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『悪魔の詩』翻訳者殺害事件の時効成立
『悪魔の詩』翻訳者殺害事件の時効が成立したという。
翻訳者殺害事件とは、五十嵐一氏が1991年7月12日、勤務先の筑波大学構内で何者かによって刺殺されていた事件。五十嵐氏には『イスラーム・ラディカリズム』『摩擦に立つ文明―ナウマンの牙の射程』などの著作があり、氏はまた、サルマン・ラシュディ『悪魔の詩』日本語版の翻訳者でもあった。
サルマン・ラシュディの『悪魔の詩』が、イスラム教を冒涜するものとして指弾され、当時のイスラム教シーア派の最高指導者であったホメイニが宗教的見解・ファトワー(fatwa)によって、著者のラシュディおよび発行に関与したものにたいする死刑宣告をいい渡した(1989年2月14日)。これを受けてイランの財団よりファトワーの実行者には高額の懸賞金が提示された。が、まもなくホメイニが死去、ファトワーは発した本人以外は撤回できないために、以後、死刑宣告をだれも撤回できなくなってしまった。いうまでもなく五十嵐氏が刺殺されたのはこの後である。さらには、93年にはトルコ語翻訳者の集会が狙撃され37人が死亡する惨劇もおき、このラシュディ事件の深刻さがいっそう浮き彫りになった。その後、今後一切関与せず懸賞金も指示しない旨をイラン政府が表明したのは1998年のことである。
ラシュディ事件の再来かとも思える騒動が伝えられたのもわれわれの記憶に新しい。
昨年来のヨーロッパ各国での騒動である。
騒動の発端は、デンマークの『ユランズ・ポステン』(Jyllands‐Posten)紙が2005年9月30日の紙面にムハンマドの風刺画を掲載したことにあった。テロリストを連想させるこの漫画を今年1月にはノルウェー誌が転載、2月に入りフランスなどヨーロッパの新聞が漫画を転載、火に油を注いだ。事態は、武装グループの欧州連合代表部の敷地内乱入、イスラム教国での不買運動にまでに発展、この様相をとらえて「文明の衝突」と伝えるメディアも生まれた。
しかし、こうした「文明の衝突」というとらえ方で何が解決されるのか、私には疑問であった。「文明の衝突」論の限界を指摘した大澤真幸氏の言説(別のエントリー)を参照したほうが分かりやすい。
だが、昨年来のヨーロッパでの騒動にあたって、多くの論者は以下に示すような見解であったように思う。
イスラム研究者の山内昌之氏は、この事件は、北アフリカや中東などイスラム諸国の移民を大量に受け入れ、ある程度まで雇用や福祉も保障してきたヨーロッパのいらだちを反映しているとみる。ヨーロッパ側の、イスラムの伝統的な価値観を可能なかぎり尊重してきたのだから、ヨーロッパ社会の価値観にもイスラム側が関心をもってしかるべき、自他ともに寛容と相互批判を尊重すべきという不満だという。その上で、山内は「表現や批判の自由は他者の信仰という心の領域を侵すものであってはならない。テロをイスラムで正当化する者への批判は必要だが、ムハンマドという預言者をテロの元凶でもあるかのように示唆する風刺画は行き過ぎだろう」と指摘した。
ヨーロッパのいらだちのむこうに見えるのは、まさに普遍性への指向である。別の言葉でいえば、「ヨーロッパ社会の価値観にたいしてイスラム側が関心をもってしかるべき」とヨーロッパ社会が主張する以上、そこには自ら「何かであること」への執着を表明していることにほかならない。また、山内氏自身の言説も、表現や批判の自由という「ヨーロッパの価値観」と(イスラムの)「心の領域」を対置させている点で、「文明の衝突」論と通底しているといえる。
ラシュディ事件後の20年ちかくで変容をとげたのは、移民の問題だ。われわれが注目しなければならないのは、移民の問題を経由して現れるのは今日、外的な文明間の衝突だけでなく、西欧社会の中での文明間の衝突として問題が存在するということである。
寛容と相互批判は、お互いが、お互いの「何かであること」を同時に措定してはじめて成立する。そして、「何かであること」を措定して、それを保持しておかなければならない。自己と他者が存在するだけでなく、対峙・対立しておかなくては寛容も相互批判もありえない。自己と他者が外的に対立することは、別の言葉でいえば、実際には普遍化しきれない、互いに独自の「普遍思想」をかかげることにほかならず、他者を自己に組み込もうとする意思を内在していることを示す。
自己と他者を共通に囲う真の普遍性、<普遍性>があるとすれば、それは、お互いが「何かであること」を根本から否定しなければならないのでないか。つまり、アイデンティティ、「何か」を主張することをやめることだ。このことによってのみ、われわれは解決の糸口にはじめて足を踏み入れることが可能だろう。
翻訳者殺害事件とは、五十嵐一氏が1991年7月12日、勤務先の筑波大学構内で何者かによって刺殺されていた事件。五十嵐氏には『イスラーム・ラディカリズム』『摩擦に立つ文明―ナウマンの牙の射程』などの著作があり、氏はまた、サルマン・ラシュディ『悪魔の詩』日本語版の翻訳者でもあった。
サルマン・ラシュディの『悪魔の詩』が、イスラム教を冒涜するものとして指弾され、当時のイスラム教シーア派の最高指導者であったホメイニが宗教的見解・ファトワー(fatwa)によって、著者のラシュディおよび発行に関与したものにたいする死刑宣告をいい渡した(1989年2月14日)。これを受けてイランの財団よりファトワーの実行者には高額の懸賞金が提示された。が、まもなくホメイニが死去、ファトワーは発した本人以外は撤回できないために、以後、死刑宣告をだれも撤回できなくなってしまった。いうまでもなく五十嵐氏が刺殺されたのはこの後である。さらには、93年にはトルコ語翻訳者の集会が狙撃され37人が死亡する惨劇もおき、このラシュディ事件の深刻さがいっそう浮き彫りになった。その後、今後一切関与せず懸賞金も指示しない旨をイラン政府が表明したのは1998年のことである。
ラシュディ事件の再来かとも思える騒動が伝えられたのもわれわれの記憶に新しい。
昨年来のヨーロッパ各国での騒動である。
騒動の発端は、デンマークの『ユランズ・ポステン』(Jyllands‐Posten)紙が2005年9月30日の紙面にムハンマドの風刺画を掲載したことにあった。テロリストを連想させるこの漫画を今年1月にはノルウェー誌が転載、2月に入りフランスなどヨーロッパの新聞が漫画を転載、火に油を注いだ。事態は、武装グループの欧州連合代表部の敷地内乱入、イスラム教国での不買運動にまでに発展、この様相をとらえて「文明の衝突」と伝えるメディアも生まれた。
しかし、こうした「文明の衝突」というとらえ方で何が解決されるのか、私には疑問であった。「文明の衝突」論の限界を指摘した大澤真幸氏の言説(別のエントリー)を参照したほうが分かりやすい。
だが、昨年来のヨーロッパでの騒動にあたって、多くの論者は以下に示すような見解であったように思う。
イスラム研究者の山内昌之氏は、この事件は、北アフリカや中東などイスラム諸国の移民を大量に受け入れ、ある程度まで雇用や福祉も保障してきたヨーロッパのいらだちを反映しているとみる。ヨーロッパ側の、イスラムの伝統的な価値観を可能なかぎり尊重してきたのだから、ヨーロッパ社会の価値観にもイスラム側が関心をもってしかるべき、自他ともに寛容と相互批判を尊重すべきという不満だという。その上で、山内は「表現や批判の自由は他者の信仰という心の領域を侵すものであってはならない。テロをイスラムで正当化する者への批判は必要だが、ムハンマドという預言者をテロの元凶でもあるかのように示唆する風刺画は行き過ぎだろう」と指摘した。
ヨーロッパのいらだちのむこうに見えるのは、まさに普遍性への指向である。別の言葉でいえば、「ヨーロッパ社会の価値観にたいしてイスラム側が関心をもってしかるべき」とヨーロッパ社会が主張する以上、そこには自ら「何かであること」への執着を表明していることにほかならない。また、山内氏自身の言説も、表現や批判の自由という「ヨーロッパの価値観」と(イスラムの)「心の領域」を対置させている点で、「文明の衝突」論と通底しているといえる。
ラシュディ事件後の20年ちかくで変容をとげたのは、移民の問題だ。われわれが注目しなければならないのは、移民の問題を経由して現れるのは今日、外的な文明間の衝突だけでなく、西欧社会の中での文明間の衝突として問題が存在するということである。
寛容と相互批判は、お互いが、お互いの「何かであること」を同時に措定してはじめて成立する。そして、「何かであること」を措定して、それを保持しておかなければならない。自己と他者が存在するだけでなく、対峙・対立しておかなくては寛容も相互批判もありえない。自己と他者が外的に対立することは、別の言葉でいえば、実際には普遍化しきれない、互いに独自の「普遍思想」をかかげることにほかならず、他者を自己に組み込もうとする意思を内在していることを示す。
自己と他者を共通に囲う真の普遍性、<普遍性>があるとすれば、それは、お互いが「何かであること」を根本から否定しなければならないのでないか。つまり、アイデンティティ、「何か」を主張することをやめることだ。このことによってのみ、われわれは解決の糸口にはじめて足を踏み入れることが可能だろう。
データマイニングは万能か?
私たちは、さまざまな情報を集め世界を把握してきました。かつては情報を保存するのに高いコストを必要としたので、できるだけ小さい情報量から世界を把握しようとして用いられたのが統計的手法でした。
いまやその情報が「空気に近いものとして、あまねく記録され」るに至り、世界を知るためのアプローチもかわってしかるべき。なにしろこれまで分析できなかった、あるいはしなかった情報も分析の対象になる可能性が広がっているのです。
そこでデータマイニングという手法がとられるようになる。マイニング(mining)とは採鉱を意味します。著者は、データマイニングのプロセスを以下のように2段階で整理しています。
第1は、大量の情報から隠れた法則を見つけ出すこと(一般にはこれがデータマイニングと理解されている)
第2段階は、そこで見つかった法則のなかから、使えるものを探し出すこと。
しかし、使える法則を探し出すのは結局は人間なのです。むろん、データマイニングはどんな局面でどんな法則が存在しているのかは、われわれの前に提示してくれるものの、なぜ存在するのかを説明してはくれません。
実は、私もサブタイトルにひかれて本書を手にし、読んでみようと思った。だが、甘くはなかった。
著者がつぎのようにのべでいます。ここに本書の結論めいたものがあると思います。
データマイニングは使いようによってはとても有益な結果をもたらすことができるが、万能のツールでは決してないこと、使いこなすためにはデータマイニングに対する理解が必要なこと、得られた法則の背後にあるメカニズムを見つけ出すにはやはり人間の力が要求されることを、しっかり認識して利用する必要がある。
その手法として紹介されているのは、回帰分析、決定木、クラスタ分析など。これらは、データマイニングでなくても、私たちが分類したり、分析したりするときに何らかの形で経験した手法でもあるでしょう。
データマイニングは当初、販売促進や営業支援のツールとして普及してきました。そのなかで技術的にも手法が改良され、ITを取り巻く環境変化もあいまって長足の進歩をとげました。
岡嶋は、その一方で、負の側面についても言及しています。それは、「利用者を守るため」という大義名分のもとに進行する監視です。情報漏洩の大きな割合を占める流出経路であるメールをチェックしないのでは、漏洩の監視という点で欠陥ありと判断せざるをえない。だが、一方で、そのことが憲法で保障された基本的な権利、通信の秘密を脅かす側面があると指摘しています。
まさに道具として出発しているがゆえに、誰がそれを支配し享受するのかが、生起する数々の諸問題の解決を大きく左右します。情報のはらむ問題にまず、広く国民が関心を寄せ問題を共有するところからしか、私は解決の糸口はみつからないと思うのです。
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岡嶋裕史『数式を使わないデータマイニング入門』(光文社新書)
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