黒古一夫BLOG

文学と徒然なる日常を綴ったBLOG

「12月8日」・この日もまた忘れまい。

2015-12-08 09:51:56 | 仕事
 74年前のこの日「1941(昭和16)年12月8日」、日本は「無謀」な太平洋戦争に突入した。それ以前、1931(昭和6)年9月18日に本格的な「中国侵略」の開始となった満州事変を起こし、そしてその延長線上に1937(昭和12)年7月7日に「日中戦争」を開始した日本(軍)が、中国大陸での膠着状態を打破するために、併せて欧米帝国主義列強(アメリカ、イギリス主導)による「日本包囲網」=日本への原油をはじめ武器製造原料の禁輸を覆すために、勝てる見込みのない戦争へ突入したのが、この日である。
 そのアジア太平洋戦争の結果、私たちが得たものは、320万人にも及ぶ犠牲者(戦死者)と東京大空襲をはじめとする日本各地の空襲、沖縄戦、ヒロシマ・ナガサキの惨状が象徴するように、本土における「大量破壊」であった。その詳細については、これまでにも「戦後70年」の今年は、各種のマスコミ・ジャーナリズム(メディア)が大きく取り上げてきたので、ここでは別な2つの角度から、改めてアジア太平洋戦争について考えてみたいと思う
 一つは、1昨年上梓した『井伏鱒二と戦争』(彩流社刊)でも詳述したのだが、日中戦争においても、また太平洋戦争においても、「ペン部隊」作家として、また「徴用作家」として多くの文学者が戦争に動員されたことを、安倍自公政権によって「戦争する国」へと変貌させられた今日、僕らはもう一度真摯に考えなければならないのではないか。百田尚樹などという「戦争賛美」作家がもてはやされ、多くのジャーナリストが安倍首相や自民党の甘言に乗せられ、明らかに「戦争する国」を目指しているとしか思えない「安保法制=戦争法案」を容認している現状を鑑みると、余計そのように思われてならない。
 多くの文学者やジャーナリストは、自分だけは「戦争の現場=戦場」に行くことはないだろうと高をくくっているように見えるが、日中戦争時の「ペン部隊」や太平洋戦争中の「徴用作家(文人)」たちの動員実態を知れば、「老大家」は別にして、当時44歳ですでに「中年後期」に入っていた井伏鱒二がマレー半島からシンガポールまで「報道班員」として進撃する日本軍と共にあったことを考えても、総動員態勢の下で誰もが「戦争への加担」を余儀なくされていたということを忘れてはならない
 52歳で亡くなった僕の父親は、1度目は独身時代に中国東北部(満州)へ、そして2度目は米軍の本土上陸に備えた「自爆要員」(上陸した米軍戦車の通り道にたこつぼを掘ってそこに爆弾を抱いて潜み、戦車が上を通過したときに自爆する、一種の特攻作戦と言えるだろう)として茨城県鹿島灘へ下級兵士(上等兵)として動員され、復員後、理由は分からないが「でたらめな生活」を送るようになり、僕らはその地域で一番の「貧乏人の子供」として育つことになり、そんなこともあって僕は学生時代に身に付けた「殺すな!」の論理(反戦)と倫理(民主主義思想)を未だに守ろうとしているのだが、昨今の安倍自公政権の何が何でも米軍の下で「戦争する国」になりたいという動きについては、「戦前」の再来があるのではないか、と危惧している。
 二つめは、先のアジア太平洋戦争であれだけでの人的物的損害を受けたにもかかわらず、「戦後70年」を迎えた今日、「日本国憲法」の「改憲(改悪)」を党是としている自民党は、数を頼りに「安保法案=戦争法案」を強引に国会通過させたことに「いい気」になったのか、先の戦争への「反省」などどこ吹く風とばかりに、フジ・産経グループなどの右派ジャーナリズムが仕掛けた「嫌中・嫌韓」ブームに悪乗りして、「従軍慰安婦は存在しなかった」「南京大虐殺はなかった」などの「歴史修正主義」に基づくキャンペーンを、党を挙げて展開している。
 その有り様は、太平洋戦争の開始と共に「鬼畜米英」として、戦争への加担を強いた戦前と酷似している。僕は一介の文藝評論家(近現代文学研究者)として、「戦争文学」も批評・研究対象の一つとし、それ故多くの戦争文学作品を読んできた者だが、その経験(作品の中に何が書かれていたか)から言えば、多くの戦争文学の中に「無理矢理だまされて慰安所連れてこられた朝鮮人慰安婦」のことは書かれていた。「朝鮮P(ピー)屋」という呼び名で、中国戦線を描いた作品にも太平洋戦線が部隊となった作品にも繰り返し登場してきた。確かに、日本軍が朝鮮各地に出向いて若い朝鮮人女性を「連行」したという記録はないだろう(敗戦直後、多くの軍隊関係の書類が焼かれてしまったことは、戦争映画などでよく見るシーンである)。しかし、「女工募集」などの名目で警察や軍隊の庇護を受けて「業者」が朝鮮人女性を狩り出してきたことは、確かな「事実」である。
 「南京大虐殺」について、これまでにもななどもこの欄で触れているのでこれ以上繰り返さないが、石川達三の『生きてゐる兵隊』や火野葦兵の『麦と兵隊』、あるいは井伏鱒二の『花の街』を読めば、「敵国人」でる中国人を戦場において老若男女を問わず『殺害』したこと、これは明々白々である。中国大陸において日本軍による「三光作戦」(焼き・殺し・奪う)が存在していたこと、これも「事実」である
 そのような「事実」さえも認めようとしない自民党の「歴史修正主義」、安倍自公政権の「危険性」はここに極まったと言えるが、その安倍自公政権に一定の「支持」を与え続けている日本国民、「カネ」に目を眩ませることは止めて、覚醒して欲しいと切に思う
 僕らは、表層の「美辞麗句」に騙されることなく、「事実」を凝視し、決して他者を「殺すことなく」また自分も「殺されることのない」世の中を志向すべきだろう。strong>