セレンディピティ日記

読んでいる本、見たドラマなどからちょっと脱線して思いついたことを記録します。

チャングムから東條英機までの強引な展開

2005-05-28 22:36:50 | チャングム
チャングムは都まで連行されたけど、結局無罪となった。そして済州島へ戻される途中で、ちょうどそのころ行われる医女試験を知り都へとって返し試験を受けて合格した。
メデタシだけどちょっと都合がよすぎないかな。いや、都へ連行されたときに偶然試験があったことではない。だって世の中そういう偶然はいっぱいあるからね。都合のいい偶然は実はこの人間世界の特性だ。分かる人はわかる。
僕がおかしいと思うのはチャングムの立場と経歴のこと。の身分のものが医女試験を受けること自体は問題としない。公のの者が、公のの職種の試験を受けることは可能であると思う。でもチャングムはの身分に落とされただけでなく済州島へ流された身だ。それも反逆罪で。それが医女試験を受けたり、受かったからといって流刑地から勝手に都へ来たりしてもいいのかな。あれは追放ではなく、ただのの赴任地だったのか?それに都へ対敵協力者として連行された時、悪玉の親分の高官はチャングムを認識しているようだったが、前の反逆事件をむしかえさない。宮中の医女も試験官の医師も1人を除いてチャングムのことをぜんぜん知らないみたいでおかしい。王様の毒殺未遂事件で、硫黄を食べたアヒルが毒かそうでないかは医者の意見が別れる重要な争点で、その容疑者の一人がチャングムだったのに。

ところで話はもどるが、チャングムが連行されたのは、倭寇の襲来に驚いて山奥に逃げ込んだ済州島の司令官が、自分の失態をごまかすために、民のなかに倭寇に内通するものがいるので作戦上山奥に避難したと言い、倭寇の首領を治療したチャングムを内通者として責任をなすりつけようとしたためだ。
大陸では、なにか政治的な問題がおこると常に誰の責任か、あるいは誰が悪いのかが問題とされるらしい。佐藤優氏の話題の本「国家の罠」に「政治問題が起きたとき、ロシア人は『何が問題か』とは問わずに『誰が悪いのか(クト・ビナバート)』と言って、属人的に責任を追及する。」(p.81)と書いてある。そういえばアメリカ映画だけど冷戦中のソビエト潜水艦が舞台の映画が先週テレビ放映されていたが、そこでも「誰の責任か」が何回もでてきた。じつはこの「(自分以外の)誰かのせいだ」という思考方法が共産主義の培養地となっていたのだと思う。
ではわが日本は「何が問題か」を問う社会かというとそうではない。仲間どうしのもたれあいで、「運が悪かった」とすます社会なのだ。
太平洋戦争の本を読んでいると、どうして日本海軍は運が悪いのかと思う。真珠湾に空母がいなかった。送った通信がどこかに消えた。5分間の差で大敗した。無防備の敵軍を前に気が変わってユーターンした。
ああ、何時でもいつでも運が悪いのだ。大日本帝国は呪われているみたいだ。大日本帝国はそんなに悪いことをしたのか。たぶんだいぶ悪いことをしたのだろう、と思ったものだ。
でも最近「やっぱり勝てない?太平洋戦争」という本が出たように、日本海軍は自他の能力に誤った評価と認識を持っていて、負けるべくして負けたということらしい。でも誤った自他の認識は当然軍事指導者なり指揮官の責任なのだが、それが追及されることはない。そうした指揮官などの談話や手記などを基にして書いた戦記だから何時もいつも運が悪かったことになる。
罪を追求しないことは一見美風のようにみえるが、それは高級将校の仲間内だけのこと。その影におそるべき退廃が進行していた。ミッドウェイーの敗北を隠蔽するため、生き残ったベテランパイロットを最前線に分散させて内地に帰さなかった。そのため日本海軍のパイロットの養成と技術の継承に大きな欠陥を生じた。軍令部の参謀が不時着し一時連合国側のフィリッピンゲリラの捕虜となって暗号書を奪われたが、兵士には厳しいが仲間内には甘いためそれを隠蔽して対策を採らなかったため、それ以後日本軍の通信は米軍に筒抜けとなった。台湾沖の航空戦で敵機動部隊を撃滅したと大報道したが、後でそれがまったくの虚報と分かっても陸軍には伝えなかった。その結果、虚報を信じたフィリッピンの陸軍は長期持久体制をといて前進したため多くの将兵が死んだ。
イメージでは戦中の日本は、国民全部が戦争の勝利のために全力を集中していたかのように思えるがそれは違う。底辺の国民はいざ知らず、上層部の政治・軍事指導者は、戦争の勝利のための最善と、自分及び自己の組織の面子やプライドが秤にかけられた場合、躊躇なく面子やプライドを取った。社会の表層で恥ずかしげもなく勇ましい言葉や他を非国民だとかののしる言葉が蔓延する時、中はスカスカとなっている。
佐藤氏の「国家の罠」の中に、佐藤氏が「僕は自分のプライドより国益が大事だ」といった場面がでてくる。佐藤氏がナショナリズムや、他方が一方的に悪いという二項図式に批判的な理由はよく分かる。
そういえば、東條英機氏を描いた映画が「プライド」というタイトルだった。このタイトルは製作者の意図とは別に本質を表している気がする。