黒古一夫BLOG

文学と徒然なる日常を綴ったBLOG

「虚しさ」との戦い(16)――ご都合主義の先に見えるものは!?

2015-08-09 16:13:40 | 仕事
 敢えて差別的な言い方をするが、「頭の悪い」人間が自分を「大物」だとか「偉い人」とか思わせるときに使う常套手段は、「ご都合主義」と決まっている。もちろん、ご都合主義の裏側には、これも決まって「尊大さ=傲慢さ」と「侮蔑」が張り付いている。
 今年の「ヒロシマ・デー」と「ナガサキ・デー」における「内閣総理大臣・安倍晋三」の挨拶(スピーチ)は、そのご都合主義の典型である。まず、これは多くのマスコミも報じていることだが、ヒロシマにおいてその挨拶に「非核三原則」の言葉を取り入れなかったことを指摘されると、ろくな説明もなくナガサキにおいて入れる、という何とも締まりのない醜態を演じたが、安倍首相(安倍政権)のご都合主義の問題点は、そんな表層的な問題にあるのではなく、ヒロシマにおける挨拶文とナガサキにおける挨拶文が、「非核三原則」の有無以外、90%以上「同じ文言=コピー」だということが象徴しているように、安倍首相は「ヒロシマ・ナガサキ」、つまり「核被害」について明確な見解を全く持っておらず、従って挨拶文にある「核軍縮を進めていく」などという言葉も眉唾物だということを露呈してしまっている、ということである。
 換言すれば、日本がアメリカの「核の傘」の下に存在することを前提とした「日米安保条約=日米関係の強化」を主張するのであれば、それはアメリカの「核」を認めているということになり、「核廃絶」の思想とは相容れないのに、その矛盾に全く気付かない(認識できない)、ということである。アメリカの戦争を「支援」する「安保法制=戦争法案」に対して、長崎市長が明確に「慎重に審議していただきたい(法案に反対だ)」と言明したことに対して(この時、式典に参集していた市民から大きな拍手が湧いた)、スピーチで何も応えず、ただ官僚が作成した(「非核三原則」を盛り込んだ)文章を、心ここにあらずという形で読み上げただけの安倍首相、ここに安倍首相(安倍政権)の基本的姿勢が現れている。厚顔無恥も極まれり、といった感じであった。
 それに、これは意図的だと思うのだが、再三再四指摘してきたように、原発の再稼働は「電力問題=エネルギー問題」などではなく、ただ「経済(効果)」の問題であり、使用済み核燃料の再処理によって生成される核兵器の材料である「プルトニウムの確保」にあることを隠し、「核廃絶」を口の端に上らせるこの「いやらしさ」、安倍首相の態度は国民を馬鹿にした最たるものである
 こんな子供でも分かるような「建前」と「本音」を使い分ける政治をやっているから、「法廷安定性など関係ない」と言ったり、自分は「国会議員」という安全地帯にいながら、若者たちが「戦争反対・戦場に行きたくない」と叫んだことに対して、「利己的だ」などと批判する愚かな先走り的な政治屋が出てくるのである。
 これは安倍政権の「傲り」現れとしか言いようがないのだが、それとは別に8月6日前後から今日8月9日までのマスコミの論調やコメンテーターの発言を聞いていて、気になったことが一つある、
 それは、「ヒロシマ・ナガサキ」の被害やそれ以前の沖縄戦、あるいは1945年3月10日の東京大空襲初めとする日本各地の空襲被害を言うとき、<被害>については大きな声で指摘するのだが、そのような「被害・被爆」に至る過程において、1931年の「満州事変」に始まって(実は、それ以前からとも言えるのだが、わかりやすくするために「「満州事変」からにする)1945年8月15日までの日本(軍)のアジア各地における<加害>については、誰も指摘しないということである。兵士だけでなく「女・子供・老人」といった無辜の民が多数死傷したアメリカ軍による東京大空襲や広島・長崎への原爆投下などによる<被害>は、元を辿れば日本(軍)の中国への「侵略」の過程で行われた「南京大虐殺」や「重慶(無差別)爆撃」などの<加害>の結果であること、このことを「歴史の事実」として僕らは忘れるわけにはいかない。 安倍首相が強引に「安保法制=戦争法案」を推し進めようとしているのも、そのようなアジア太平洋戦争における<加害>の歴史について、認識していないからである(知らないフリをしているからである)。
 先の大戦への「痛切な反省」があって、その上で日本(軍)による被害を受けた国に対する「お詫び」があって、そしてここが重要だが、アメリカ軍による「無差別爆撃(広島・長崎への原爆投下を含む)を糾弾し、アメリカに「反省」を求める、そのような「毅然」とした態度を示すことこそ、安倍首相が好きな「未来志向」と言うことになると思うのだが、「アホ」な安倍さんには、残念だが、こんな原則など理解できないだろう