goo blog サービス終了のお知らせ 

salt&pepper days 

ともすれば、子どもとの時間に埋もれそうな日々。でもやりたいことは他にもいっぱい。刺激を求めて悪あがき中。

本の感想・悲しみでつながる心

2010-04-13 23:27:31 | 本・雑誌
物語は結局、現実を超えない、というか
現実のほうがすごすぎて
物語を追い越してしまうようなことが
世の中にはいろいろありますね。

けれど物語には力がある。

心を動かす、信じる、立ち上がる、歩き出す、
願う、抱きしめる。

そんな力があると思うのです。

物語、とは小説に限らず、音楽や絵画や
写真や映像、そして一人一人の人生にある。


なんて、書いてみたけれど
これ、明日読み直したら恥ずかしいだろうな。
でも、本当にそう思うのですよ。


今、NHKでドラマ化されている
『八日目の蝉』
(角田光代・著 中央公論新社)を
少し前に読みました。
で、テレビも見ています。
さっきも泣きました。
全力で走る壇れいに抱っこされて
揺れている赤ちゃん見るだけで
いろんな意味で泣けてくるよ。

簡単にいえば
不倫相手の家に生まれた子どもを
さらって逃げて
世間から隠れて生きる女性の人生。
そして成人したその子の物語。

主人公の人生に関わってくる
それぞれに悲しみを抱えた女性たち。

みんな悲しみでつながっている。

主人公希和子と薫も。

血のつながりより、魂で、悲しみでつながっている。

全編を通して、祈りの気持ちが紡がれているように
感じた。
そして、読み進めながら
願ってはいけないことを願ってしまう。
そんな話です。

八日目の蝉、悲しみよりも
希望をその目にうつしてほしい。


ドラマはとてもわかりやすく作られているけれど
やはり小説を超えない、のかな。
小説のラストシーンは、悲しく、美しく、
希望を感じます。
物語の力を感じます。

ドラマの残り3回に期待。
また泣くな。


本の感想・痛みでつながる

2010-03-20 12:59:43 | 本・雑誌
図書館にて、まずタイトルを見て、どん引き…。
でも、手にとってしまう。

パラパラひろい読みして
これはひろい読みしている場合ではない、と思う。


『柳美里不幸全記録』(柳美里 新潮社)


約5年半の出来事について、“交換日記”として
仕事、育児など、柳さんの日常生活について綴られている。

超個人的内容です。
交換日記、というものの、相手からの返事はまだない。
「まだ」なのか「もう」なのか
そこをつき詰めてしまうと…。

まず驚いたのは、子育てについての姿勢。

完璧主義…というか、悲観からくる完璧さが痛々しく
それじゃあ身が持たないだろう、と思う。
でもこの人に、「もっとラクに考えて」とか
「上手に息抜き、手抜きしないと」という言葉は
通じないだろうな。
性分、というか、そうしないともっと苦しくなるのだろう。

仕事についてもそう。
身を削って書く、というか
もう生きることそのものというか
書くことで救われる、というレベルではない。

生活全般、今、そんなことしている場合じゃないだろう、と
幻想かもしれない正しさとか、常識とかにとらわれた頭で考えれば
信じがたい状況に、どんどん自分を追い込んで行く姿。

すさまじい、怖い、やりきれない。

より良い人生を、とか、希望を持って生きるとか
一般にいわれる生きる意味みたいなものとは無縁。

希望や夢ばかりが、生きる力になるわけじゃない。

痛みや悲しみや憎しみ、さみしさが
生きるためのほの明るい光…、というか
この世界につながり続ける術である。

それはある見方からは、不幸。
けれど本人にとっては…?

共感と理解し難さと好感と戸惑い。
嫌悪感は…ない。


柳さんの作品を全部は読んでいないし
どこかで誤解していたところがあるけれど
この本を読んで
書くことの痛みと書かれることの痛み、
両方を知っている人だということはわかる。


800ページ、本文2段組。

個人的日記を本にすることについては
この本に限らず、賛否(自分の中で)あるけれど
この作家の生き様や覚悟が伝わる一冊。
のぞき見的興味では、読み進められないでしょう。




本の感想・繊細と鈍感のあいだ

2010-01-19 00:33:09 | 本・雑誌
時々、といっても
本当にめったにないことで
何年かに一度、十年に一度くらいかもしれないけれど
「あ、なんかこの人、自分に似てるのかも」
と思う人に出会ったりする。

顔ではないです。
性格、いや、性質が、かな。

今回、歌人の穂村弘さんのエッセイを2冊読み
勝手に、本当にものすごく勝手なんだけど
共鳴してしまいました。
共感、というよりもっと切羽詰った感じ。
なんかもう、どっかで見た姿を突きつけられた感じがして
オロオロしてしまった。
実際に会ったわけじゃないけれど。



『本当はちがうんだ日記』(集英社)

『にょっ記』(文藝春秋)

正確にいえば、最初に読んだ『本当は~』のほうで。

穂村さんが、ぽつんと水面に落とした石が
波紋をつくり
そのわずかな揺れが伝わってきて
寄せてくる波紋が消えない。

わからない人には、絶対に感じ取れない波動。
むしろ、感じ取らないほうが幸せかもね。

過剰な自意識と、自信のなさ。
両方を抱えて生きている。
客観的に見て、生きにくいだろうな、と。

繊細さと鈍さ。
欲深さと謙虚さ。

誰もが併せ持ってはいるけれど
そのバランスがときとして大崩れして
笑えたり、泣けたり。

恥も自己嫌悪も、書いて公開しちゃうところが
したたかでもあったりして。
そりゃまあ、仕事だからね。
自分をネタにもするのも厭わない、
そうやって突き抜けられたら、強さともいえる。
その点は、とてもうらやましい。
私はまだまだ。
まだまだ恥かきが足りませんかね?

『にょっ記』のほうは
『本当は~』に比べると
また一味違うキャラ。
ふざけたり、妄想入ってたりして、
けっこうバカバカしく(ほめてるのよ)て
気ままに読める。

けど、ところどころかいま見える
気弱さやもろさが
「どうかこの人を、いじめないでね」
という気持ちにさせられるのは
穂村さんの人徳かもねー。

けれど、自分に似ている人と一緒にいると
けっこう、つらいこともありますよね。
そんな感覚も、思い出してしまいました。


本の感想・最近、泣きましたか?

2009-12-28 00:15:03 | 本・雑誌
フィギュアスケート、オリンピック日本代表が
ついに決まりましたね!

女子は最後の最後まで、どうなるかわからない状況で
そんな緊張感の中、戦う選手たちの精神力の強さ。

その中で繰り広げられる演技は
どれを見ても胸がいっぱいに。

真央ちゃんは圧倒的だったけれど
鈴木明子選手、本当に魅せられた。
中野選手も良かったけれど、勝負って残酷。
ここまで来ると、練習量とか努力とか
みんな当たり前にしているから
「頑張れば夢は叶う」の世界じゃないよね。

個人的には、村主さんにもう一度、
オリンピックに行って欲しかったな。
彼女の情熱的な演技がとても好き。


なぜこの話題から入ったかというと
この本を読んだから。

『涙の理由 人はなぜ涙を流すのか』
(重松清 茂木健一郎・宝島社)

人はなぜ泣くのか、涙って一体どういうものなのかを
重松さんの作家的立場と
茂木さんの脳科学者としての理論で
考えていく、対談本。

「涙」「泣くこと」にとどまらず、「笑い」について、
小説や絵画、映画、音楽がもたらす涙の違いなど
目の前で二人が話しているみたいで
「ええと、それはつまり?」とか
「そう、そうですよねえ!」とか
勝手に話に加わりたくなる。

おじさん二人の「泣く」話は
熱っぽさと冷静さと、それぞれの視線で
深く鋭いです。

最近、涙は「安っぽくなった」そうです。
「泣ける本」とか、「感動した!」とか
安易、というか、みんなが人と横並びで
自分自身の涙を流していない、と。
それは、危険なことでもあるという。

中学生の涙と、大人が流す涙は違うはずなのに
大人も同レベルで泣いてしまう、と。

二人の会話でたびたび槍玉に挙がった、
数年前に大ヒットした某小説は
ちょっと気の毒ですが。


経験とか記憶によって
泣くポイントは違う。
それは実感としてある。


重松さんの、小説家、ライターとしての話は
特に興味深かったです。

誠に勝手ですが
重松さんと涙のツボが、すごく近い気がした。
エピソードひとつひとつに、深く納得、共感。

当たり前だけど、涙は個人的なもの。
雰囲気に流されて、ではなく
自分の感情を見つめて、自分の涙を流す。
それは個人の体験、記憶、歴史が詰まっている。

涙が横並びで、安っぽくなっているのと同様、
自分の言葉で話せない人が多い、という指摘が
痛いとこ突かれた感じ。

来年は、自分の言葉でしっかり話そう。


ところで私は、なんでフィギュアを見ると
じーんとくるのかなあ。
今日に限らず、女子フィギュアは
涙のツボのひとつ。

フィギュアの経験はないけれど
「戦い」や「目指す」、というあたりが
個人的経験や記憶を呼び覚ますのかな。

最近、泣きましたか?


本の感想・頭と心は別、だけど

2009-12-22 01:09:21 | 本・雑誌
はるか昔、高校生のとき。

地学の時間…だったと思うんだけど
地学教室は3人がけの机で、出席順に3人ずつ座っていて
たまたま私は仲良しの子、二人と同じ机に。

先生がけっこうゆるーい感じだったのをいいことに
地学の時間は「おしゃべり時間」でもあった。

今でいう「恋バナ」をしていて
1人の友達が言った。

「結婚したら、他の人を好きになっちゃダメでしょ。
それって、なんかつまんないねー」

自分がどう答えたのか忘れたけれど
そのときの友達の口調や、教室の明るさを
今でもすごく覚えている。

たしか、「そんな先のこと、まだ心配もしてないけど…(笑)」
とかなんとか、答えたような、答えなかったような。
まあ、だいたいそんな気持ちだったと思う。


この本を読みながら、この友達の言葉を思い出しました。

『切羽へ』(井上荒野・著)

島で暮らす、夫のある養護教諭が
新任の男性教師に惹かれる。

彼のほうは、なんともとらえどころのないけれど
ふとした視線、態度にあふれてしまうものがある。

お互いにはっきりと口にしない、自覚自体も曖昧なのに
無意識ににじみ出る空気が、伝え合ってしまう。

恋、とはっきり言うよりも
思いを寄せる、そんな気持ち。
けれど、不確かなようで
間違うことなく相手に向かっている。

そんなふうに、惑い、はぐれそうになっている妻を
夫は感じている。
連れ戻すでもなく、突き放すでもなく。

どこかに行きたくて歩き出すけれど、行き止まる心。
どこにも行けない人たち。


話の舞台は、島。

そのことが、この人たちの関係を
成り立たせているようにも思う。

来るものは受け入れ、去るものを追わない
やさしさとあきらめが、作り出す空気。

答えを出し急がない、求めない関係。

大人の、静かな喜怒哀楽が流れる時間。

最初から最後まで
浮き足立つような気配、ざわめき、危うさが漂う
静かでいて濃厚な物語。


結婚していても心は自由で、縛ることはできない。
頭と心は別もの。

心に従って歩き出した先に、何を見るか。

希望的想像だけではもう、歩けないなあ。

それってやっばり
「なんかつまんないねー」ってことに
なるんでしょうかね。


本の感想・ひだまりと冬空

2009-12-11 23:38:10 | 本・雑誌
文学者とか、大学の先生に対して
なんとなく恐れを感じてしまうのは
自分が不真面目な大学生だったからだと思うのだけど
この人の講義、受けてみたかったなあと思う人が
今になって何人かいます。

ああ、でもきっと居眠りするだろうな。
大学の大教室って、なんであんなに
空気がゆるーくて、気持ちがよかったんだろう。
ゼミ教室では、いつもビクビクしてたけど。

今回読んだ著者も
講義を受けてみたい1人に加わりました。

といっても、この方はもうとっくに
大学は退職されて、今は文筆家です。


『無口な友人』(池内紀・著 みすず書房)


前半は、好きな将棋のことや動物のこと、
身の回りの気になることや場所、
人との付き合い方について
温かく、ゆったりした語り口で綴られている。

「そっか、こういう生き方でいいんだなあ」
「こういう考え方でいいんだなあ」と
なんだか嬉しくなるような、ラクになるような。

といっても、自分の親世代の人で
これまでにドイツ文学者として
実績を残している人をつかまえて
「少年みたいなまなざしが、いいですー」とか
「なんだかポカポカしてきました」とは
とてもとても言いにくいのですが。

けれど、読み進むにつれ、空気が変わる。

あとがきや、背表紙の紹介にも書かれている通り
年を重ねてきた今(刊行は2003年)
少しずつ「死」を感じさせる内容が増えてきたという。

肉親、友人、恩師、ペットなど
もう会えなくなった人たちへの愛情と共に
自分のすべきこと、居場所への執着の薄れを感じ
どきりとさせられる。

本の前半は、ユーモラスで親しみやすい
お人柄を強く感じるけれど、後半にいくにつれ
穏やかな目の奥の、さめた部分が見え隠れして
突き放されたりもする。

たぶん、人を見る目は厳しい人。
人に対して厳しい、のではなく
諦観や許しを持てる人でもあるように感じる。

一番最後の「自死について」は
どうしてもすっきり読めない。

「死」についての、そのお考えは
わかりやすく、深く、理路整然としているだけに
そんなすっきり語らないでください、と。

たぶんこれについて討論したら
言い負かされる、というか、それは
私の中で細かいところを詰めきれてないせいだけど。

感情を否定し、押し殺すような
シビアな目線でひたすら死を見つめているような。
それは自然なことには思えない。

1冊の本の中で、ひだまりのような温かさと
ぐっと気温の落ちた、真夜中の砂漠を味わう。

けれど総合的な印象としては、小春日和、かな。



本の感想・種を越えた愛

2009-12-08 01:53:45 | 本・雑誌
師走突入。

でも引き続きハイペース(私なりの)で
本を読んでます。

そろそろサンタの準備もしなきゃだわ。
年賀状はどうする。
大掃除だ、大掃除。

でもまだまだ大丈夫?? 
現実逃避で本を読む。


今回もまた、穏やかでない話です。

『犬身』(松浦理英子・著 朝日新聞社)

2年ほど前に出た本で
当時、書評でずいぶん取り上げられて
絶賛している人も少なくなかった記憶。

簡単にあらすじをいえば…
(多少のネタバレあり)

「自分は半分、犬の魂を持って生まれたのではないか」
と強く感じながら生きてきた女性が
ある愛犬家の女性陶芸家と出会い
「犬になって彼女のそばで暮らしたい」と願う。
そして、共通の知人であるバーテンダー、
実は狼人間らしき男性によって
ある条件の上、願いが叶えられ…。

ここで描かれる、飼い主の犬の間にある「愛」の形は
ともすれば生理的な嫌悪を感じかねない。

そして思う。
私はペットに対して「愛情」は持つけれど
それは「愛」とは違うのかも。

愛情なんていう生易しいものではなく
もっと生々しい、血のたぎるような愛。

道ですれ違う、かわいいお洋服着せた犬を
散歩させている方たちから
そういう「匂い」はしない。

不幸な愛情体験や、歪んだ家族関係や
人間としての生き辛さが生む
悲しくも優しい関係。


個人的には、ここでの人間と犬の関係どうこうよりも
人間同士の関係の不自然さが気になった。

母と息子、娘の歪んだ関係の説得力が…。
娘の苦しさはわかるけれど、なんか弱い。

人間時代の友人の存在を、最後まで
もっと際立たせてほしかった。

バーテンダー、主人公、陶芸家、それぞれの会話、
行動が、ところどころ不自然。


大作であることは間違いなく
動物をかわいがるとは
美しく優しい行為であるべきとの固定観念から
無意識に目をそらしていることに
触れてもいて、魂こもった作品だと思うからこそ
気になってしまいましたが
私の読みが甘いのかな。

これも個人的感覚だけど
飼い主と動物のこういう関係って
猫と築きやすいような。
犬も猫も飼ったことある上で、そう思いました。


ラストはあっけないです。

でも、最終的には幸せといえるのか。

そもそも、個人的な幸せは求めていないのか。

犬好きの人は、これを読んでどう思うのだろう。


本の感想・巧さゆえの後味の悪さ

2009-11-28 00:14:29 | 本・雑誌
現実逃避のように、本を読んでいます。

もう今年も終わり、とか
この1年、なにやってきたっけ?

とか考え出したら、スパイラルだわ。
思い悩むすきを、与えてはならない。
迷わず、時間の流れに乗るのだ。

思うに、私が本を異様に読む時期って
ある意味、弱っているかもしれない。
そして、ある意味、自分を奮い立たせるため。

かなりいい年して、思春期みたいなものです(笑)。


今回読んだのは、思春期には向かないですねー。


『雉猫心中』(井上荒野・著 マガジンハウス)

雉猫に導かれ始まる関係。
走り出し、止まらない妄想と欲望と。

不倫、というか、恋愛とも呼べないような
最初から壊れている男女関係。

登場人物それぞれが
孤独とコンプレックスにまみれている。

雉猫は、はじまりのきっかけを作り
あおるだけあおって、あとは勝手にどうぞと
いわんばかり。

全体を通して、穏やかでない話です。

井上荒野さんは
こういう不穏さを出すのが巧い人だなと思う。

はっきりいって、読後感はすっきりしない。
で、なにがどうなったの? って話。 

それでもここで感想を書くのは
(読んでも「書くまでもない」と思えば、書きません)
いい意味での“後味の悪さ”があり
気持ちがざわついてしまうから。

必ずしも感情移入するだけが
小説の楽しみ方ではなく
は? なんだって? とか
ああ、なんかイラつく、けどやめられない
というなんともいえない感が
心を活性化させるタイプの本もある。

それも、小説の肝ではないかと思ったりしました。




本の感想・初冬ですが、読書

2009-11-16 22:56:24 | 本・雑誌
ああ、そろそろ更新しなくちゃー、と思いつつ
眠さや食欲や単なる怠け心に負け続けてきた
今日この頃。

このブログ、月刊誌の連載と思ってください。

気が向くと、いきなり日刊になることもあります。


食欲の秋はもちろん、読書の秋、たけなわ。
(いや、初冬だって)

読み切れないだろうと思いつつ、図書館で一度に6冊借りる。
(貸し出し期間、2週間)
で、たいていそのうちの3冊くらいは
「もう1回、貸してください」と延長するも
新たに借りた、もっとおもしろそうな本から読み始め
結局読めずに返す本もあり。

しらばっくれて、返却日を守らない手もあるけど
それは出来る限りやらない。
優良市民です。
いえ、義務です。

ここのところ、けっこう本を読んでいて
感想を書きたいものも、たくさんあって
ためこんでいるうちにめんどくさくなって
内容の記憶も薄れゆくのですが。

今日のところはエッセイから。

糸山秋子さんの2冊。

『糸的メイソウ』(講談社)

なんかこの本、初めて読むんじゃない気がするんですよ。

出版社の1日を作家の目から見た話とか
友達とのルームシェアの掟が、「男は外、飯は別」とか
エッセイ原稿が、最初から終わりまで五七調とか

このあたり、なんか記憶にある。

けど、むちゃくちゃな食べ物の取り合わせに
果敢に挑む話とか
ご本人の恋の顛末とか、ペンネームのこととか
男性の好みについてとか
読んだ覚えがない。

前に読んだかな~、もしかして、雑誌の連載時に
ところどころ読んだのかも~、
いやでも、この装丁に覚えがあるような~、
なんて読みながら考えているうちに
最後まで読んでしまいました。
2度目かもしれないけど、まあいいや、おもしろかったし。

そして、もう一冊。

『北緯14度』(講談社)

こちらは、紀行もの。

糸山さんが30年来憧れ続けた音楽家に会いに
セネガルに行き、滞在中に出会った人々と
喜怒哀楽をぶつけ合ったり、セネガル飯に舌鼓を打ったり
日本とは違う習慣に戸惑ったり。

旅に意味を求めず、「ただ会いたい人がいるから行く」という
揺るぎないところから、旅を始めるのがいい。

そこから何か持って帰ってやろう、とかじゃない。
これ、ネタになる、とかじゃない。
もちろん、本にする、というお約束はあったにしろ
自身が、そこに矛盾を感じたりもして。

セネガルで暮らす日本人に対する、複雑な思いや
日本だったら考えられないけど、その国にいたら普通に
「人を使う」(ガイドとか運転手とかお手伝いさんとか)ことに
慣れない姿とか、現地の男の人と擬似恋愛っぽくなったり
1冊を通して、セネガルという国の香りぷんぷん。

ともすれば「アフリカ」という国々のイメージに
ひっぱられがちな頭の上で、陽気な太陽が笑ってるような。
本能も、本性も、ひっぱり出されちゃうみたい。

ああ、旅に出たい。



本の感想・長い感想が始まる

2009-10-21 11:47:15 | 本・雑誌
就職活動の面接官で
「受けに来る学生が自分の学生生活を話すとき
たいてい、サークル、アルバイトの話ばっか」
「サークルの人間関係、活動から学ぶことが多かった」
「アルバイトは、貴重な社会勉強になった」
そんな人ばかり、と嘆く方がいるとか。

その言い分が、わからなくはなく。
それだけか? と言いたくなる気持ちも
わからなくはなく。

けどまあ、背伸びして
1回か2回だけのボランティア活動とか話すより
その人の人間性が出るのでは。

そのときの自分を作り上げているのが
サークルやバイトなら、取り繕っても隠したくても
にじみ出てしまうのでは。
聴いてきた音楽や、見てきた映画やお芝居が
その人を作るように。

きっと学生側の、伝え方のテクニック次第なんだろう。
テクニックとかいうの、イヤだけど仕方ない。


今回読んだ本の舞台は、大学の音楽サークル。

大学時代、音楽サークルに多くの時間を費やし
楽しいというより、苦しい記憶のほうが多く
面接でサークルの話をしまくった私には
痛い痛い内容でした。

なんであんな狭い世界がすべてだと
思ってしまったのか。
うーん、すべてではないと、
当時、頭ではわかってたと思うけど
思考や行動の基準はすべて、音楽や当時の仲間たちで
息苦しいのに、そこで頑張るしかなかった。

サークルが終わって、しばらくは
音楽もピアノも、もうたくさんだと思った。

そんな記憶がよみがえってしまいました。


『長い終わりが始まる』(山崎ナオコーラ・著 講談社)

本の感想は、ここからです。
前置きも長かったけど、長い感想が始まります(笑)。


全身を研ぎ澄まして、傷つこうとする。

自分では意識していなくても
身体と心がそうなってしまうから
直せばいい、とかいう問題ではない。

そんな女の子が主人公。

思いを寄せる人の気持ちがわからない。

ていうか、相手も相手だ。

だから引き合ってしまうのだろうけれど。

そんなめんどくさい方法で
傷つかなくてもいいじゃないか、と思うけれど
“長い終わり”の過程を、徹底的に体感しようとする。

意味深なタイトルの意味、後半にすすむにつれ
味わいが濃くなっていき
終わりに向かってスピードを出そうとする
主人公がだんだんつらくなるけど
始まりには終わりがある。

この人の、3年後が知りたいな。


繊細とか感受性豊かというのは
疎外感とか孤独とか欠落感とか
不安定な自分と背中合わせ。

身勝手とか弱い人とかでは片付かない。
そんな言葉で片付けてしまう人は
強いかもしれないけれど、想像力も心も貧しいから
そういう人とは人間関係は築けない。

私の場合、面接でサークルの話をしても
受かった会社は真剣に聞いてくれた。
最終的には受からなかったけど、サークル話で盛り上がり
次のステップに進めた会社もあった。

サークル時代の先輩・後輩・同期は
今でも付き合いのある人もいて
それぞれの「今」を語り合える
大切な人たちもいる。

けれどいまだに、あの頃の話を
「思い出」として語り合うのは
本当はちょっとつらいです。