セレンディピティ日記

読んでいる本、見たドラマなどからちょっと脱線して思いついたことを記録します。

ストローマンからyasuさんへの返書

2011-08-21 15:29:16 | 社会経済
自分自身の備忘と思考整理ために書いているブログだがやはり他の人々が読んでいてくれるかは気になる。とりわけ名古屋市職員や名古屋市政に興味のある人々以外はどれだけ読んでいるのかなあ、と思う。でもyasuさんがコメントを寄せてくれて、思った対象者の思ったとおりの反応でストライクと言う気分。これが論理的理性的に反論の余地のないよう誤りを指摘されたら困ってしま・・、いやいやポパー信奉者ならそれは悦ばなきゃ。ともかく今日のところはストライクで満足。

陽明学もオーストリア学派も主観主義だから人々を操作できるという考え方を「思い上がり」として嫌う。でもこれも主観主義だからかもしれないが、特定の個人や集団を操作して行動することがある。王陽明は中国明朝の儒学者で文官だが不敗の軍事指揮官でもある。寧王が反乱を起こしたとき寧王の行動を操作誘導して罠に誘い込み寡兵でもって鎮圧した。あまりに早期にやすやすと鎮圧したので、かえって朝廷から反乱軍との内通の疑いをうけた。なぜ特定の個人や集団なら操作出来るのかというと、ある種の人はある事象が起きたらその全体を認識しなくて必ずステレオタイプの場当たりな行動をとるからだ。陽明学(そしてオーストリア学派)はそうした思考方法との闘いだから、かえってそうした人の思考が手に取るようにわかる。

そんなわけで、リフレ派に限らずマルクス主義者など人々を操作できると考える者や自分達だけしか通用しない論理で市民を見下している市職員始めとした公務員を見るとちょっと突っつきたくなる。だからそうした人から嫌われるのだけど。今回も反応ありで書いた甲斐あり。さあエンターテイメントの開幕だ。

さてさて、それではyasuさんのコメントを吟味しよう。

「経済学者でリフレを支持する者に、『インフレになれば万事解決』なんて主張する人はいない・・」
おやおや、僕は「リフレ派の人は・」と書いたのに、「経済学者でリフレを支持する者」に変わっているぞ。もし、リフレ派=経済学者でリフレを支持する者、でなかったらこれこそ藁人作りだね。まあオッチョコチョイだと思ってパスしよう。でも8月14日の池田信夫blogで「リフレ派も経済学界ではほぼ壊滅したが、」と言っているから、経済学者でリフレを支持する者は、主張にかかわらずいないから、僕のブログとの関わりを離れれば、yasuさんの言説は否定できない「真」となる。
まあ冗談はさておき、さて「リフレ派」にしろ「経済学者でリフレを支持する者」しろ「『インフレになれば万事解決』なんて主張する人」は本当にいないのかな?僕はいるかもしれないと思うけど、yasuさんが悉皆調査(全件調査のこと:役所用語)したかもしれないので認めてもいい。でも、それが僕の文章となにが関係あるの?僕の書いたのは「インフレにすれば万事解決みたいな事をいうが」だよ。「みたいな事」とそのものズバリは明らかに別の内容だよ。例えば「腕時計を盗んだのは高橋氏だよ」と言うのと、「あの時間に更衣室に入ったのは高橋氏だけで様子もおかしかった」と高橋氏が犯人みたいなことを言うのは似た内包をもっていても明らかに区別される。これも藁人形だね。
一つの行に2つも言葉のすり替えがあるなんてと思うが、細工して誤魔化そうとする悪意をもっているとは信じたくないし、なによりそんな知能はなさそうだもの、まあオッチョコチョイだからすぐ繰り返すと思おう。役所でもいるもん。
それで「みたいな事」を例示しよう。
リフレ派の経済評論家の上念司氏の『デフレと円高の何が「悪」か』(光文社新書)と言う本がある。この本はタイトルから察せられるように、デフレと円高は悪いと言う本。それでその本の20ページから21ページに、「しかし、断言しますが、『良いデフレ』というものはありません。なぜなら、デフレというのはモノの値段が下がるという現象に付随して、様々なデメリットを同時に発生させるからです。最大の問題は失業です。他にも住宅ローン破綻が増える、企業の倒産が増える、といった問題もあります。」と書いてある。上念氏はデフレによるデメリットを3つあげている。ニュアンスからしてまだありそう。そうすると、少なくともこの3つはデフレがなくなれば解決することになる。論理的にはデフレでもインフレでもない状態でも良いはずだが、上念氏はインフレを目指す。114ページでは「デフレというものは、・・・お金不足が原因ですから、お金を刷って供給すれば、かならずいつかデフレから脱却することができます。これは当たり前のことなのです。」と書いて、このあと「バーナンキの背理法」なるものを持ち出して、115ページで、「中央銀行は通貨発行を通じて単独でインフレが起こせるという当たり前の結論になりました。」と結論づける。ちなみにこの「バーナンキの背理法」なるもの日本で名づけられ日本のみで流通しているらしいけど、僕はには本人はジョークのつもりでいったとしか思えない。ほら「インフレにすれば万事解決みたいな事を言っているだろ。
なに?「失業と住宅ローンと倒産では万事ではないって? だから「みたいな事」なのだけど。そりゃ人間にはもっと難問の老・病・死・別離の4大問題があるから万事ではないか。おおそうだ壊滅していないならいまでもリフレ派の経済学者の松尾立命館大学教授に『不況は人災です!』(筑摩書房)がある。絶滅危惧種のマルクス派としても生きのびているから生命力強いものね。それによると自殺も離婚も不況(デフレ)のせいだから死と別離はクリアだ。ただし僕の見るところ松尾氏は「お金ジャバジャバでインフレ」を都市伝説みたいに思って信じてないが、それを利用して大衆がインフレ期待をもてば不況脱出てきると思っている気がする。でもなあ、日銀か金融緩和したと聞いてこれはインフレになるぞと思う消費者なんていないよ。スーパーでも自動車デーラーのショウルームにでも行ってお客に聞いてごらんよ。過去にそんな経験したことないというから。企業家がインフレ期待をもつかもしれないって?生知識により一旦そう思いかける可能性はあるけど、近年と現在の経験則からほぼインフレ期待は打ち消すのだね。だから間違った前提でも数式をたてればそれらしく見えるけど役にたたないんだ。
これに「わたしを日銀総裁にしなさい。そうすれば日本が良くなります」という森永卓郎しも例示に加えられるかも。森永日銀総裁か。顔をみると日銀総裁には違和感があるが、呼んでみるとそうでもない。何故だろう?
こんなとことで「インフレにすれば万事解決みたいな事をいう」人がいると分かってくれるかな?わからないならそれはyasuさんの判断が僕と違うので後は読む人各自の判断にまかせるしかない。

「藁人形を作って攻撃。実に虚しく情けない。」
そうでしょうね。同情します。でもオッチョコチョイからの事と善意に解釈しますからあまり気にしないように。

「インフレで解決で解決出来ることはインフレで解決しておけば、その他の問題解決や構造改革も痛みを少なくしてやりやすくなるという主張なのに。」
最初のバラグラフの意味が違っているからそれを受けたこのバラグラフは無視するべきだが面白いので取り上げよう。
この文はスーと抵抗なく聞けて同意しそうになる。どうしてだろうと思ったら内実がないからだ。つまり「インフレで解決出来ること」というのは、無限でもほとんど無しでも含みうるわけ。だから無内容にして当たり前の事をいってるだけなのだ。これは役人が答弁でよく使う手だ。例えば「法令で定められたことは法令に則り遂行して、それ以外のことは上司の支持に従います」、これは法令に特段の定めがなくて上司の支持がなかっなら何もしないということ。本当は眼前の問題を担当者がどう引き受けて解決に持ち込むかが重要なのにと、ダーティ・ハリーは思うわけである。だからこんな役人みたいな無・・、ハッ!yasuさんひょとしたら公務員まさか名古屋市職員だったりして。おおこわ、野間荘に出入り禁止になるかも。そうだよなこんなローカルのブログだもの、みんな疑って警戒しなきや。

「また、期待インフレを単なる心理的なものと思っているのも物笑いのタネだ。そんな漠然としたものではなく日々数字で確認可能なもの。」
エエ!そんな心情まで確認してしまうスーパービックブラザー見たいな物(者)がいるの!とびっくりしたが、なんのことはない、またyasuさんの言葉のすり替えだ。これではオッチョコチョイと言うより病気かなあ?僕は「期待インフレ」なんて言葉は一度も使っていない。使ったのは「インフレ期待」だ。「期待インフレ」ならインフレなのだから数字で表せるだろう。たぶん現実のインフレ率の中に推定である数字を割り当てたものだろう。虚構に感じるが。
で、僕が言ったのは「インフレ期待」。文脈からしてインフレが発現する以前のインフレを起こさせる心理的要素を指しているのは明らかで、現にインフレが起こっている中の按分されたインフレ率とは別のものだ。でも僕にもいけないところがある。僕はイメージで文章を書いたので、松尾氏が、「インフレ予想」と書いたのを頭の中で似たイメージの「インフレ期待」に転換してしまったのだ。それを、多分国語的修練がされなかったのだろうね、修飾語と被修飾語の区別とか文脈で理解することが苦手中のyasuさんがトンチンカンな文を書いたのだ。安心してよ、僕は物笑いのタネにしないから。だつて僕だって「インフレ期待」だなんて、インフレを期待する人なんて普通ではあり得ないのに、どうして取り違えただろう。はずかしい。
でもyasuさんは名古屋市職員でないことが分かったよ。読解力が採用試験の水準からかなり離れているもの。

「もっとも、たとえ心理現象にしたとろで、客観的現象と同時に満たすのが論理矛盾なんていうトンデモロジックは理解できないけど。・・」
フウう。トンデモロジックはyasuさんの頭の産物。僕が書いたのは「『インフレは貨幣現象(=客観的社会現象)」と「インフレ期待(=心理現象)を持たせなければならない」という論理矛盾を平気で主張する。」つまり、これはある村人が「雨は自然現象だ。雨季になればかならず降る。間違いない」と高らかに主張していたが、雨季に入る頃にもサッバリ降らない。すると彼は「本当は天候の変化を待つだけではダメで、龍神様の沼に若い娘を人身御供に沈めることも必要だ」と言った。これって論理矛盾だろ。yasuさんは、文脈を無視して自分の一知半解の知識の領域に持ち込もうとする。そんなにひけらかしたいのかな。素人と思って、まあ素人だけどさ、反論されないで恥をかかないと思ったのかな。それ以前に国語力の問題が大きすぎ。中学生にも足元をみすかされるぞ。こういう人は共通して必ず、文章に「理解するだけの知識」とか「知能」とか「知性」を多用するな。コンプレックスの成せる技だろう。でもこう言う人、嫌いじゃないんだ。だからストライク。
それはさておき。僕がこの部分を書いたのは、上念氏が「インフレは貨幣現象です」と大見得を切りながら、日銀が通貨供給を増やしても一向にインフレにならないためか、ブースターがいるなんて言っているから。同じ客観的現象の物理との類推で言えば、ゴム風船に空気を入れと内部の圧力が高まるため膨らむ。膨らむことができないなら、ゴム風船を破るか、注入口を逆流する。何故なら高まった空気の圧力はなんらかの形で発散しない限り現に存在し続けるから。だからインフレが貨幣現象なら貨幣の供給量が生む圧力が客観的に存在し大きければ必ずそれ自体の圧力でインフレが発現せざるを得ないはずだ。貨幣的措置だけでインフレが起こらなければ、ポパー的に言えば、インフレ貨幣現象説は反証されたことになる。
ところで上念氏の「ブースター」ではなくて松尾氏の「インフレ期待」もとい「インフレ予想」を「インフレは貨幣現象」と矛盾するものとして対峙させたのは、客観的社会現象と心理現象の対称性が面白いからもあるが、インフレ貨幣現象説がリフレ派の共通認識だと思ったからだ。でも松尾氏はちょっと違う気がしてきた。かれは『図解雑学 マルクス経済学』(ナツメ社)で「金に力があるというのは共同の思い込み」と言っている。僕はこの共同幻想論とインフレ貨幣現象論は結びつきにくい気がする。そうした気で『不況は人災です!』を読むと、僕には「人々がインフレ貨幣現象説を信じているから、それを利用して量的緩和をして(パフォーマンスで)インフレ予想を起こさせ消費行動と投資行動をさせるのが不況脱出の道。インフレ貨幣現象説の正否は関係ない」と思っていると読めるのだなあ。彼はデフレとインフレという言葉は単独で使わないで他の経済用語の一部分でしか使わない。替わりに「不況」と「景気」を使うのは興味深い。
インフレ貨幣現象説が反証されたとして、僕はどう思うかというと、インフレ・デフレ、通貨高・通貨安というものは、コモディティの裏づけのない不換紙幣の信頼度で変化するものだとおもう。これだと今の円高もハイパーインフレーションの発生も説明できる。共同幻想論と似てるけど、マルクスは不換紙幣兌換紙幣を問わず共同幻想論。僕はオーストリア派だからコモディティの裏付けのある兌換紙幣を望む。
「たとえば・・」以下はその前の部分を受けてだからコメントの必要ない。戯言を独りでつぶやいているようにしか思えない。

「まあ、『リフレ派の主張は最新の経済学研究の成果』というのに反論しようとし出してくるのが高橋教授では、・・」
そもそも「最新の経済学研究の成果・・」の文と、「高橋洋一氏に至っては・・」の文は並列だ。片方が他方の反論とか論証とか例示とかいう関係はない。
高橋洋一氏がリフレ派の弱点なのははた目から見ても感じられる。今度の文章で出した上念氏や森永氏も弱点だと思われていると思う。でも弱点ばかりを狙って出してきたわけでない。この三人がメディアに露出が多いからだ。でも数式のゴタクを取り去ったら結局残る本質は三人の表現方法になるのではないの。だいたい過去に失敗した方策を理屈づけが変わっても成功するわけではない。
僕が「最新の経済学研究の成果」云々をだしたのは、上念氏の本に出てきたから。上念氏には権威主義的なところがあり、僕にはそれが鼻つくからだ。「当たり前です」「小学生でも分かる話」とか。FFB議長のジョークが「バーナンキの背理」という神託か公理のように扱われる。そんな背景で出してみた。

「・・DSGEとかの経済学については理解するだけの知識も知識も持ってないってことだうね。・・」
DSGEといのは計量経済学のモデルだね。じつはこの機会をまっていた。前回のブログでは書くきっかけがなかったから書けなかった。だから物足りない思いをしたがチャンスはすぐ来たわけだ。
でも僕が計量経済学の知識をもっているわけではない。理解する知能ももっていないだろうな、もう老年だもの。だからyasuさんのようにあきらかに老人より知能が劣っていて傲慢な獲物を見ると老化防止にからかいたくなる。
でももし若い時でも知能があるかないかに関係なく計量経済学には絶対に手をそめなかったと思う。
需要曲線・供給曲線と言うのは知ってるよね。経済学の入門書に必ず載っている二つの曲線の交点つまり均衡点で価格が決まるというやつだ。僕はこのグラフを見たときかなり胡散臭く感じた。最初はマルクス経済学にかぶれていたから、なぜ均衡点が例えばその10倍の金額の地点でないのか、それが問題なのじゃないかと思った。つぎに思ったのは、どうしてこのグラフが公理のように前提とされるかということ。だって自然科学のように実験室で他の条件を同一にして再現実験を繰り返して統計をとることができないのに、こんなグラフを公理のように前提にして話しを進めるのはまやかしではなのかと思った。たしかにスーパーで午後6時をすぎて400円の刺身が50%引きの200円になったのを見て買ってしまうことがある。しかしそれは400円が200円になったのを見たからのこと。同じ品がはじめから200円だったら見向きもしなかったかもしれない。ひょとしたら始めからの値段が200円でも400円でも売れる量は変わらないかもしれない。製品によっては値段が高い方が売れるものも有るだろう。必需品品なんかは多少値段が上がっても販売量は変わらず(つまり水平線のグラフ)、ある値段を超えると代替え品にとって替わられ数量は激減する(垂直のグラフ)かもしれない。供給線についても市況の値段が下落して多くの製造企業が利益がでなくなっているとき、ある企業は生産ラインを拡充して他社の追従できない販売価格で大量に販売して他社を廃業させ市場の支配を狙うかもしれない。
とまあこんな訳で、この胡散臭いグラフが公理のように扱われる近代経済学(マルクス経済学との区別のための経済学の当時の呼称)には勉強する気になれなかった。僕は対象に対する自分の内的必要が感じなければ何もする気になれない。外的からの価値判断は僕の行動の動機にならない。だから怠け者ということになる。別に悩んでいたわけではないが、親鸞と王陽明の思想に触れてすっきりした。これでいいのだ、いやこれがいいのだとね。
ところが近年オーストリア学派経済学を知ってグラフの根拠になっている需要と供給の法則を知った。オーストリア学派を知ったのはリフレ派にたいする嫌悪感からだが、なんとオーストリア学派経済学というのは陽明学の経済学版という内容だった。これはリフレ派に感謝しなければならない。
話はもどって、需要と供給の法則というのは、それは限界効用(逓減・均等)の法則によるものだ。経済学の「限界革命」が作りだした根拠により需要曲線を書けなくはないが、現在の主流はほとんど忘却していて、根拠を忘れたがゆえに怪しげな物になったなグラフをのせている。これは野口悠紀雄さんも切実に感じているらしく学生に「需要曲線はなぜ右下がりかを説明せよ」の問題を出しても正解者は1人もいなかったと嘆いている。無批判的にあのグラフを受け入れた人の中から虚構を虚構と疑わない経済学者が生産されてくるのだろう。「価格が下がると需要が増える」はその理由こそが設問なので不正解。正しい答えは限界効用の法則によるもの。ちなみに野口悠紀雄さんはリフレ派を邪教と呼ぶ反リフレの巨匠、だから地に足がついてる。でもやはりグラフを使うのでやや違和感がある。
グラフというのは数式化に便利だから根拠を忘却して、ご都合主義的に使われる。だから計量経済学って虚構の産物だという気がする。
でも心惹かれるオーストリア学派はどうなんだろうと心配になった。
限界効用の法則による把握は方法的個人主義・主観主義であるオーストリア派経済学の1丁目1番地なので橋本努・尾近裕幸編著『オーストリア学派の経済学』(日本経済評論社)にも根井雅弘『経済学の歴史』の「第六章 カール・メンガー 主観主義の経済」にも詳しく説明されている。需給と供給の法則を認めてもなお僕があのグラフを「怪しげな」と思う理由は、根井さんの本のメンガーの記述ではっきりした。ずっとさきに『オーストリア学派の経済学』を読んだが、たぶん以下のことと同じ内容が書かれていたはずだが記憶に残ってないのは、当たり前と思ったのか問題意識がなかったからなのか。
「また、交換における等価交換の不在は、需給と供給の一致による均衡価格という考え方とは異質の価格論にもつながる。メンガーによれば、価格は、経済的な交換が成立する範囲内で、交換当事者の交渉力によってある一点にきまるものだという。」(上書p201)そうだよ、そのとおりだ。

そんな訳で、知能に関わらず計量経済学は学ぶ気はしないよ。計量経済学で真理がわかるなら、労働者は搾取されていることになる。そうなると価値の創造者は労働者ということになり労働者価値学説が真理として復活して現代経済学の根底がひっくり返るぞ。松尾氏によると、「利潤の存在と労働の搾取が同じだということは、1950年代に置塩信雄が数学的に厳密に証明し、『マルクスの基本定理』と呼ばれていますが、・・」(『図解雑学 マルクス経済学』p96)純粋数学なら「厳密に証明」されたなら誰にも否定できないが、計量経済学では事情が違うようだ。任意の前提や係数がそれが架空のものであっても数式を使えば体裁が調ってしまう。だから逆の結論でもひねり出せるのだ。