今回のエントリも、コメント欄にご意見を頂いたDさんへの返答です。
読者の皆様はお手数ですがまずこちらをお読みになってから本文にお進みください。
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Dさん、長文のコメントありがとうございます。
まず、私の文章中に一部皮肉な表現があり、Dさんにご不快の念を与えたことをお詫びします。
弁解させていただけるなら、皮肉めいた表現を使ったのは自覚しておりますが、それはDさんに向けてというよりも小倉弁護士や団藤記者に向けたつもりでした。
どちらにしてもDさんが不快に思われたことには変わりありませんので、もう一度お詫びを申し上げます。
さて。正直言って困っています。
私の意見はこれまでにすべて書きつくした感があり、これ以上何を書いてもDさんに納得いただけるものになる気がしません。ですが、「感覚の相違です」で終わりにしてしまうのは誠実さに欠けますから、できるかぎりやってみようと思います。
> もう一回書きますと、「自分に縁がないと思っているなら、なぜ騒ぐのですか。なぜ過剰に反応するのですか」がコメントの要旨です。
Dさんのご意見は理解しているつもりです。筋が通っているとも思います。
が、私はそのご意見には同意できません。
小倉弁護士の件について言えば、私は「批判的コメントを書いた人の多くは、自分たちが『ネット右翼』とレッテル貼りされたという被害感情を持った」と考えています(念のため、これは小倉弁護士にレッテル貼りの意図があったかどうかとは別の話です)。
「自ら承認しない属性で呼ばれる=レッテル貼りされる」のはほとんどの人にとって不愉快であろうと思います。
Dさんのように「縁がないと思えば無視すればいい」と思えるほどの確固とした自己を確立した人はそう多くはありません。個人のアイデンティティとは、「自分がそうであると認識しているもの」と「周囲からそうであると認識されているもの」の複合体だと私は考えます。自分に貼られたレッテルは、好むと好まざるによらず、自己認識と世評の複合体としての自分の一部分になってしまうのです。レッテルを貼ってきた相手が影響力を持たければ無視するのも難しくはないでしょうが、「ITに強い弁護士」や「有名新聞の記者」から不本意なレッテル貼りをされてはどうしても気になります。
「ネット右翼」とレッテル貼りされたと感じた人は、それを無視し続ければ「ネット右翼ではない自分」というパーソナルイメージが侵食されるような不安感を持ちます。アイデンティティの不安というのは耐え難いものですから、レッテル貼りしようとした相手に対して反感を持ち、強い言葉で批判するのも当然であろうと考えます。
Dさんはご自分に無関係なレッテルを貼られても平気だとおっしゃる。
それはDさんの自意識の強さの現れでしょう。私はDさんのような人は立派であると思います(皮肉ではありません)。ですが、すべての人がDさんのようになる事は無理だし、それを要求するのは行きすぎであろうと考えます。
>本当の言論人なら双方を批判してほしいものですが。
「本当の言論人」とはどういうものなのか私にはよくわかりませんが、誰であれダブルスタンダードはよくないということでしたら賛成です。
Dさんは私に右側からのレッテル貼りも批判しろとおっしゃる。
正しいことを言っておられるとは思いますが、正直言って私にはピンと来ません。
なぜなら、私はこれまで右側からのレッテル貼りの対象にされたことがなく、今のところ被害感情を持っていないからです。切実さのないことに関して多くのエネルギーを使う気にはなれません。
すでに少しのエネルギーを使って「これは左寄りの人が『ネット右翼』という言葉を使う場合だけでなく、右寄りの人が『マスゴミ』『売国奴』『サヨク』といった言葉を使うときにも注意する必要がある。」と左右両側からのレッテル貼りを批判しておりますがこれでは不足でしょうか。
もし仮に、愛国者の皆さんから「玄倉川は左翼の売国奴だ」とレッテル貼りされたら私は「ネット右翼」のレッテル貼りをされたときと同じく反発することでしょう。なぜなら私は「ネット右翼」でも「売国奴」でもないつもりだから。
ちょっと余談になりますが、私がもし「薄らサヨク」とか「リベラル」とかレッテル貼りされたとしてもあまり反感を感じないような気がします。それらが私のセルフイメージ(中道やや左より)と矛盾せず、アイデンティティーを犯される危機を感じさせないからです。
>双方気持ちよく議論するためには無用な皮肉はやめに致しましょう。それが誠実な議論というものです。
ご意見に完全に賛成します。
Dさんと私の間に前回は「レッテル貼りはやめよう」、今回は「皮肉もやめよう」という共通の認識を得ることができました。喜ばしいことです。
実りある対話をさせていただいたことに感謝します。
読者の皆様はお手数ですがまずこちらをお読みになってから本文にお進みください。
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Dさん、長文のコメントありがとうございます。
まず、私の文章中に一部皮肉な表現があり、Dさんにご不快の念を与えたことをお詫びします。
弁解させていただけるなら、皮肉めいた表現を使ったのは自覚しておりますが、それはDさんに向けてというよりも小倉弁護士や団藤記者に向けたつもりでした。
どちらにしてもDさんが不快に思われたことには変わりありませんので、もう一度お詫びを申し上げます。
さて。正直言って困っています。
私の意見はこれまでにすべて書きつくした感があり、これ以上何を書いてもDさんに納得いただけるものになる気がしません。ですが、「感覚の相違です」で終わりにしてしまうのは誠実さに欠けますから、できるかぎりやってみようと思います。
> もう一回書きますと、「自分に縁がないと思っているなら、なぜ騒ぐのですか。なぜ過剰に反応するのですか」がコメントの要旨です。
Dさんのご意見は理解しているつもりです。筋が通っているとも思います。
が、私はそのご意見には同意できません。
小倉弁護士の件について言えば、私は「批判的コメントを書いた人の多くは、自分たちが『ネット右翼』とレッテル貼りされたという被害感情を持った」と考えています(念のため、これは小倉弁護士にレッテル貼りの意図があったかどうかとは別の話です)。
「自ら承認しない属性で呼ばれる=レッテル貼りされる」のはほとんどの人にとって不愉快であろうと思います。
Dさんのように「縁がないと思えば無視すればいい」と思えるほどの確固とした自己を確立した人はそう多くはありません。個人のアイデンティティとは、「自分がそうであると認識しているもの」と「周囲からそうであると認識されているもの」の複合体だと私は考えます。自分に貼られたレッテルは、好むと好まざるによらず、自己認識と世評の複合体としての自分の一部分になってしまうのです。レッテルを貼ってきた相手が影響力を持たければ無視するのも難しくはないでしょうが、「ITに強い弁護士」や「有名新聞の記者」から不本意なレッテル貼りをされてはどうしても気になります。
「ネット右翼」とレッテル貼りされたと感じた人は、それを無視し続ければ「ネット右翼ではない自分」というパーソナルイメージが侵食されるような不安感を持ちます。アイデンティティの不安というのは耐え難いものですから、レッテル貼りしようとした相手に対して反感を持ち、強い言葉で批判するのも当然であろうと考えます。
Dさんはご自分に無関係なレッテルを貼られても平気だとおっしゃる。
それはDさんの自意識の強さの現れでしょう。私はDさんのような人は立派であると思います(皮肉ではありません)。ですが、すべての人がDさんのようになる事は無理だし、それを要求するのは行きすぎであろうと考えます。
>本当の言論人なら双方を批判してほしいものですが。
「本当の言論人」とはどういうものなのか私にはよくわかりませんが、誰であれダブルスタンダードはよくないということでしたら賛成です。
Dさんは私に右側からのレッテル貼りも批判しろとおっしゃる。
正しいことを言っておられるとは思いますが、正直言って私にはピンと来ません。
なぜなら、私はこれまで右側からのレッテル貼りの対象にされたことがなく、今のところ被害感情を持っていないからです。切実さのないことに関して多くのエネルギーを使う気にはなれません。
すでに少しのエネルギーを使って「これは左寄りの人が『ネット右翼』という言葉を使う場合だけでなく、右寄りの人が『マスゴミ』『売国奴』『サヨク』といった言葉を使うときにも注意する必要がある。」と左右両側からのレッテル貼りを批判しておりますがこれでは不足でしょうか。
もし仮に、愛国者の皆さんから「玄倉川は左翼の売国奴だ」とレッテル貼りされたら私は「ネット右翼」のレッテル貼りをされたときと同じく反発することでしょう。なぜなら私は「ネット右翼」でも「売国奴」でもないつもりだから。
ちょっと余談になりますが、私がもし「薄らサヨク」とか「リベラル」とかレッテル貼りされたとしてもあまり反感を感じないような気がします。それらが私のセルフイメージ(中道やや左より)と矛盾せず、アイデンティティーを犯される危機を感じさせないからです。
>双方気持ちよく議論するためには無用な皮肉はやめに致しましょう。それが誠実な議論というものです。
ご意見に完全に賛成します。
Dさんと私の間に前回は「レッテル貼りはやめよう」、今回は「皮肉もやめよう」という共通の認識を得ることができました。喜ばしいことです。
実りある対話をさせていただいたことに感謝します。
始めまして、私は「ペリーヌ物語壱番館」に次のようなコメントをしました。
ペリーヌも母マリも、私には、なりたくても、なれない人格者です。
「人から愛されたければ、まず自分から人を愛さなければ」
って日教組の教師にいじめられて許せない私にはとうてい無理です。
と書きました。
すると「ないしょないしょ」という人が
「こいつはネット右翼です。沢山の人を不快にさせます。良心に従って、こいつの書き込みを削除してください。その後でこの私の書き込みも消してください」
と書いてきました。「始めから無かった事にしろ」と要求しています。
そして今掲示板は閉鎖されています。
私は共産党支持です。右翼ではないです。
一歩譲って私が右翼だとしても、このような要求は憲法で保障された言論の自由を侵害する行為です。
想像するに、こういう人は日頃「言論の自由を守れ」と声高に叫んでおきながら、自分の反対意見が新聞の投書欄に載ると「どうしてこんな意見を載せるんだ」と抗議電話をかけるのでしょう。
過去に京都新聞で体験しました。
レッテル貼りをする人は言論封殺もします。
かしこ
コメントありがとうございます。
Dさんのおかげで「レッテル貼り」について自分なりにいろいろと考えることができました。
今も考えてます。たぶん、すでにどこかの本にちゃんとした人が立派な説を載せているのでしょうが、定説を読んでわかったつもりになるよりも、じたばたしながら自分で納得できる考え方を組み立ててみたいと思います。
まとまったらまた書くつもりです。
難しいことを連続して考えると疲れるので、しばらくは馬鹿げたことを気楽に書いていきたいですね。
というわけで戸田菜穂さんにメロメロになってみました。
「お前狂っているだろう!そうに違いない!」
「お前だろう!ヨツだろう!」
…最後の例は、僕自身、書くことにたいへん躊躇しました。もしこの言葉を見て、つらい気持ちになった方がおられたら大変申し訳ありません。
こうしたあまりに酷い極端な例を挙げる事で、問題を顕在化させたいという意図で使いました。
こんなふうに言われたら、たとえセルフイメージと一致していないとしても心穏やかではいられないでしょうね。
自分が被差別民だと言われたら、それを否定する自分の言葉の中に差別意識を見出して、二重の苦しみを感じることもあるでしょう。
無視するには重すぎる言葉です。
僕はネット右翼なんて思ったこともありませんし、思想や政治の話なんてすることもほとんど無いのですけど、十把一絡げにネット右翼と言われたらいい気分はしません。
僕自身はできれば実りある議論をし、考えを深めたいと思うのですが、その言葉をぞんざいに扱われてたわ言とされてしまうのは無視できません。そして僕も強い言葉を使い、泥仕合に陥るでしょう。
僕自身は自分のことは良くわからないので人に言われた自分の像をセルフイメージとして受け入れようと思っています。少なくともそういう側面があるということを組み込んでいこうと思っています。
しかし、それにはやはり相手が信頼できなくてはそれを受け入れることはできません。
僕はまず、信頼関係を組み立てられる態度を望みます。
僕はノンポリで現実主義者、合理主義者ですので(多分、僕のことを知っている人はそう評価してくれるであろうと思います)非現実的、非合理な論理(w)でなければ、僕は組み込みたいと思っています。
長文お疲れさまです。D様のコメントとも併せて読んでいますが、私もいろいろ勉強になります。
自Blogでは毒舌?ピエロめいたことをやってますが、議論が嫌いというわけではないので。
>私の意見はこれまでにすべて書きつくした感があり、これ以上何を書いてもDさんに納得いただけるものになる気がしません。
の文面は「(私の主観で感じる)D氏が読むと、ひょっとすると皮肉と受け取られるかも・・」と感じました。
ただ何も思わなければ、スルーしてしていただいて結構です。
>それらが私のセルフイメージ(中道やや左より)と矛盾せず
では今後「中道やや左より」とレッテルを貼ることにします(笑)