salt&pepper days 

ともすれば、子どもとの時間に埋もれそうな日々。でもやりたいことは他にもいっぱい。刺激を求めて悪あがき中。

さよならウェンディーズ、さよなら2009

2009-12-31 02:28:30 | 出来事
今住んでいる街に越してきて以来、
まるで別宅のように
本読んだり、仕事したりしてた場所、
駅前のウェンディーズが、今日で閉店。

閉店駆け込み人気で、ここのところずっと混んでるよ。

なんで契約更新しないのだ、ゼンショー!

ウェンディーズは、○ックのように
社員からアルバイトまで、社内教育の賜物ゆえの
良くも悪くも、システマティックな感じがなくて
そこが好きだったんだー。

会社員だったころ、仕事でちょくちょく行く機会があった
銀座の某会社の近くにもウェンディーズがあって
朝いちで打ち合わせがあるときなどは
そこでコーヒー1杯飲んで、気持ちを整えてから行ったり。


さよならウェンディーズ、ありがとウェンディーズ。

またいつか、どこかで。


そして、今年もお世話になった皆様、
遊んでくれた皆様、
どうもありがとうございました。

2009年は、比較的穏やかな年で
それはある意味、あまり変化はなかったともいえるけれど
見えないトコロで少しずつではあるけれど
根っこが張ってきたかなあ、という気がしています。

日当たりが悪かったり
雨風にめげたりすることもありますが
決して腐ることなく
ゆっくり呼吸していきます。

2010年もよろしくお願いします。

良いお年を!


本の感想・最近、泣きましたか?

2009-12-28 00:15:03 | 本・雑誌
フィギュアスケート、オリンピック日本代表が
ついに決まりましたね!

女子は最後の最後まで、どうなるかわからない状況で
そんな緊張感の中、戦う選手たちの精神力の強さ。

その中で繰り広げられる演技は
どれを見ても胸がいっぱいに。

真央ちゃんは圧倒的だったけれど
鈴木明子選手、本当に魅せられた。
中野選手も良かったけれど、勝負って残酷。
ここまで来ると、練習量とか努力とか
みんな当たり前にしているから
「頑張れば夢は叶う」の世界じゃないよね。

個人的には、村主さんにもう一度、
オリンピックに行って欲しかったな。
彼女の情熱的な演技がとても好き。


なぜこの話題から入ったかというと
この本を読んだから。

『涙の理由 人はなぜ涙を流すのか』
(重松清 茂木健一郎・宝島社)

人はなぜ泣くのか、涙って一体どういうものなのかを
重松さんの作家的立場と
茂木さんの脳科学者としての理論で
考えていく、対談本。

「涙」「泣くこと」にとどまらず、「笑い」について、
小説や絵画、映画、音楽がもたらす涙の違いなど
目の前で二人が話しているみたいで
「ええと、それはつまり?」とか
「そう、そうですよねえ!」とか
勝手に話に加わりたくなる。

おじさん二人の「泣く」話は
熱っぽさと冷静さと、それぞれの視線で
深く鋭いです。

最近、涙は「安っぽくなった」そうです。
「泣ける本」とか、「感動した!」とか
安易、というか、みんなが人と横並びで
自分自身の涙を流していない、と。
それは、危険なことでもあるという。

中学生の涙と、大人が流す涙は違うはずなのに
大人も同レベルで泣いてしまう、と。

二人の会話でたびたび槍玉に挙がった、
数年前に大ヒットした某小説は
ちょっと気の毒ですが。


経験とか記憶によって
泣くポイントは違う。
それは実感としてある。


重松さんの、小説家、ライターとしての話は
特に興味深かったです。

誠に勝手ですが
重松さんと涙のツボが、すごく近い気がした。
エピソードひとつひとつに、深く納得、共感。

当たり前だけど、涙は個人的なもの。
雰囲気に流されて、ではなく
自分の感情を見つめて、自分の涙を流す。
それは個人の体験、記憶、歴史が詰まっている。

涙が横並びで、安っぽくなっているのと同様、
自分の言葉で話せない人が多い、という指摘が
痛いとこ突かれた感じ。

来年は、自分の言葉でしっかり話そう。


ところで私は、なんでフィギュアを見ると
じーんとくるのかなあ。
今日に限らず、女子フィギュアは
涙のツボのひとつ。

フィギュアの経験はないけれど
「戦い」や「目指す」、というあたりが
個人的経験や記憶を呼び覚ますのかな。

最近、泣きましたか?


クリスマスなんて関係ないさ

2009-12-25 23:29:13 | 出来事
昨日のブログでは
やたらとクリスマスモードだったくせに
タイトルから、これ…。

夜中にぴよぴよが発熱。
今朝はお医者さんへ。

当たり前だけど、そこはクリスマスなんて関係なく
かぜひきっ子がたくさんいて
私も頭が痛くなってきたよ。

一気にクリスマス気分も吹き飛び
今日はもう、ふつうごはんだ。


クリスマスといえば、先週行ったライブが
私にとってはクリスマスギフト、だった。

ライブのテーマは「昭和が見ていたクリスマス」。

昭和という時代の中でも特に
昭和30年代後半以降でしょうか。

今ほど厳かな意味合いが強くなく
町も人も元気で、クリスマスはお祭りみたいに
大人もワイワイ盛り上がって
売れ残ったケーキが叩き売りされて
子どもはひたすらワクワクしていたころ。
みんながクリスマス気分を共有できていたころ。

私の知らない時期の景色も
うっすら記憶のある景色も
歌というのはちゃんと
目の前に連れてきてくれる。

ざわめき、空気、手触り。

誰かに手をひかれ
大きな大きなツリーを
見上げていた気持ち。

大人には大人の
クリスマスの楽しみ方があるけど
懐かしい景色があることは
幸せなことだと感じたライブ。

世界にメリークリスマス、と歌うASKAさんの声が
広く広く届けばいいのに、と。

こういうのを伝えるのはホント、難しいんだけど
決して上から目線ではなく、届けばいいのにと思う。
達郎さんの『クリスマスイブ』もいいんだけど
もう少し広まってもいいような。


やっぱり今日はクリスマスだから
優しい気持ちでいたい、と思ったところで
現実にはあれこれイライラしたり
クリスマスなんて関係ない、って思ったりの
今年のクリスマスですが。

残り約30分のクリスマス。

メリークリスマス。



信じることの幸せ

2009-12-24 22:06:02 | 出来事
クリスマスイブ、ただいま夜の10時過ぎ。

我が家は、チキンとケーキを食べ
ひよこは、サンタさん宛ての手紙を
枕元のクリスマスブーツに入れ
ぴよぴよは、いつもと変わらず
スヤスヤ、夢のなか。

大人はここからもう一仕事、サンタの準備。


数日前の新聞に、こんな記事が。

「本当のことを教えて。サンタクロースはいますか?」

19世紀にアメリカの新聞社に届いた、8歳の少女からの手紙。
新聞社は社説で答えたそう。

「サンタはいるよ。愛や思いやりの心があるように」

「サンタがいなかったら、子どもらしい心も、
詩を楽しむ心も、人を好きになる心もなくなってしまう」

「真実は子どもにも大人の目にも見えないものなんだよ」

少女はのちに教師となり
恵まれない子どもたちの救済に尽くしたそう。

私も子どもに聞かれれば、「サンタはいるよ」と
気軽に答える。
「いる」と信じたほうが、楽しいから。

子ども時代のクリスマスは、なんの憂いもなく
ワクワクした気分で過ごしてほしいし
見えないものを信じる気持ちを育てることは
この先、大きくなってから
きっと本人の力になると思うから。

信じることが大切なものって、形のないものばかりでしょ。


けれどそのことを伝えるのは、なかなか難しい。

この社説の言葉は、大人の私が読んでも、心から納得です。

「いるよ」と書く勇気、大人としての責任。


そして今日の新聞、ブラジルでは
こんなクリスマスの事業があるそう。

貧困などでプレゼントをもらえない子どもたちが
サンタ宛の手紙を郵便局に送る。
そして職員が読み、希望のプレゼントごとに分類。
市民でサンタになりたい人は、郵便局で手紙を選び
プレゼントを持ち込めば、無料で配達される。
送り主は「サンタ」として。

去年は100万通の手紙が届き、46万通が採用。
プレゼントは届かない子にも、サンタからの手紙は届くという。

希望のプレゼントは、おもちゃや服、食べ物など。
「お父さんに仕事をください」というのもあるそう。

こちらの子どもたちは、もしかしたら
サンタクロースの存在を信じるというより
もっと現実的で、切実な思いなのだろうね。

けれど、その子たちの思いに自主的に答える人々が
こんなにたくさんいる。
信じる気持ちを育てる、クリスマスならではの優しさ。


信じることで幸せになれるかどうか、わからないことは
成長するにつれ、イヤでも知るでしょう。

だけどその前に、信じることの大切さ、
信じることで備わる力を
子どもたちは、まずは身をもって覚えてほしい。

我が家の子たちは、といえば
ぴよぴよは1歳だから、クリスマスもサンタも
まだまだ関係ないけれど
4歳のひよこは、12月に入った頃
「ねえ、サンタって人間がやっているんでしょ?」
と言い出した。
ドキッとしたけれど、様子を見ていると
とりあえずまだサンタを信じている。
「今日はワクワクするねー、早く夜になればいいのにー」と
朝から言いながら、ケーキを作り、サンタさんに手紙。

「サンタさんへ きょうはぷれぜんとくばるのがんばってね」

今は、それでいいと思う。



本の感想・頭と心は別、だけど

2009-12-22 01:09:21 | 本・雑誌
はるか昔、高校生のとき。

地学の時間…だったと思うんだけど
地学教室は3人がけの机で、出席順に3人ずつ座っていて
たまたま私は仲良しの子、二人と同じ机に。

先生がけっこうゆるーい感じだったのをいいことに
地学の時間は「おしゃべり時間」でもあった。

今でいう「恋バナ」をしていて
1人の友達が言った。

「結婚したら、他の人を好きになっちゃダメでしょ。
それって、なんかつまんないねー」

自分がどう答えたのか忘れたけれど
そのときの友達の口調や、教室の明るさを
今でもすごく覚えている。

たしか、「そんな先のこと、まだ心配もしてないけど…(笑)」
とかなんとか、答えたような、答えなかったような。
まあ、だいたいそんな気持ちだったと思う。


この本を読みながら、この友達の言葉を思い出しました。

『切羽へ』(井上荒野・著)

島で暮らす、夫のある養護教諭が
新任の男性教師に惹かれる。

彼のほうは、なんともとらえどころのないけれど
ふとした視線、態度にあふれてしまうものがある。

お互いにはっきりと口にしない、自覚自体も曖昧なのに
無意識ににじみ出る空気が、伝え合ってしまう。

恋、とはっきり言うよりも
思いを寄せる、そんな気持ち。
けれど、不確かなようで
間違うことなく相手に向かっている。

そんなふうに、惑い、はぐれそうになっている妻を
夫は感じている。
連れ戻すでもなく、突き放すでもなく。

どこかに行きたくて歩き出すけれど、行き止まる心。
どこにも行けない人たち。


話の舞台は、島。

そのことが、この人たちの関係を
成り立たせているようにも思う。

来るものは受け入れ、去るものを追わない
やさしさとあきらめが、作り出す空気。

答えを出し急がない、求めない関係。

大人の、静かな喜怒哀楽が流れる時間。

最初から最後まで
浮き足立つような気配、ざわめき、危うさが漂う
静かでいて濃厚な物語。


結婚していても心は自由で、縛ることはできない。
頭と心は別もの。

心に従って歩き出した先に、何を見るか。

希望的想像だけではもう、歩けないなあ。

それってやっばり
「なんかつまんないねー」ってことに
なるんでしょうかね。


本の感想・ひだまりと冬空

2009-12-11 23:38:10 | 本・雑誌
文学者とか、大学の先生に対して
なんとなく恐れを感じてしまうのは
自分が不真面目な大学生だったからだと思うのだけど
この人の講義、受けてみたかったなあと思う人が
今になって何人かいます。

ああ、でもきっと居眠りするだろうな。
大学の大教室って、なんであんなに
空気がゆるーくて、気持ちがよかったんだろう。
ゼミ教室では、いつもビクビクしてたけど。

今回読んだ著者も
講義を受けてみたい1人に加わりました。

といっても、この方はもうとっくに
大学は退職されて、今は文筆家です。


『無口な友人』(池内紀・著 みすず書房)


前半は、好きな将棋のことや動物のこと、
身の回りの気になることや場所、
人との付き合い方について
温かく、ゆったりした語り口で綴られている。

「そっか、こういう生き方でいいんだなあ」
「こういう考え方でいいんだなあ」と
なんだか嬉しくなるような、ラクになるような。

といっても、自分の親世代の人で
これまでにドイツ文学者として
実績を残している人をつかまえて
「少年みたいなまなざしが、いいですー」とか
「なんだかポカポカしてきました」とは
とてもとても言いにくいのですが。

けれど、読み進むにつれ、空気が変わる。

あとがきや、背表紙の紹介にも書かれている通り
年を重ねてきた今(刊行は2003年)
少しずつ「死」を感じさせる内容が増えてきたという。

肉親、友人、恩師、ペットなど
もう会えなくなった人たちへの愛情と共に
自分のすべきこと、居場所への執着の薄れを感じ
どきりとさせられる。

本の前半は、ユーモラスで親しみやすい
お人柄を強く感じるけれど、後半にいくにつれ
穏やかな目の奥の、さめた部分が見え隠れして
突き放されたりもする。

たぶん、人を見る目は厳しい人。
人に対して厳しい、のではなく
諦観や許しを持てる人でもあるように感じる。

一番最後の「自死について」は
どうしてもすっきり読めない。

「死」についての、そのお考えは
わかりやすく、深く、理路整然としているだけに
そんなすっきり語らないでください、と。

たぶんこれについて討論したら
言い負かされる、というか、それは
私の中で細かいところを詰めきれてないせいだけど。

感情を否定し、押し殺すような
シビアな目線でひたすら死を見つめているような。
それは自然なことには思えない。

1冊の本の中で、ひだまりのような温かさと
ぐっと気温の落ちた、真夜中の砂漠を味わう。

けれど総合的な印象としては、小春日和、かな。



本の感想・種を越えた愛

2009-12-08 01:53:45 | 本・雑誌
師走突入。

でも引き続きハイペース(私なりの)で
本を読んでます。

そろそろサンタの準備もしなきゃだわ。
年賀状はどうする。
大掃除だ、大掃除。

でもまだまだ大丈夫?? 
現実逃避で本を読む。


今回もまた、穏やかでない話です。

『犬身』(松浦理英子・著 朝日新聞社)

2年ほど前に出た本で
当時、書評でずいぶん取り上げられて
絶賛している人も少なくなかった記憶。

簡単にあらすじをいえば…
(多少のネタバレあり)

「自分は半分、犬の魂を持って生まれたのではないか」
と強く感じながら生きてきた女性が
ある愛犬家の女性陶芸家と出会い
「犬になって彼女のそばで暮らしたい」と願う。
そして、共通の知人であるバーテンダー、
実は狼人間らしき男性によって
ある条件の上、願いが叶えられ…。

ここで描かれる、飼い主の犬の間にある「愛」の形は
ともすれば生理的な嫌悪を感じかねない。

そして思う。
私はペットに対して「愛情」は持つけれど
それは「愛」とは違うのかも。

愛情なんていう生易しいものではなく
もっと生々しい、血のたぎるような愛。

道ですれ違う、かわいいお洋服着せた犬を
散歩させている方たちから
そういう「匂い」はしない。

不幸な愛情体験や、歪んだ家族関係や
人間としての生き辛さが生む
悲しくも優しい関係。


個人的には、ここでの人間と犬の関係どうこうよりも
人間同士の関係の不自然さが気になった。

母と息子、娘の歪んだ関係の説得力が…。
娘の苦しさはわかるけれど、なんか弱い。

人間時代の友人の存在を、最後まで
もっと際立たせてほしかった。

バーテンダー、主人公、陶芸家、それぞれの会話、
行動が、ところどころ不自然。


大作であることは間違いなく
動物をかわいがるとは
美しく優しい行為であるべきとの固定観念から
無意識に目をそらしていることに
触れてもいて、魂こもった作品だと思うからこそ
気になってしまいましたが
私の読みが甘いのかな。

これも個人的感覚だけど
飼い主と動物のこういう関係って
猫と築きやすいような。
犬も猫も飼ったことある上で、そう思いました。


ラストはあっけないです。

でも、最終的には幸せといえるのか。

そもそも、個人的な幸せは求めていないのか。

犬好きの人は、これを読んでどう思うのだろう。