黒古一夫BLOG

文学と徒然なる日常を綴ったBLOG

違和感の理由は?

2007-12-02 06:17:42 | 近況
 昨日の午後、ふと思い立って知人の展覧会(書と写真)を見に行った。行ったら「オープニング・トークショウ」なるものが開かれる直前で、話し手が知り合いの場合、(相手が嫌がるということもあって)普段はあまりその種の話は聞かないのだが、会場に入ってしまった手前、最後まで聞いたのだが、話を聞いていて、気になったのは、書家も写真家も自分の「体験・経験」を相対化していないのではないか、自分の体験・経験を「絶対視」しているのではないか、ということであった。
 話の内容は、「故郷」についてであったのだが、「故郷は懐かしいもの」というこれまでにも言い古された言い方に固執して、「懐かしい故郷」という感情も多種多様であり、もし「故郷」について話をするならば、一人一人「故郷」についての色模様は違っている、ということを基本にして話を展開しないと、聴衆は結果として「凡庸」な故郷談義しか聞かされないということになってしまう(もっとも、聴衆の多くは「礼儀」からか、二人の話にうなずいていたが。凡庸な話し手に凡庸な聞き手ということか?)。
 特にひどかったのは、ネパールが「古き日本」に似ているという話になって、豪華な(実質的に3ヶ月も続く)結婚式に二人が招かれたときの感想で、「すごかった」としか言わず、そんな「豪華」な結婚式は、ごく一部の上流階級でしか可能でなく、多くの低カーストの人々は結婚式を挙げることさえままならない事情について全く想像力を働かせることがなかったことを、大変残念に思った。就中、彼らがネパールにいたときは、例の毛沢東派が武装蜂起し全土に戒厳令が布かれたときであったというが、何故彼らは、一部の特権階級しか可能でない「豪華」な結婚式が革命勢力=毛沢東派の伸長を促したと考えないのか、不思議で仕方がなかった。
 しかし、翻って我が身のことを考えると、果たして、ある一つのことを見るとき、その反対側のことを想像力をたくましくして考える、というようなを実践し切れてきたか、はなはだ心許ない気もする。いつもそのような流儀が全うできればいいな、とは思ってきたのだが、いざ自分が(授業も含めて)しゃべるということになったとき、本当に「テーマ」を相対化してしゃべっているか、自信がない。
 その意味では、今回経験した「トークショウ」は、いろいろ考えるきっかけになったいい展覧会であった。
 ただもう一点、彼ら書家と写真家の話を聞いていて気になったのは、「書」や「写真」という視線(感性)を通して直接僕らに訴えてくるものと「言葉」との関係である。言い換えれば、書や写真は直接「形」や「色」、あるいは対象そのものを僕らに伝えることができるという利点(特徴)はあるが、果たしてそのことについて「言葉」はどのような役割を果たすのか、つまり書や写真の説明に「言葉」は必要なのか、という疑問を抱いたということである。書や写真の説明は、書家や写真家がするものではなく、それは「批評家=評論家」の役目なのではないか。
 そんなことを考えた昨日の午後であった。

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3 コメント

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共感します。 (kuroneko)
2007-12-02 22:02:13
初めまして。興味深いご意見だと思い且つ
共感するものがありました。

1) 相対化できていない。
2) 主観で物を言っている。
3) 上記1) 2)について自覚が欠片も無い。

というのは何だか最近の日本で世代を問わず
蔓延してしまっている病のようにも思います。
若者だけではなくていい年したかなりの地位も
名誉も知名度も備わった方の発言でも不特定多数の
第三者に向けてのはずなのに身内かお友達に向けて
いるとしか思えない発言や文章を日常的に目や耳に
入ってきて呆れるとかよりも不安になりますね。
日本は本当に危ないのかも。。と。
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「書」について (川上)
2007-12-10 15:01:28
初めまして。
図書館情報専門学群の4年次生で、川上と申します。
黒子先生とは直接面識がないのですが、
僭越ながら発言させていただきます。

書道を嗜む私の親によると、「書」を書く時には、言葉を用いて自分の感情や生き様を表現するそうです。だから、書く時には自分の主観がとても重要になってきます。客観的に表現される「書」とは、いわゆる臨書と呼ばれる、他人の書をそのまま書き写す表現だと思います。展覧会の作品がどのような種類だったかはわかりませんが、黒子先生が感じた「相対化されていない」という違和感は、内容はどうあれ「書」を表現する側としては、主観を前面に出したごく自然な見方だったのではないか、と考えます。
また、「書」に「言葉」での説明が必要なのか、という話題は、おそらく書家の方が作品を自分で解説したからだと思いますが、黒古先生のおっしゃりたいことは、主観で表現された作品を更に主観を持って解説することに意味はないのではないか、という風に私は解釈しました。一般的な芸術作品の殆どが、作品だけで自分の言いたいことを表しているので、黒子先生には書家さん自身の説明が蛇足に感じられてしまったのだと思います。確かに作品だけで表現しきれないのは書家として未熟ですが、理解の手助けとして解説を入れることは、美術館で普通に行われていることではないでしょうか。
よろしければ、この記事だけでは書ききれなかった、黒古先生が考える「文字」と「言葉」の関係と、それが文学や書道などの芸術においてどのように比較されるかを教えていただければ幸いです。
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「書」を説明すること (黒古一夫)
2007-12-11 06:54:18
 僕の言葉足らずだったのか、川上さんには二つの誤解があるように思います。
 一つは、「書」であろうが、写真や絵画であろうが、全ての表現行為は表現しようとする者が己の感覚と思想(言葉)を総動員して行ったものの結果で、その「作品」の良し悪しは、いかに表現者が表現対象に関して深く考えたかによって決まると考えています。
ですから、「書」を始めとする全ての表現行為に「言葉」(思想)は必要だと思っています。
 にもかかわらず、僕が件の展覧会で違和感を持ったのは、鑑賞者が何も言わない前に(批評行為を行う前に)、表現者がとうとうと自分の「書」について説明を始めてしまったからです。鑑賞者が求めたのであれば、表現者は百万言を費やしても己の「表現」について説明すべきです。しかし、鑑賞者が何も言わない前から「説明」してしまうのは、「自由な鑑賞」を妨げる越権行為だと僕は思います。
 また、「書」やその他の芸術と言葉との関係についても、僕は「言葉」を使ってその芸術について「説明」や「鑑賞」について語るのは、まず批評家(読者)の仕事であって、表現者はその批評があって初めて己の言葉によって、その批評に関して反論・弁明・説明をすべきなのではないか、と考えています。
(もう少し詳しい話が必要ならば、研究室に来てくれればいいな、と思います。どうぞ、遠慮なく)
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