黒古一夫BLOG

文学と徒然なる日常を綴ったBLOG

どうしようもない、私たち

2013-05-31 08:50:55 | 近況
 風邪を少々こじらせて医者にかかる羽目になり、予定していた原稿執筆(『立松和平全小説』第24巻「解説・解題」)が大幅に遅れ、そのためにこの欄を書く時間が無く、余計にイライラが募るという状況にあったが、2,3日前からようやく体調も元に戻り、それに従って気力も戻ってきて、どうにか「日常」を取り戻すことができた。原稿(『全小説』の「解説・解題」)の方も、無事終わり、少し余裕が出たので、溜まっていた新聞に目を通し、また直近のニュースが知り長けてテレビのニュース番組なども見ていたのだが、「いいこと」は少しもなく、「悪いこと」ばかりの現在、何ともやりきれない気持にさせられた。
 何よりも、国民の半数に満たない人たちによって支持された自民党が、「小選挙区制」という「選挙」のマジックで「勝利」したのをよいことに、「アベノミクス」というそれこそ虚構しか言いようがない経済政策の「表層的・現在的」な成功をテコに、やりたい放題をやり、それに国民の大多数(60~70パーセントの人々)が支持するという、何とも「奇妙」で「おぞましい」現実を目の当たりにして、僕は「どうしようもないな、私たちは」と思わざるを得なかった。
 つまり、例えば、フクシマが一向に「収束」せず、10数万人の避難者(ヒバクシャ)が故郷に帰れない現実があり、多くの土地や山林、海が放射能に汚染されたまま放置されているのに、そのようなフクシマの現実に目をつぶり(無かったものの如く振る舞い)、「日本の原発技術は安全」とばかりにフクシマの現実を蔑ろにして、原発産業、大企業の利益を最優先させ「原発輸出」に精を出し、また「経済発展のために原発は必要」とばかりに原発の「再稼働」を推進するす安倍首相や産業界・電力業界、とそのような安倍首相の政策に高い支持を与える国民、どこか「おかしい」。
 また、飯島勲内閣参与の「電撃的な北朝鮮訪問」やにわかにクローズアップされるようになった「拉致問題」、これほど胡散臭いものはない。もちろん、北朝鮮による日本人「拉致」は、許されざる行為であり、家族の人たちが早い時期の帰還(帰国)を望むのは、自然のことである。しかし、小泉政権時代の「拉致被害者の帰国」の時にも書いたことだが、この「拉致問題」はこれまでも今回も余りに「政治」に利用され(振り回され)過ぎているのではないか、という印象を持っている。7月の参議院選を前に「拉致問題に熱心な安倍首相・内閣」というイメージを国民に植え付け、参院選に「勝利」して「憲法改正」を行おうとする意図が見え見えの飯島内閣参与の訪朝。
 さらに、今更言うのもこちらが恥ずかしくなるような橋下大阪市長の「従軍慰安婦」発言と駐沖米軍への「風俗業の利用の勧め」、この橋下大阪市長の発言とその後の「弁解」については、「馬鹿か、お前」と言って済ませてもいいのだが、あのはったり屋で目立ちたがり屋の「政治屋」(家ではなく)について、テレビ司会者などが未だに「優秀な政治家」だとか「真の改革者」だなどとおだて上げ、今回の発言だけはまずかった、というような評価をしていることを知ると、残念ながら、この国の「民度」も地に落ちたな、と思うしかなくなってくる。また、この橋下発言が象徴する現代政治にあって「茶番劇」を演じたのが、昨日大阪市議会に提出された「橋下市長問責決議案」に反対意見を投じた公明党であることを考えると、公明党の掲げる「平和」とか「福祉」とか「人権」とかが、単なるお題目でしかないことがよく分かり、現代がどうしようもない時代にあることを、よく私たちに教えてくれている。
 この時代に「(未来に向けた)ビジョンが無くなった」とは、よく言われることだが、目先の利益にしか関心を示さず、「今さえよければ」というどう考えてもニヒリズムとしか言いようのない人々の在り方を見ていると、さもありなん、と思えてくる。東日本大震災の少し前ぐらいから、東大の先生たちを中心に「希望学」なるものが流行り出し、またあのニヒリズムの極致世界を絵が居続けてきた村上龍も『希望の国のエクソダス』(01年)あたりから「希望」を語り出すということがあったが、今の状況を見ると、「希望」は遠く、「絶望」こそが相応しい社会になっているのではないか、と思わざるを得ない。
 何とかならないか、と思う一方で、どうにもならない、という感情がわき出てきて、どうにもならなくなるのだが、大江健三郎さんや鎌田慧さんが僕と同じような「絶望」を内に抱えながら、それでも「反原発」や「9条を守れ」と言い続けていることに、また勇気づけられるのも事実。何ともアンビバレンツな現代であることよ。