黒古一夫BLOG

文学と徒然なる日常を綴ったBLOG

2007年の終わりにあたって(4)

2007-12-28 10:54:10 | 仕事
 昨夜から今朝のニュースでトップの扱いになっていたのは、福田首相の訪中に関してであった。支持率の急落にびっくりした政府与党の連中が、ここで一発「起死回生」のホームランをと狙ったのが、「薬害肝炎患者の全員救済」であり、今回の訪中だったのだろうが、いかんせん、「政治」の言葉がいかにも軽くなっている昨今、果たして今回の訪中で内閣支持率が上昇するだろうか。そもそも「外交」というのは、「国家の利益」(必ずしもそれが「国民の利益」に結びつくとは限らない)を優先させた「取引」であるから、どれだけ虚像とかした「国威」を高揚するような外交が行われるか。北京大学での講演が予定され、中国全土にそれは放映されるということだが、果たして「靖国」問題というトゲがのどに刺さったままの日中関係が、どこまで改善されるか。北京折りピックを控えた中国側は、相当な思惑を持って今回の首脳会談に臨むであろうが、では我が福田首相は、果たして北京大学の学生に受け入れられるような「演説」ができるかどうか、結果が大いに楽しみである。
 というのも、福田首相には、小泉-安倍と続いた「言葉の軽さ」を武器に政治を行ってきた人たちの後を引き継いだ内閣であるという自覚が果たしてあるのか、と言う疑問が消えないからである。「薬害肝炎」問題の過程でも、あるいは未だ解決のめどが立たない年金問題にしても、例えば矢面に立っている舛添厚労省大臣のテレビタレントとして年中テレビに出演していたときの癖が抜けないのか、マスコミ受けする「大言壮語」は発しても、官僚に対しては一向に刃向かうこともしない(あの「消えた年金」の処理で、舛添大臣が「2年以内で処理する」と明言しているのに、社保庁長官が決して「2年以内に」とは発言しなかった官僚の抵抗=発言に対して、それを目の前に見ていながら、何も言えない舛添大臣、この構図=関係こそ政治の言葉の「軽さ」を物語っているものはない)姿勢、もう怒りを通り越して笑うしかなかった。
 この時VTRで久し振りに熱弁を揮う安倍前首相の姿がテレビに映ったが、彼の今となっては「虚言」になってしまった演説を聴いても、何ともしらけるだけであった。ただ、そうはいっても、小泉氏に続いて彼が行った「ネオ・ファシズム」(右翼)的な政治、例えば「国民投票法案」や「教育基本法の改正」、そして今マスコミで騒いでいる沖縄戦における「集団自決」に関わっての「日本軍の強制」問題、これらの将来の日本国民を苦しめるような政策も、政治の「軽い言葉」に目眩ましにあった結果であり、責任は重いと言わねばならない。将来に禍根を残した首相として、小泉、安倍の両氏は筆頭にあげられるのではないか。
 だから、政治の言葉が軽いからというわけでもないのだろうが、現代文学の世界でも、あれが果たして文学と呼べるのだろうか(21世紀の文学はそのようなものに席巻されるのだろうか)と思えるような「ケータイ小説」なるものが、はやっている。「言葉の重さ」=思考の重さであるとするならば、ここ数年の日本社会の傾向はまさに「軽薄」一色に覆われている、と言えるのではないか。哀しいな、と思う。来年は2冊の「作家論」を書かなければならないのだが、現在の傾向とは真逆な本にしたいな、と思う。ささやかな「抵抗」として。

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