黒古一夫BLOG

文学と徒然なる日常を綴ったBLOG

「反戦」・「反核」を言い続ける理由(続き)

2012-05-07 09:03:27 | 仕事
 昨日は、このブログを書いている途中で長電話が入ったため、中途半端な形で終わってしまい、尻切れトンボの印象を与えたのではないかと思い、「続き」を書くことにする。
 昨日の記事で僕が言いたかったことは、この20日間余り、『井伏鱒二と「戦争」』(仮題)で出版を計画している原稿の見直し(修正・加筆)を行い、同時に「夏野菜」の種を蒔き、苗を植える日々を過ごしている内に、気付いたこと(確信したこと)があり、それは僕の批評は「反戦・反核」の思想を根っこに持ったものである、ということを改めて確認する必要があると思った、ということである。
 理由は、吉本隆明が最期の最後まで「科学神話=原発安全神話」を手放すことがなかったことのは何故か、そして、そのような吉本の「科学神話=原発安全神話」の影響下で自らの思想を形成した者が、「団塊の世代」を中心にして予想通り数多く存在していることを知り、改めて僕らが受けた「戦後民主主義教育」(反戦思想と民主主義思想を軸とした)とは何であったのかを、井伏鱒二の「戦争観」や「反核論」を整理しながら考えたからである。あわせて、野菜の芽吹きや成長を日々見守りながら「生命(いのち)とは何ぞや」などということを考え、「生命」を育むことの難しさを改めて痛感したからに他ならない。
 つまり、「反戦・反核」もその根っこには「生命(人間)尊重主義」(大江健三郎流に言えば「ユマニズム」ということになるが、一般的には「ヒューマニズム」)の重要性を改めて考え続けけていた、ということである。この「ヒューマニズム」に「エコロジー」を加味すれば、ずっと前から僕が言い続けている「緑の党」的な国家像の構築ということにもなるのだが、とりあえず、わかりやすく言えば、戦後民主主義及び70年前後の「政治の季節」で叫ばれた「殺すな!」の論理と倫理をいかに日常化するか、ということになるのではないだろうか。
 そのような考え方から、現在進行しつつある「原発再稼働」の動きや、中国や北朝鮮を「仮想敵国」とするようなネオ・ナショナリズム(ネオ・ファシズム)の動き、橋下徹大阪市長(大阪維新の会)が推し進めている「教育改革」という名のファシズム的教育の推進(「競争原理」の導入と権力の教育への介入、これは実は石原慎太郎が東京都知事になってから「教育委員会」名で推し進められてきた東京都の教育政策とほとんど同じものである)、等々、世の中の「不穏」な動きに警戒心を持つ必要があるのではないか、と言い続けてきたのである。
 そして、先走ってこの国の状況について言っておけば、もう「競争原理」(これを資本主義体制との関係で言えば、金権主義(金儲け主義)ということになる)で何とかなるような状態にはなく、オルタナティブ(もう一つの生き方、例えば「スローライフ」)のことをみんなで真剣に考えなければいけないのではないか、と思う。昨日で「原発0(ゼロ)」になったが、僕らがこの「原発0」状況を如何にきちんと過ごすか、「フクシマ」を受けての最初の「試練」になるのではないか、と思う。「無駄な電気は使わない」、そのことから始めるしかないだろう、と思う。「原発0」になったって、「廃炉」までに何十年もかかるし、高濃度汚染核廃棄物(プルトニウム、など)に至っては、何十万という単位で「処理(埋設)」しなければならないことを考えれば、原発立地の自治体の首長たちが「原発マネーが予算の70パーセントだから、原発が再稼働しなければやっていけない」という、何とも「哀れな」悲鳴こそ原発がもたらした非人間的所業の極致の現れだ、と思う冷厳な態度こそ、いま僕らに求められているのではないだろうか。
 僕は、今後も「生命」より大事なものはない、という立場を堅持していきたいと思っている。予定されている『井伏鱒二と「戦争」』もそのような思想で書かれたものである。