すでに「古いニュース」になってしまったが、『エロ事師たち』(63年)やアニメや映画にもなった『火垂るの墓』(67年)、あるいは『四畳半襖の下張り』裁判――永井荷風作と伝えられる『四畳半襖の下張り』を編集長として雑誌「面白半分」に再掲載(72年)したとして告訴された「猥褻」をめぐる裁判――、さらには「おもちゃのチャチャチャ」や「黒の舟歌」等の作詞家、参議院選挙や「金権首相」の田中角栄を落選させるためにっきょうの新潟から衆議院選挙に立候補したことなどでも知られた野坂昭如が、今月9日85歳で亡くなった。
野坂の死を伝える「東京新聞」は、「反戦 反骨 自由 日本の将来憂う」と見出しを付け、野坂は亡くなる2日前の12月7日放送の「六輔七転八倒九十分」に寄せた「手紙」について、「ひとつの瀬戸際に あの時代に戻ってしまいそう」とのキャッチ・コピーを付け、その全文を紹介していた。なぜ「東京新聞」がその野坂の手紙に「ひとつの世知際~~~」のコピーを付けたのか、それは手紙の中に以下のような文面があったからに他ならない。
<明日は12月8日である。昭和16年のこの日、日本が真珠湾を攻撃した。8日の朝、米英と戦う宣戦布 告の詔勅が出された。戦争が始まった日である。ハワイを攻撃することで、当時、日本の行き詰まりを打破 せんとした結果、戦争に突っ走った。
当面の安穏な生活が保障されるならばと身を合わせているうちに、近頃、かなり物騒な世の中となってき た。戦後の日本は平和国家だというが、たった1日で平和国家に生まれ変わったのだから、おなじく、たっ た1日で、その平和とやらを守るという名目で、軍事国家、つまり、戦争をする事にだってなりかねない。 気付いた時、二者択一などと言ってられない。明日にでも、たったひっつの選択しか許されない世の中に なってしまうのではないか。
昭和16年の12月8日を知る人がごくわずかになった今、また、ヒョイとあの時代に戻ってしまうそう な気がしてならない。>(改行は黒古)
野坂のこの言葉は、「文学者の役割」は「炭坑のカナリア」と同じだという考えに基づくものである――アメリカの作家カート・ボネガット・Jrが、炭坑爆発を誘引するガスの発生を異臭に敏感なカナリアがいち早く知らせるという鉱山労働における習わしに倣って、文学者は社会の迫り来る「危機」や「惨事」をいち早く察知し、そのことを人々に告知しなければならない役割を担っているとしたこと――。誰もが同じであるが、殊に社会で今起こっていることの核心をその感性と想像力によって見抜き、そのことの社会的意味を自己の表現において明らかにしていく、それが文学者の役目だというのである。
僕らは、野坂の「慧眼」を他山の石としてはならないだろう。「仕事」との関係があるからとか、人間関係があるからとか、もう社会の第一線から退いたから、等々、波風立てずに「体制」に順応することの「理由」は見つけようと思えば、いくらでも見つけられる。
しかし、「殺すな!」(殺されたくない!」の思いを孫子の代まで続いて欲しいと思うなら、今こそ「戦争のできる国」へと驀進している安倍自公政権の「独裁政治」を止める手当を各自が考え出すべきである。
野坂と同じ発想で「炭坑のカナリア」とならんとしている文学者は、最近の著作から探せば『もう戦争がはじまっている』(11月 河出書房新社刊)の辺見庸、『優しいサヨクの復活』(同 PHP新書刊)の島田雅彦、それに「朝日新聞」の論壇時評を担当している高橋源一郎、等々、探せばたくさんの舞楽者がいる。
僕は、微力だが、今までのように、またこれからも彼らの戦列に加わっていこうと思っている。
野坂の死を伝える「東京新聞」は、「反戦 反骨 自由 日本の将来憂う」と見出しを付け、野坂は亡くなる2日前の12月7日放送の「六輔七転八倒九十分」に寄せた「手紙」について、「ひとつの瀬戸際に あの時代に戻ってしまいそう」とのキャッチ・コピーを付け、その全文を紹介していた。なぜ「東京新聞」がその野坂の手紙に「ひとつの世知際~~~」のコピーを付けたのか、それは手紙の中に以下のような文面があったからに他ならない。
<明日は12月8日である。昭和16年のこの日、日本が真珠湾を攻撃した。8日の朝、米英と戦う宣戦布 告の詔勅が出された。戦争が始まった日である。ハワイを攻撃することで、当時、日本の行き詰まりを打破 せんとした結果、戦争に突っ走った。
当面の安穏な生活が保障されるならばと身を合わせているうちに、近頃、かなり物騒な世の中となってき た。戦後の日本は平和国家だというが、たった1日で平和国家に生まれ変わったのだから、おなじく、たっ た1日で、その平和とやらを守るという名目で、軍事国家、つまり、戦争をする事にだってなりかねない。 気付いた時、二者択一などと言ってられない。明日にでも、たったひっつの選択しか許されない世の中に なってしまうのではないか。
昭和16年の12月8日を知る人がごくわずかになった今、また、ヒョイとあの時代に戻ってしまうそう な気がしてならない。>(改行は黒古)
野坂のこの言葉は、「文学者の役割」は「炭坑のカナリア」と同じだという考えに基づくものである――アメリカの作家カート・ボネガット・Jrが、炭坑爆発を誘引するガスの発生を異臭に敏感なカナリアがいち早く知らせるという鉱山労働における習わしに倣って、文学者は社会の迫り来る「危機」や「惨事」をいち早く察知し、そのことを人々に告知しなければならない役割を担っているとしたこと――。誰もが同じであるが、殊に社会で今起こっていることの核心をその感性と想像力によって見抜き、そのことの社会的意味を自己の表現において明らかにしていく、それが文学者の役目だというのである。
僕らは、野坂の「慧眼」を他山の石としてはならないだろう。「仕事」との関係があるからとか、人間関係があるからとか、もう社会の第一線から退いたから、等々、波風立てずに「体制」に順応することの「理由」は見つけようと思えば、いくらでも見つけられる。
しかし、「殺すな!」(殺されたくない!」の思いを孫子の代まで続いて欲しいと思うなら、今こそ「戦争のできる国」へと驀進している安倍自公政権の「独裁政治」を止める手当を各自が考え出すべきである。
野坂と同じ発想で「炭坑のカナリア」とならんとしている文学者は、最近の著作から探せば『もう戦争がはじまっている』(11月 河出書房新社刊)の辺見庸、『優しいサヨクの復活』(同 PHP新書刊)の島田雅彦、それに「朝日新聞」の論壇時評を担当している高橋源一郎、等々、探せばたくさんの舞楽者がいる。
僕は、微力だが、今までのように、またこれからも彼らの戦列に加わっていこうと思っている。