黒古一夫BLOG

文学と徒然なる日常を綴ったBLOG

帰ってきました。

2012-05-26 05:36:09 | 仕事
 16日から23日までの、たった8日間という武漢(南京)への短い「旅」でしたが、無事帰ってきました。
 帰ってきたら、自分はこんなにも忙しい毎日を送っていたのかと思えるほどに、メールやら手紙やらが届いていて、それの処理に1日(実はまだすべてが終わったわけではない)、また武漢(南京)で依頼されたことの処理(コピーを取ったり、資料を探したり)に、また1日、何だか疲れてしまい、時間だけがだらだらと過ぎていった。
 というのも、帰国日の23日は朝の7時に大学の宿舎を出て9時20分発の飛行機に乗り、北京で乗り換え、成田に18:00に着き、そこから高速バスで自宅に10時に着くという強行軍だったからではないか、と思っている(それとも、歳なのかも知れない。若いときと違って、少し無理をすると疲れが溜まり、体が「仕事」をするな、とブレーキを掛ける、そんな歳になっているんだな、と実感させられた)。あるいは、武漢(南京)にいる間は、携帯の万歩計で測ったら、連日12000歩から15000歩を歩いていて、普段の2,3倍も歩いていて、また連日夜遅くまで講演(講義)やら会食やらで、体に疲労が溜まっていたのかも知れない。
 というわけで、今朝になりようやく「武漢便り」が書けるようになったのだが(本来は、武漢から少しずつ書いて送るつもりでPCを持参したのだが、PCに不具合ができ、「日記」風なものは書けたのだが、残念ながらこの欄では送信できなかったのである)、武漢(南京)での日々は、一言で言って、全てが「新しい経験」で、結果として今年の9月から(最長で3ヶ月間+α)武漢にある華中師範大学外国語学院(日本語科)で「楚天学者(特別招待教授、話を聞くと相当偉いということである)」として大学院生を対象に週3コマ(他に卒論ゼミ)ほど「日本近代文学」について教えることが正式に決まった。とりあえず3年間ということで、毎年9月から武漢で暮らすことになるのだが、この8日間に接した華中師範大学の学生たち(院生と学部3年生)の姿を見る限り、(本当の姿はまだ分かりませんが)教え甲斐があるのではないか、と思った。院生たちに2回講義(講演)をして、学部3年生に1回、他に修論の中間発表会にさんか下経験だけで言うならば、僕の話を乾いた砂に水が染み込むように聞いてくれ、いろいろな意味で「可能性」を感じられ、ここでもう一度頑張るのもいいかな、と思わされた。
 アメリカの州立大学(シアトルのワシントン大学など)よりも広い印象のキャンパスは、緑にあふれ、背院生や学生たちの話しでは「夏と冬しかない」そうで、それでも食事は朝食などで何度か利用した学生食堂(もちろん教職員が利用してもOK)のメニューを見る限り、日本人(僕)の舌にあっているようで、何よりも「安く」、1食に100円も出せば、結構満足のいく食事ができることもわかった。ただ、コーヒーをのむところが無く、学外にスターバックスが1軒あり、そこを利用するしかないのが玉に瑕かも知れない。
 南京には、武漢からの手配で南京工業大学の「陳」さんという日本語科の助教授が案内してくださり、南京大虐殺記念館をはじめ、いろいろ「南京攻略戦」の戦跡をを見て回った。これについては、また別の日に写真なども整理して紹介したいと思うが、現地に来て記念館で「資料」を見て、戦跡をいくつか巡ってみれば、「南京大虐殺はなかった」というのは「妄言・妄想」の類であり、現実に起こった人類史に稀な出来事だったと納得させられるのではないか、と思った。河村名古屋市長も石原慎太郎東京都知事も、その他諸々も、謙虚になって一度南京に来て見学してみればいいのである。百聞は一見にしかず、である。南京城内(南京旧市内)の広さ、城のすぐ近くを流れる揚子江の大きさを知れば、南京を陥落させたとは言え、そこを支配することの難しさ(それは、中国大陸で戦争を始めた軍部の無謀さに通じる)を痛感したはずである。つまり、南京城内の広さとそこに住んでいた市民の数を考えれば、敗残兵狩りと称して、老若男女を問わず南京市民を大量虐殺した「日本軍」の心理が想像できる、ということである。「戦争は狂気をもたらす」という言い方があるが、石川達三の『生きてゐる兵隊』やその他の戦争小説及び南京攻略戦に参加した将兵の『証言』や「手記』を読むと、なるほどその通りだと思う。
 南京での経験もいずれ写真付きで紹介するつもりだが、ともかく疲れたが充実した8日間の武漢(南京)への旅であった。