黒古一夫BLOG

文学と徒然なる日常を綴ったBLOG

「8月6日・ヒロシマデー」に考える

2009-08-06 04:55:06 | 仕事
 64年前の今日(8月6日)、広島市の上空500メートルで「武器」として人類最初の原爆が炸裂したことは、(日本人ならばという注釈を付けて――というのも、世界中の誰もが知っていると僕ら日本人は思いがちだが、「ヒロシマ・ナガサキ」のことなんか知らないよ、という人々が多数存在することを僕らは忘れてはならないだろう)誰もが知っている。しかし、確か昨年も書いたことだが、1945年の8月6日・9日に2発の原爆が日本の都市上空で炸裂したことは知っていても、ではその時の犠牲者(死者)はどれほどの数で、また「被爆者=ヒバクシャ」と呼ばれる人々はどれほどの数生み出されたのか、ということになると、情けないことに(ということは、僕を含めて「反核」論者達の活動や長い間続いてきた日本の「平和教育」が十分ではなかった、ということを意味するのだが)、ほとんど知らない(覚えていない)というのが現状である。
 保守党の政治家や財界人、知識人達の間から、例えば北朝鮮の核問題などが起きると(古くは、中国が核保有を明らかにしたときなど)、核武装論が浮かび上がってくるのも、本当の意味で「原爆・核」のことを理解していないからだ、と僕は思っている。この欄の何回か前に僕がどのような形で「原爆・核」問題や「原爆文学」に関ってきたかを列記したが、そのような経験の中で、「ヒロシマ・ナガサキ」を経験した日本人の中から何故核武装論者が出るのか、ということについて考え続けてきたのだが、結論的に言えば、彼らは「ヒロシマ・ナガサキ」について本当に理解していないからではないか、ということになる(あるいは真逆な結論になるが、彼らは「ヒロシマ・ナガサキ」のことを十分に知っているが故に核武装論を敢えて唱えているのかも知れない)。
 ただし今年はアメリカ大統領のオバマが歴代のアメリカ大統領が決して口にしなかった「ヒロシマ・ナガサキ」に言及し、「核廃絶・核軍縮」を提唱したということもあって、マスコミ・ジャーナリズムの上では例年になく「ヒロシマ・ナガサキ」のことが話題になっており、その意味では大ぴらに核武装論を唱える輩も影を潜めたように見える。しかし、首相の防衛問題に関するある諮問機関が「集団自衛権を認める」(自衛隊の海外出動を更に推進する、という意味がそこには含まれる)というような答申を出し、小泉時代からあからさまになってきた保守党の「タカ派=ネオ・ナショナリズム」体質は変わらないことを国民に見せつけたが、この諮問機関を構成するメンバーが核武装論者でないという保証はどこにもない。また、オバマの核軍縮の提案を朝日新聞を初めとするマスコミ・ジャーナリズムは高く評価しているが、本当にそうか、と僕などは思っている。なぜか。それは、核廃絶(核軍縮)も大事だが、もし本気で核軍縮を考えているのであれば、「核兵器」の存在と密接な関係にある「戦争」について、とりわけ増派し続けているアフガニスタン戦争について何故オバマは「停戦」ないしは「休戦」の提案をしないのか、と思うからである。片一方で「人殺しや破壊=戦争」を容認・推進していながら、他方で「核廃絶・核軍縮」を唱える、これは明らかに矛盾である。その矛盾に気付いていないように見える(振りをしている)オバマの「核廃絶・核軍縮」演説、僕にはどうも眉唾にしか思えないのである。
 もちろん、通常兵器(普通の戦争)と核兵器(核戦争)とは違う、という論理も成り立つから、そのような論理に基づいてオバマが「核廃絶・核軍縮」を提案したのだということも考えられる。しかし、僕は「核」に関しては悲観論者なので言うのだが、オバマは本当に「核」や「ヒロシマ・ナガサキ」に関して十分に知った結果として核廃絶(核軍縮)について提案したのか、はなはだ疑問なのである。それは、パレスチナ(ガザ地区)を最新兵器で攻撃し多数の死傷者を出したイスラエル(この国は、核保有国でありながら、戦略上の問題として核保有を認めていない)の駐日大使が今日広島を訪れ「平和式典」に出席するという、ということに似ているからである。彼ら(オバマやイスラエルの駐日大使)が個人的に「ヒロシマ・ナガサキ」や「核」についてどう思っているのかは知らないが、もし本気で「ヒロシマ・ナガサキ」で起こった悲劇について、それが人類史上に起こった最大の悲劇であると思うのであれば、お為ごかしに「核軍縮・核廃絶」について唱えたり、「ヒロシマ・デー」に列席するより先に、自国で自国民に向かって「反核」「反戦」について語るべきではないのか、と僕は思うのである。
 先日のテレビで放送していたが、未だにアメリカ国民の多くは8月6日・9日の核兵器使用は「正しかった」と思っているという(これは、僕が9年前にアメリカ・ニューメキシコ州の「国立原子力博物館」<National Atomic Muzeum>で経験したことに重なる。小学生を連れた父親がヒロシマ原爆の写真の前で、この爆弾がいかに多数のアメリカ兵士の命を救ったか、戦争を早く終わらせるのにいかに役だったか、を説明していたが、その時、件のそのリトルボーイによってヒロシマでいかに多くの犠牲者(死者・ヒバクシャ)が生じたかは全く説明していなかった。館内の説明も核の「威力」については多くの言葉を要していたが、その爆弾による犠牲者については過小にしか触れられていなかった)。たぶん、核保有国のイスラエルも同断だろう。ならば、再度言いたい。まず自国民の前で「ヒロシマ・ナガサキ」の悲劇(悲惨)について語り、そして後「核軍縮・核廃絶」について唱えるのが筋ではないか、と。
「ノーモア ヒロシマ・ナガサキ」は、人類の喫緊の課題として存在するはずである。そのことを捨象した言説を認めるわけにはいかない。僕はそのように思っているのだが……。

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1 コメント

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広島 (原田)
2009-08-07 01:25:36
今朝テレビで市長の演説を聞いていたとき、
「obamajority」の言葉に違和感を覚えました。

オバマ大統領=アメリカは日本に原子爆弾を落とした張本人なのですよね。
原爆を落とされた国が、原爆を落とした国を支援する。
なんだか矛盾?しているように感じまた・・・
もちろん市長もいろいろ考えての発言だと思うのですが。

拙い文章でごめんなさい。
感じたことが、うまく伝わればいいのですが・・・。
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