たとえ話というのは使い方によっては大変便利なものだ。
いくら熱弁しても理解されないことが、適切なたとえを見つけて説明すると簡単に納得してもらえることもある。
だが、たとえ話は諸刃の剣でもある。
変なたとえを使うとかえって誤解を招く。それどころか、「おかしなたとえを持ち出して得意げな顔をするこいつはバカじゃなかろうか」と思われて信用をなくすことにもなりかねない。典型的な例としては、2007年に当時の柳沢伯夫厚労相が少子化問題を説明するために使った「生む機械、装置の数は決まっているから、機械と言うのは何だけど、あとは一人頭で頑張ってもらうしかないと思う」という言葉がある。柳沢氏は女性を蔑視しているというレッテルを貼られてバッシングを受けた。たとえ話をしくじると高くつく。
どうして日本軍は真珠湾を攻撃したのか (内田樹の研究室)
内田氏の言いたいことは、日本の「権力者交替の手順」が秀才の自滅でしか行われないということなのだと思う。私は内田氏の文章がどうも苦手で、何を読んでも半分しかわかった気がしないのだけれど多分そう外れてはいないだろう。
内田氏の権力交代論について特に意見はないのだが(あまり読む気もしない)、たとえ話として持ち出された「真珠湾攻撃」がどうにもこうにも不適切なので、文章全体がはなはだ間抜けなことになっている。よく知らないことならたとえに持ち出さないほうがいいのに。
少しでも戦史に興味がある人なら、真珠湾攻撃がどのような経緯で立案・実行されたのか大体知っている。一言でいえば、内田氏の言うような「秀才の100点答案」をひっくりかえした大博打だった。
真珠湾攻撃 - Wikipedia
帝国海軍の「秀才の100点答案」は米艦隊を引きつけて迎え撃つ艦隊決戦である。
海軍大学校を出た秀才たちが日露戦争の後何十年も研究を続けた帝国海軍の既定方針であり模範解答だ。だが、それでは勝てない(図上演習ではほぼ常に日本艦隊が劣勢)と見た連合艦隊司令長官・山本五十六が、太平洋に暗雲の立ち込める1941年になってほとんど泥縄式に立案させたのが真珠湾奇襲作戦である。
山本自身は真珠湾攻撃のアイデアを以前から持っていたようだが、いきなり作戦として検討せよと命じられた「秀才」参謀たちは目を白黒させたはずだ。実際、「軍令部において9月に行われた兵棋演習では、敵戦艦5隻、空母2隻の撃沈破と引換えに味方正規空母4隻中3隻沈没、1隻大破で機動部隊全滅という結果」に終わった。とても「秀才の100点答案」などというものではない。
山本の奇抜なアイデアを作戦計画にまとめた功労者は秀才というより天才肌で「奇人参謀」と呼ばれた黒島亀人だった。
黒島亀人 - Wikipedia
・ あくまでも真珠湾奇襲にこだわり、自分のクビを賭けた山本五十六司令長官
・ 山本に寵愛された「奇人参謀」黒島亀人
個性豊かな二人が常識外れのアイデアを一年足らずで纏め上げ、乾坤一擲の大博打を打ったのが真珠湾攻撃である。「真珠湾攻撃は秀才の『100点答案』である。」という内田氏の見解はどこから来たのか知らないが史実を無視したトンデモとしか言いようがない。
だいたい、真珠湾攻撃について書くのに東条英機だけで山本五十六の名前が出てこないのはどういうことだろう。まさかとは思うけれど、「真珠湾攻撃は帝国海軍の既定方針だった」とか「真珠湾作戦を立案したのは東条英機だ」とか勘違いしているのか。
内田氏の文章中の「真珠湾攻撃」を「日米開戦」に置き換えて読むと多少は理解しやすくなる。東条英機がマジメ人間(秀才とは呼べないと思うけど)なのは定評があるし、彼が日米開戦を決定した最高責任者なのは間違いない。
それにしても、真珠湾攻撃を「秀才の『100点答案』である。」と断定されては「内田氏は日米戦史について何も知らないんじゃないか」と疑ってしまう。こんなヨタ話を聞かされた朝日のイシカワ記者もずいぶん困ったことだろう。
いくら熱弁しても理解されないことが、適切なたとえを見つけて説明すると簡単に納得してもらえることもある。
だが、たとえ話は諸刃の剣でもある。
変なたとえを使うとかえって誤解を招く。それどころか、「おかしなたとえを持ち出して得意げな顔をするこいつはバカじゃなかろうか」と思われて信用をなくすことにもなりかねない。典型的な例としては、2007年に当時の柳沢伯夫厚労相が少子化問題を説明するために使った「生む機械、装置の数は決まっているから、機械と言うのは何だけど、あとは一人頭で頑張ってもらうしかないと思う」という言葉がある。柳沢氏は女性を蔑視しているというレッテルを貼られてバッシングを受けた。たとえ話をしくじると高くつく。
どうして日本軍は真珠湾を攻撃したのか (内田樹の研究室)
「権力中枢に蝟集するワルモノ」というのは、「お勉強のできる人たち」ということである。
秀才というのは、その定義からして「100点答案」を書くことにしか興味がない。
そういう人たちは「後退局面」とか「負け戦」とか「後始末」とか「負けしろの確保」とかいうことについては対応できない。
というのも彼らは「絶対負けない」ということを信条として、秀才としての自己形成を果たしたわけだからである。
こういう人たちは外交や軍事にはまったく向かない。
東条英機というひとは陸士・陸大卒の秀才であり、100点答案を書く名人ではあったが、軍事的にはまるで無能な人物であった。
それは彼の起草した『戦陣訓』を読めばわかる。
曰く「必勝の信念は千磨必死の訓練に生ず。須く寸暇を惜しみ肝胆を砕き、必ず敵に勝つの実力を涵養すべし。勝敗は皇国の隆替に関す。光輝ある軍の歴史に鑑み、百戦百勝の伝統に対する己の責務を銘肝し、勝たずば断じて已むべからず。」
「百戦百勝」は不可能な軍事的事実である。
そんなことは誰でもわかる。
誰でもわかる不可能事を平然と書けるのは、「過去に不可能であった単称言明から、それが未来永劫不可能であるという全称言明は帰納できない」というヒューム的遁辞が用意されているからである。
万分の一でも可能性があれば、「100点の答案」を書きたくなるというのが秀才のピットフォールである。
満州事変以後、太平洋戦争敗戦に至る全行程において、大本営は「これがこうなって、あれがこうなれば、皇軍は完全勝利する」という類の「風が吹けば桶屋が儲かる」式というか「わらしべ長者」式というか、そういう「うまいことだけが選択的に続けば、圧倒的勝利を収めるであろう」的推論だけを行って戦争を遂行した。
これは秀才だけが能くなしうる仕事である。
日露戦争から35年、日本の軍事機構には秀才だけを登用し続け来た。その結果、太平洋戦争開戦時に、日本軍の中枢には、参謀本部にも軍令部にも、もう秀才しか残っていなかった。
真珠湾攻撃は秀才の「100点答案」である。
という話をする。
内田氏の言いたいことは、日本の「権力者交替の手順」が秀才の自滅でしか行われないということなのだと思う。私は内田氏の文章がどうも苦手で、何を読んでも半分しかわかった気がしないのだけれど多分そう外れてはいないだろう。
内田氏の権力交代論について特に意見はないのだが(あまり読む気もしない)、たとえ話として持ち出された「真珠湾攻撃」がどうにもこうにも不適切なので、文章全体がはなはだ間抜けなことになっている。よく知らないことならたとえに持ち出さないほうがいいのに。
少しでも戦史に興味がある人なら、真珠湾攻撃がどのような経緯で立案・実行されたのか大体知っている。一言でいえば、内田氏の言うような「秀才の100点答案」をひっくりかえした大博打だった。
真珠湾攻撃 - Wikipedia
帝国海軍の「秀才の100点答案」は米艦隊を引きつけて迎え撃つ艦隊決戦である。
海軍大学校を出た秀才たちが日露戦争の後何十年も研究を続けた帝国海軍の既定方針であり模範解答だ。だが、それでは勝てない(図上演習ではほぼ常に日本艦隊が劣勢)と見た連合艦隊司令長官・山本五十六が、太平洋に暗雲の立ち込める1941年になってほとんど泥縄式に立案させたのが真珠湾奇襲作戦である。
山本自身は真珠湾攻撃のアイデアを以前から持っていたようだが、いきなり作戦として検討せよと命じられた「秀才」参謀たちは目を白黒させたはずだ。実際、「軍令部において9月に行われた兵棋演習では、敵戦艦5隻、空母2隻の撃沈破と引換えに味方正規空母4隻中3隻沈没、1隻大破で機動部隊全滅という結果」に終わった。とても「秀才の100点答案」などというものではない。
山本の奇抜なアイデアを作戦計画にまとめた功労者は秀才というより天才肌で「奇人参謀」と呼ばれた黒島亀人だった。
黒島亀人 - Wikipedia
山本長官の下で参謀長は次々交代したが、黒島だけは唯一不動で山本に寵愛された。こうして黒島も初めて己の才能を理解してくれる人物に出会い、ますますその異能を発揮することとなった。時代は日米開戦必至の雲行きで、山本の頭に開戦劈頭のハワイ攻撃という奇想が宿る。大西瀧治郎少将と源田実少佐作成による真珠湾攻撃の航空作戦草案を、黒島は旗艦長門の私室にこもり心血を注いで全体成案を練った。(略)ヘビー・スモーカーで素っ裸で部屋にこもり、想を練り始めると時間の観念も忘れ、ひたすらタバコを吸いながら、食事も取らず風呂にも入らず没頭した。だがこの奇人ぶりは日露戦争時の秋山真之(天才肌で奇人として有名)を意識して故意にまねていたのではないかともいわれている。
・ あくまでも真珠湾奇襲にこだわり、自分のクビを賭けた山本五十六司令長官
・ 山本に寵愛された「奇人参謀」黒島亀人
個性豊かな二人が常識外れのアイデアを一年足らずで纏め上げ、乾坤一擲の大博打を打ったのが真珠湾攻撃である。「真珠湾攻撃は秀才の『100点答案』である。」という内田氏の見解はどこから来たのか知らないが史実を無視したトンデモとしか言いようがない。
だいたい、真珠湾攻撃について書くのに東条英機だけで山本五十六の名前が出てこないのはどういうことだろう。まさかとは思うけれど、「真珠湾攻撃は帝国海軍の既定方針だった」とか「真珠湾作戦を立案したのは東条英機だ」とか勘違いしているのか。
内田氏の文章中の「真珠湾攻撃」を「日米開戦」に置き換えて読むと多少は理解しやすくなる。東条英機がマジメ人間(秀才とは呼べないと思うけど)なのは定評があるし、彼が日米開戦を決定した最高責任者なのは間違いない。
それにしても、真珠湾攻撃を「秀才の『100点答案』である。」と断定されては「内田氏は日米戦史について何も知らないんじゃないか」と疑ってしまう。こんなヨタ話を聞かされた朝日のイシカワ記者もずいぶん困ったことだろう。
内田氏は、玄倉川さんが仰る 「 (真珠湾攻撃は) 一言でいえば、大博打だった」 ことは承知のうえで、「 “うまいことだけが選択的に続けば”、『圧倒的勝利を収めるであろう』 的推論だけを行って戦争を遂行した」 と主張し、その推論 (真珠湾攻撃=大博打が当たるという “うまいこと” が起き、その後もうまいことだけが選択的に続くという推論) に基づく計画を 「秀才の100点答案」 と言っているように思うのですが・・・。
議論するつもりはありませんので、読み違いであればご容赦を。