考え方に辿りつくのは、まともでない事態がいろいろ起きるのを眺めた結果、その時になって初めてわれわれ凡人はそういうことを悟るのではないか。 これが、敗戦以来の半世紀の中で私の得た大きな教訓の一つです。 やがて21世紀を迎えようとしているわけですが、その中で"手おくれ"をなるべく少なくしたいと思います。"未清算の過去"を残したまま、先を急ぎ過ぎることがないようにしたいと思います。 むかし、すぐれた思想家であった林達夫さんが、"時代の行列"という言葉を使われたことがあります。現代というものに、自分がその中に生きている時代に何の疑いも持たず、"時代の行列"の中でただぞろぞろと歩いて行く人たちの中から思想も芸術も何も生まれないといわれたわけですが、自分の生きている現代といううものに常に問いかけを、疑問を持って、"時代の行列"の中に捲きこまれてぞろぞろと歩いている人にならないように警戒しながら、21世紀へ向かって歩いて行きたいと思います。 (木下順二『劇的とは』124~126頁) |
この本のなかで、木下はまた、自らの作品『巨匠』にもふれている。
巨匠とは、旅回りの、一生芽の出なかった凡庸な老優のことだ。木下の言葉によれば、その老優の「持ち続けた演劇への執念が、あの危機的な状況のさなかに置かれたとき、老優は純粋に全く芸術家であり得た」。要するに、凡庸な老優の、ゲシュタポの前でやった朗読、それはスターが演出者にやってみせた労働よりもずっと「おきまりの、常識的な、伝統的な」朗読だったのだが、「その中に籠められていたあの老優の命をかけての"真実"が、あの時はまだ俳優志望の青年でしかなかったこのスターの心を縛った」のだ。その「あの時」こそ、まさに劇的なのであろう。
木下によれば、「“劇的”という言葉には、新聞などでしょっちゅうお目にかかります。つまりこの言葉は気軽に使われている。しかし"劇的"のもとをたどって行くと、それはそれこそ、生きるか死ぬかの決定的問題にまで遡る」。
木下にいわせるならば、おそらくいまが“劇的”なのだろう。なぜなら、この時期に、われわれは木下のいう“未清算の過去”に無反省に、回帰しようとする政権を誕生させたのだ。だから、“時代の行列”の中に捲きこまれてぞろぞろと歩いている人にならないように警戒しながら、たとえば老優が演劇にたいして持ち続けた執念を、同じく凡庸なわれわれが今度は形にすべきときなのだから。
そんなときに、われわれは木下順二という日本の知性の一人を失った。
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斎藤貴男が「教育改革」を語る
新自由主義といわれるものは、徹底した格差社会に日本をかえようとしてきた。格差は所得だけにとどまらず、雇用の現場でも、教育の現場で深刻さをまし、人のこころまでもかえてしまう。
竹中平蔵はかつて、今後の日本はみんなで一緒に「貧しく」なるか、一握りの成功者に引っ張ってもらうか、この二択しかないとして、後者を選ぶしかない旨を発言している。この考え方を紹介した上で、ジャーナリスト・斎藤貴男はこれにあえて逆らい、「みんなで一緒に『貧しく』なろう―格差社会の現実」と題して講演した(中央社会保障学校、06年9月)。
教育基本法改悪案がすでに参院で審議され、政府与党はその成立を手続きも無視し是が非でも成立させようともくろんでいる。
先の斎藤の講演のうち、教育現場における格差にふれた一部を引用する。教育基本法がめざす方向の一端がそこには示されている。
教育政策において、企業社会と無関係であることはあり得ません。公教育を終えて社会に出るという流れの中で、企業の意向と無関係ということはいつの時代においてもあり得ません。 ですが、時代とともにそれは変化しました。かつて60年代から70年代までは製造業が中心でしたが、企業社会の二―ズは教育の機会の均等にあり、理念がうまくシンクロしていました。中学卒業生を「金のたまご」と呼び、多くの企業がこぞって集めたのもこの時期です。つまり、末端の労働者とされる人にも一定以上の知識と技能をと企業自ら高等学校をつくっていたくらいです。――こういったやり方が、いわゆる「会社人間」をつくっていったという側面もありますが。ですが、教育機会の均等という点においてはいい方向に働いていました。 しかし、時代の変化に伴って製造業は振興・発展途上国に追い越され、90年代からは日本企業は次々に海外へと進出し、国内に残されたのはサービス業が中心になってしまいました。ここまで変化を遂げると、経営者の考え方も変わってきます。多くの経営者は、サービス業の労働者は特別な知識も技能も必要ではない、マニュアル通り働ける従順ささえあればそれでよいと考えるようになります。 その結果、今日の教育改革で教育機会の均等という最も守られねばならない大切な価値が壊されてしまったのです。具体例を挙げれば、公立学校の再編成に伴う統廃合、中高・小中一貫校の増設があります。これらは教育改革の具体的メニューのひとつです。このような状況の中でも常に手厚く保護され強化されるのは偏差値の高い学校の子どもだけです。そうでない学校は次々に潰されていきます。地方に至っては偏差値が一定以下の子どもが進学できる高校は無くなってしまったところもめずらしくないのが現状です。 今般の教育改革は教育の機会均等ではなく"選択"と"集中"という企業経営者の論理がそのまま持ち込まれているのがわかります。確かに、企業における"選択〃と〃集中"は必ずしも悪いことではありません。得意な分野へは資金や技能を集中的に投入・強化し、その一方、あまり得意でない分野においては撤退することで利益の拡大化を図ればよいのです。これは企業がどうしても守られねばならない総意です。ですが、同時に雇用を守る立場でもありますから、あまり無制限になされてしまうと撤退していく事業の従僕員はどうするのかという問題があります。 教育に関して言えば、〃選択"と〃集中"を当てはめた場合、この比ではありません。つまり、今日の教育改革は限りある教育予算と人手(教員)で可能な限り効率的に配分したいというのが基本的考え方です。将来のリーダーとなり得る人、つまり高偏差値の子どもにはたくさん注ぎ込みたいと考えています。ですが、予算も人手も無尽蔵にあるわけではありません。そのため、将来のリーダーとはならない、なりたがらない人から予算も人手も巻き上げる構造が構築されていきます。ゆとり教育はその最たるものです。これが教育改革です。 はっきりしているのは、諸改革は、元々恵まれた人にとっては非常に都合がよろしいが、そうではない人にとっては辛うじて与えられていたチャンスさえもすべて剥奪し(ママ)されてしまう構造です。構造改革では、自己責任原則や競争原則という言葉が頻繁に使用され、それを言われてしまうと負け組になった人は自分が悪いかのように受け止めてしまう(ママ)がちです。 しかし、「競争」をいうからには、スタートラインが同じでなければいけません。フライングをしたら失格です。ですが、残念ながら現実はスタートラインなどいくらでも違っています。例えば、両親を事故でなくし、物心がついた頃から児童養護施設で育ち、中学を出て働こうと思っても働く場のない人がいるとします。一方、物心ついた時にはお祖父さんが総理大臣で、お父さんが外務大臣、叔父さんまでもが総理大臣、毎日黒塗りの車で送り迎えをしてもらい受験勉強もせずに大学に入った人がいるとします。 この二人が競争なんてできるわけがありません。わかりやすく100メートル走を例にとって考えてみましょう。前者は100メートルの更に100メートル後ろにいるようなものです。後者は99メートルのゴール一歩手前からスタートさせてもらっているようなものです。 それでも、競争原理をいうならば、このスタートラインの差を何とかして縮めるのが政府の役割ではないでしょうか。しかし、そんなことは絶対にしません。教育「改革」とは言えど、現状は学習に対する意欲が乏しいと見られる子どもを習熟度別クラスで一番下のクラスにまわし、そもそも勉強さえさせません。消費税の増税に関していえば貧しければ貧しいほど負担が増える逆進性のものですから、いくら頑張って稼いでも全部税金でとられてしまいます。つまり、元々100メートル後ろだったのがさらに1キロ後ろに、ゴールの一歩手前だった人は、さらにゴールの一ミリ前になったのも同然です。これでよーいドン、「勝ち組」「負け組」で負けたあなたの自己責任というのが小泉構造改革です。 |
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