玄倉川の岸辺

悪行に報いがあるとは限りませんが、愚行の報いから逃れるのは難しいようです

「理屈」と「実感」

2009年01月14日 | 日々思うことなど
何度も書いたことだが、私には経済の知識がほとんどない。
金利がどうの、マネーサプライがこうの、税率がああで、公共投資がどうしたといった話はほとんどチンプンカンプンである。だからたいていの場合「自分にはよくわからないので、賢い人たちがしっかり考えて決めてください」とお任せすることになる。
それなのになぜ定額給付金問題に一言いいたくなるのかというと、「世論」に見られる理屈と実感の食い違いが気持ち悪いからだ。

定額給付金に対する「民意」、8割以上が反対という状況は、私の目には理屈に流されていて危なっかしく見える。
「理屈に流される」という表現は書き間違いではない。
「感情に流されるのは危険だ」という言葉は多くの人が口にする。私もよく使う。男性脳とかモヒカン族と判定される私にとって「世の中って不合理だ」「もっと合理的に考えればいいのに」と感じられることが多いのは事実だ。その私にして、「定額給付金反対世論は理屈が勝ちすぎている、ご立派な理屈に流されている」と思ってしまうのが今の定額給付金をめぐる「世論」だ。

感情という言葉はいささかデリケートなので、以下の文中では「理屈」には「実感」を対応させることにする。
理屈と実感は往々にして一致しない。たとえば世の中でブームになる健康法の多くは「体にいいことしている」という実感は満足させても実証性(理屈)に欠けていることが多い。逆に、医者の勧める合理的な(理屈に合った)健康法でも、実感が持てなければなかなか続けられない。

一口に実感といっても、「生物的実感」と「社会的実感」に分けられる。人間とは社会的動物なのである。
生物的実感とは、「腹が減ったら飯を食いたい」とか「セックスしたい」とか「暖かな家に住みたい」といったことだ。これらの実感は常に「自然」で正しい。正しい、とはいっても無制限に欲求を満たそうとするとかえって健康を損なったりする。適切に理屈を用いて制御する必要がある。
生物的実感よりも理屈を優先させるとたいてい妙なことになる。昔の未来予測では「完全な栄養カプセルができれば食事はいらなくなる」などと言われていたが、今の世の中で納得する人はいないだろう。生物的実感を無視しているからだ。

もう一方の社会的実感とは、人間が社会の中で生きていくうちに生まれる実感である。「差別するのもされるのもイヤだ」とか「戦争をすると人が死ぬのでよくない」とか「名誉ある地位を得て尊敬されたい」といったことだ。「なんだかんだいってもみんなお金が欲しいよね」というのも社会的実感の一つだ。
社会的実感は社会のありかたによって変化する。差別があたりまえだったり、戦争が立派なことだったりした時代はそれほど昔のことではない。かといって、社会的実感の存在を否定することはできない。現代社会では生物的実感を露骨に表現するとはしたないと軽蔑されることが多いので、社会的実感の形で表現しなければならない。職場で「とにかくセックスしたい」と公言すると変態扱いされるが、「恋人がほしい、結婚したい」と愚痴れば同情してもらえる。

「なんだかんだいってもみんなお金がほしいよね」という社会的実感は、貨幣経済が始まってからずっと変わらずに存在している。短歌や俳句を川柳狂歌に変えてしまういちばん手軽な方法は、下の句に「それにつけても金の欲しさよ」と付けることだ、という説がある。
 「花の色は 移りにけりな いたづらに それにつけても 金の欲しさよ」
 「古池や 蛙飛びこむ 水の音 それにつけても 金の欲しさよ」
どちらもまったく違和感がない(本当に?)。
かくもさように「なんだかんだいってもお金は欲しい」というのはほとんどの人の実感なのである(ちょっと強引)。

ところが、このごろの「定額給付金反対・嫌悪」の世論は「なんだかんだいってもみんなお金が欲しいよね」という社会的実感をないがしろにしている。「給付金なんて欲しくない、政府はもっと立派な使い方をしろ」というご立派な意見が幅を利かせている。私のように理屈の勝った「モヒカン族」でさえなんだか気持ち悪く感じてしまうほどだ。
立派なのはけっこうだが、ご立派すぎるのは不自然だ。「理屈に流されて実感をないがしろにしている」「これじゃバランスが悪い」と言いたくなる。人間は理屈と感情(実感)の二頭立てであって、どちらか一方がむやみに先走るとひっくり返る危険が高まる。

理屈が先走って実感とかけ離れているのは、定額給付金についての世論調査に表れている。
「定額給付金に反対」が8割、それなのに「実施されたら受け取る」が7割。反対が「理屈」、そうはいってもお金は欲しいが「実感」だと言っても間違いないだろう。二つの答えは明らかに矛盾しているのだが、多くの人はそれに気付かないか、あるいは見て見ぬふりで合理化している。

理屈と実感がかけ離れる極端な例として「戦争」をあげてみる。
どこかの国との間で緊張が高まり、「武力行使やむなし」「ガツンとやっちまえ」という強硬論が大勢を占めたとしよう。ところが、強硬論を叫ぶ人に「あなた自身は兵役を志願しますか」「あなたの子供が志願するのを許しますか」と聞いてみたら、「いや、戦争で命を落とすなんてバカらしいよ」という答えがほとんどだ。はたしてこういう世論は健全といえるのか。

もっと穏健な例を考えてみよう。
去年の「毒ギョーザ事件」で中国製冷凍食品への根強い不信感が広まった。実際に死者入院患者が出ているのだから、「中国製冷凍食品は危険だ」というのは社会的実感といえる。
食品会社が品質管理と安全性向上に目いっぱい努力し、「これなら理解してもらえるだろう」と期待して消費者にアンケートをとる。「食品会社の品質管理は信用できる」「中国製だからといって毛嫌いする必要はない」という答えが8割を占めても簡単に喜んではいけない。
「あなたは中国製冷凍食品を購入しますか」「子供に安心して食べさせられますか」という質問に7割が「いいえ」と答えたら、実感としての不安は何も変わっていないことになる。「食品会社は信用できる」という最初の答えのほうが「ご立派すぎる」実感とかけ離れた意見だったのだ。

前の記事でも書いたように、私は定額給付金への賛否において「理屈」と「実感」の二頭の馬をバランスよく御すべきだと思っている。馬車を東に走らせようと(賛成しようと)西に走らせようと(反対しようと)勝手だが、片方の馬ばかり先走るのは危険だ。
定額給付金に本気で反対するのなら、「実施されても受け取るものか」とボイコット宣言して実感を理屈に追いつかせるべきだ。
逆に賛成派が「もらった金は自分の好きにする」「貯金して何が悪い」と言えば理屈をないがしろにしている。「給付金は景気刺激を狙った政策である」という理屈を実感に追いつかせることが求められる。


国民が定額給付金に賛成するのも反対するのも自由だ。
だが、「反対だけど実施されたらお金はもらう」という今の世論は、「理屈」と「実感」という二頭の馬のバランスが取れていないことを示していて危なっかしい。給付金ボイコット宣言の勧めは、二頭の馬の首をそろえることの勧めである。


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6 コメント

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Unknown (PTB)
2009-01-15 05:24:03
細かい上に本題とはまったく関係なくて恐縮ですが川柳ではなくて狂歌ですよね。
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Unknown ()
2009-01-15 19:07:52
>「反対だけど実施されたらお金はもらう」という今の世論は、「理屈」と「実感」という二頭の馬のバランスが取れていない

私は逆にリアルに生きている人間としてバランスが取れてるな~と思うんですよね。逞しいと。
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狂歌 (玄倉川)
2009-01-15 19:36:25
PTBさん、ご指摘ありがとうございます。
訂正しました。
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Unknown ()
2009-01-16 15:09:19
「燃料」を燃やして「電気」をつくる。それには当然エネルギーのロスを伴うが、電気にしかできないことがあるからこそつくる。その、せっかく苦労してつくった電気のエネルギーを使って、しかもさらに大きなエネルギーロスを承知の上で「元の燃料」を合成する。

定額給付金というのはこれと同じことだと思います。「実感」もなにも、原理的に駄目すぎて賛成する気にはなれないですね。
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Unknown (y)
2009-01-17 15:09:43
毒餃子は入院だけで死者はいないはずですが
メラミンの方と間違えてませんか?
玄倉川さんの「実感」では死者が出たってことかな
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勘違いしてました (玄倉川)
2009-01-17 18:38:51
yさん、ご指摘ありがとうございます。「死者」を「入院患者」に訂正しました。
ニュースの取り上げられ方の大きさから、てっきり死者が出ていたものと思い込んでました。
去年の2月2日の時点では「34都道府県で285人が医療機関で受診し、うち8人が入院」(ttp://www.yomiuri.co.jp/feature/20080131-1068087/news/20080202-OYT1T00563.htm)
というのが被害の実態で、その後もどうやら死者は出ていないようですね。
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