苫米地さんは有名な脳機能学者で、今はやりの脳本では茂木さんほどではないかもしれないがかなりの著作数がある。二人のテイストは異なるけどね。本とは関係ないけど苫米地さんは昔マスコミを騒がしたことがあった。オウム真理教が選挙にでたころ、広告塔になっていたかわいい姉妹がいた。2人だったか3人だったか?その姉妹にかかっていたマインドコントロールを解くために脳機能学者の苫米地さんが起用された。ところがなんと苫米地さんはその姉妹の一人と結婚してしまったのだ。精神的に支配被支配の関係にあったものだからマスコミは非難した。男女の中は一概に非難できないけど、高校教師が教え子と在学中に結婚するようなものなので当然に非難はおこる。そういえば「奥さまは18歳」の岡崎由紀が参議院選挙にでるそうだ。
さて、しかしながらこの本は脳に関する本ではない。今はやりの「フリー経済」に関する本だ。でも僕がこの本を買ったのは脳のためでもフリー経済のためでもない。僕は最近オーストリア学派という経済学の学派に興味があった。その学派の創始者はカール・メンガ―という人は、他の2人と独立してほほ同時に「限界」とりわけ「限界効用」という考えを経済学に持ち込んで「限界革命」というもの起こして経済学を革新した。それ以前の経済学を古典派とよび、限界革命以後の経済学を新古典派と呼ぶ。ただしオーストリア学派は「限界効用」の新古典派的な展開に批判的で、オーストリア学派は新古典派にたいする批判者となっている。
話がもどるが、書店で『FREE経済学入門』をペラペラとめくったところ、「限界効用」とか「限界費用」とかの単語がある。オーストリア学派は「主観主義」と呼ばれる。商品の価値を限界効用という消費者の効用という個人の主観的なものに求めるからである。ただし新古典派は消費物資にだけに適用するが、オーストリア学派は生産手段となる商品にも適用する。そんなわけで、なんか商品の価格についての主観主義的な理解の助けになるかもしれないと思って購入したのである。
結論から言うと、この本での「限界効用」「限界費用」の使い方は一般的な経済学と同じでありその意味ではオーストリア学派の理解の助けにはならない。しかしこの本の記述にオーストリア学派と同じ立場ではないかと思える部分がいくつかある。アメリカのFRB(連邦準備理事会)と所得税とにたいする考えかたである。
オーストリア学派というのは本国のオーストリアではナチスのオーストリア併合によりほぼ全滅したが、アメリカにはハイエクやミーゼスのアメリカ移住によりその灯は伝えられた。しかし経済学では主流ではない。一般的には極端に政府の介入を嫌うリバタリアンという人たちの理論的基盤となっている。経済学では主流ではないと言ったが、むしろ異端といえるかもしれない。経済学を昔の日本では近経とマル経と2つに分けていたが、いまではマル経は消滅しているので、ケインジアンとマネタリストに分けることが多い。しかしここにオーストリア学派を入れると、結局はオーストリア学派とその他とにわけるしかなくなる。なぜならオーストリア学派は一切の経済政策を認めないからだ。ケインジアンは財政政策と金融政策の双方を認める。マネタリストは財政政策を認めないが金融政策は認める。オーストリア学派はその双方とも認めないからだ。
さてこの本にもどると、なんと1894年にアメリカの連邦裁判所は「所得税の徴収は違憲」という判決をだした。それは「税は平等に負担されるべきだ」という思想によっている。所得税はその累進性が平等に反するというわけだ。その後1913年に憲法の修正第16条で「議会はIncomeに対して税を徴収することができる」ことになり年々課税が強化された。なおこの1913年という年は、FRBが設立された年でもある。ちなみにリバタリアンの国会議員はFRBの廃止を訴えている。苫米地さんはリバタリアンに同情的に感じられる。
勝手な話ばっかりになったので、この本の内容を紹介しよう。
限界費用というのは、何かを生産している時、次の1単位を生産するのにかかる費用だ。そこまでのものを作るのには工場用地の買収から工場設備の設置等の多くの費用がかかっている。だが今次の1単位を作るのには、その単位に使う原料代と工員の超過勤務代だけですむ。つまり最初の1単位をつくるのに比べて、今次の1単位をつくるのに費用は少なくて済む。これが限界費用の逓減(だんだん減る)の法則だ。これをインターネット空間に当てはめると、あるソフトウエアを作るのに莫大な費用がかかったとしても、それをインターネット上で配布するにパッケージ費用や輸送費は要らない。したがって限界費用は0となる。したがって無料でダウンロードさせることができる。しかしフリードマンという経済学者がいうようにふりーランチつまりただ飯はないのである。あとでか、誰かがか、その代金を払うことになる。金を請求されるのはまだよい。むしろ奴隷にされる可能性がある。たしかに無料ソフトを使うとき、ふと御仕着せ道具を与えられているようで奴隷と同じではないかと思うときがある。
しかし無料のものをばら撒いてあとで利益を得るという方法は、インターネット以前の昔からある。それは、税金とFRBだという。子供はある社会に生まれ育ち社会からのサポートや利便を無料で受けるが、大人になったら納税をしなければならない。FRBもドルを無料で世界中に使用させるが後で為替手数料という料金を徴収する。
苫米地さんのこの本の内容はもっといろんなことを書いているがそれに触れると膨大な量になるので買って読んでね。グーグルと中国政府の対立の別の側面が見えてくる。
さて、僕がオーストリア学派に興味を持ったのはどうしてかということを書こう。ひょっとしたらマルクス主義者の友人は、僕が反マルクス主義の種本を求めていると思っているかもしれないがそれは違う。一言でいえば水に合いそうだということだ。昨日『時間と無知の経済学』(勁草書房)という「ネオ・オーストリア学派宣言」という副題のついた本を買ってきた。高いけど。「第1章 主観主義経済学の概観」を読んだが、やはり感ずるものがある。いずれ全部を読んでノートしよう。
さて、しかしながらこの本は脳に関する本ではない。今はやりの「フリー経済」に関する本だ。でも僕がこの本を買ったのは脳のためでもフリー経済のためでもない。僕は最近オーストリア学派という経済学の学派に興味があった。その学派の創始者はカール・メンガ―という人は、他の2人と独立してほほ同時に「限界」とりわけ「限界効用」という考えを経済学に持ち込んで「限界革命」というもの起こして経済学を革新した。それ以前の経済学を古典派とよび、限界革命以後の経済学を新古典派と呼ぶ。ただしオーストリア学派は「限界効用」の新古典派的な展開に批判的で、オーストリア学派は新古典派にたいする批判者となっている。
話がもどるが、書店で『FREE経済学入門』をペラペラとめくったところ、「限界効用」とか「限界費用」とかの単語がある。オーストリア学派は「主観主義」と呼ばれる。商品の価値を限界効用という消費者の効用という個人の主観的なものに求めるからである。ただし新古典派は消費物資にだけに適用するが、オーストリア学派は生産手段となる商品にも適用する。そんなわけで、なんか商品の価格についての主観主義的な理解の助けになるかもしれないと思って購入したのである。
結論から言うと、この本での「限界効用」「限界費用」の使い方は一般的な経済学と同じでありその意味ではオーストリア学派の理解の助けにはならない。しかしこの本の記述にオーストリア学派と同じ立場ではないかと思える部分がいくつかある。アメリカのFRB(連邦準備理事会)と所得税とにたいする考えかたである。
オーストリア学派というのは本国のオーストリアではナチスのオーストリア併合によりほぼ全滅したが、アメリカにはハイエクやミーゼスのアメリカ移住によりその灯は伝えられた。しかし経済学では主流ではない。一般的には極端に政府の介入を嫌うリバタリアンという人たちの理論的基盤となっている。経済学では主流ではないと言ったが、むしろ異端といえるかもしれない。経済学を昔の日本では近経とマル経と2つに分けていたが、いまではマル経は消滅しているので、ケインジアンとマネタリストに分けることが多い。しかしここにオーストリア学派を入れると、結局はオーストリア学派とその他とにわけるしかなくなる。なぜならオーストリア学派は一切の経済政策を認めないからだ。ケインジアンは財政政策と金融政策の双方を認める。マネタリストは財政政策を認めないが金融政策は認める。オーストリア学派はその双方とも認めないからだ。
さてこの本にもどると、なんと1894年にアメリカの連邦裁判所は「所得税の徴収は違憲」という判決をだした。それは「税は平等に負担されるべきだ」という思想によっている。所得税はその累進性が平等に反するというわけだ。その後1913年に憲法の修正第16条で「議会はIncomeに対して税を徴収することができる」ことになり年々課税が強化された。なおこの1913年という年は、FRBが設立された年でもある。ちなみにリバタリアンの国会議員はFRBの廃止を訴えている。苫米地さんはリバタリアンに同情的に感じられる。
勝手な話ばっかりになったので、この本の内容を紹介しよう。
限界費用というのは、何かを生産している時、次の1単位を生産するのにかかる費用だ。そこまでのものを作るのには工場用地の買収から工場設備の設置等の多くの費用がかかっている。だが今次の1単位を作るのには、その単位に使う原料代と工員の超過勤務代だけですむ。つまり最初の1単位をつくるのに比べて、今次の1単位をつくるのに費用は少なくて済む。これが限界費用の逓減(だんだん減る)の法則だ。これをインターネット空間に当てはめると、あるソフトウエアを作るのに莫大な費用がかかったとしても、それをインターネット上で配布するにパッケージ費用や輸送費は要らない。したがって限界費用は0となる。したがって無料でダウンロードさせることができる。しかしフリードマンという経済学者がいうようにふりーランチつまりただ飯はないのである。あとでか、誰かがか、その代金を払うことになる。金を請求されるのはまだよい。むしろ奴隷にされる可能性がある。たしかに無料ソフトを使うとき、ふと御仕着せ道具を与えられているようで奴隷と同じではないかと思うときがある。
しかし無料のものをばら撒いてあとで利益を得るという方法は、インターネット以前の昔からある。それは、税金とFRBだという。子供はある社会に生まれ育ち社会からのサポートや利便を無料で受けるが、大人になったら納税をしなければならない。FRBもドルを無料で世界中に使用させるが後で為替手数料という料金を徴収する。
苫米地さんのこの本の内容はもっといろんなことを書いているがそれに触れると膨大な量になるので買って読んでね。グーグルと中国政府の対立の別の側面が見えてくる。
さて、僕がオーストリア学派に興味を持ったのはどうしてかということを書こう。ひょっとしたらマルクス主義者の友人は、僕が反マルクス主義の種本を求めていると思っているかもしれないがそれは違う。一言でいえば水に合いそうだということだ。昨日『時間と無知の経済学』(勁草書房)という「ネオ・オーストリア学派宣言」という副題のついた本を買ってきた。高いけど。「第1章 主観主義経済学の概観」を読んだが、やはり感ずるものがある。いずれ全部を読んでノートしよう。
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