セレンディピティ日記

読んでいる本、見たドラマなどからちょっと脱線して思いついたことを記録します。

読書ノート「ブータン仏教から見た日本仏教」

2005-07-24 22:18:21 | 文化
著者の今枝由郎さんはすごい人だ。高校の時にシェークスピアの誤訳問題を知り、それならばサンスクリット語やパーリ語から漢訳されているお経にそうした問題がないのだろうかと思い、パーリ語の辞典の編集者が教授をしている大谷大学を選び進学した。本人は三河の浄土真宗の影響の強い生活環境で育ったがお寺の出身ではない。また教師からも一流国立大学への進学を勧められたが大谷大学へ入学した。大谷大学でフランス語やチベット語なども学んだが、偶然にもフランス留学の機会をえて大学4年で休学してフランスに行く。そこでフランスの東洋学の碩学たちの講義を受講することができた。たまたまフランスを訪問したチベット仏教の高僧一行のなかのブータン国立図書館長の世話役を引き受けたことによりブータン仏教との縁をむすんだ。フランス国立科学センターで職をえて、出張というかたちでブータンに滞在しブータン仏教に触れる。今枝さんはフランス国籍を取得した。打算を考えず目標に進んでいって次々と新しいチャンスが出てくるのはおもしろい。
さて今枝さんは日本仏教を批判する。もちろん今枝さんの批判を待つまでもなく、葬式仏教であることやほとんどの僧侶が妻帯していることは、仏教の本来のかたちから外れていることは分かっている。でもこの本の主張の特長は、日本仏教は仏教ではないと言い切るところ。仏教では三宝つまり仏・法・僧への帰依が欠かせないが、日本には僧伽が存在しない。上座部(小乗)仏教でも大乗仏教も僧の守るべき戒律は共通しているが、日本には戒律が無なく、したがって僧の集団である僧伽が存在しない。仏教の基本である三宝への帰依の対象である僧が欠けているのである。仏教は知識の宗教だけではなく仏になるための行の宗教であり修行と戒律は欠かせない。
それに対して日本の仏教側はどう考えているかといえば、別の本で読んだところでは、三法印つまり「諸行無常」「諸法無我」「涅槃寂静」という考え方が仏教のメルクマークということであった。考え方か行動かの対立だね。
ところで今枝さんの本で取り上げられる日本仏教は著者の育った環境から浄土真宗が主となっており、浄土真宗への決別の項目もあるが、面白いのは今枝さんが親鸞の経典解釈は、発想の天才的な転換ではあるが、論理の筋は通っているといっていることだ。
親鸞は教行信証で膨大な仏教経典を猟歩し念仏の他力信仰の正当性を論じている。それについて論理的には批判はできないことになる。僧の妻帯については、浄土真宗ではもともと半俗半僧として認めている。他の宗派では、江戸幕府が僧の妻帯を戒律の補助的に幕法で禁止していて、明治政府がその幕法を廃止したら、戒律はどうなったのかぞろぞろ妻帯してしまったから、そのほうが問題だと思うけど。