黒古一夫BLOG

文学と徒然なる日常を綴ったBLOG

「虚しさ」との戦い(12)――『火花』(又吉直樹)、「新国立競技場」建設問題、など

2015-07-20 05:26:49 | 仕事
 お笑い芸人又吉直樹の芥川賞作品『火花』を再読した。雑誌掲載時に、あの独特の風貌を持った、名字からすると沖縄をルーツとする芸人(コンビ名を「ピース」としているのも、沖縄と関係しているのかな、と思いつつ)なのではないか、というようなことから読んでいたのだが、その時の感想は、「お笑い芸人が片手間に書いた小説ではないが、若い人たちが書く普通の教養小説だな」というものであった。
 そんな又吉の「初めての小説」が三島由紀夫賞で最終選考に残り、また今度芥川賞を受賞したというので、再読した。感想は、作品の冒頭部に「花火大会」のことが出てくるからなのか、僕がずっと作品のタイトルを『花火』と思っていたことの「誤り」に気付いた以外は、初読の時とほとんど変わらず、選考委員(山田詠美)が何故あのように褒めるほどの出来なのか、僕には分からなかった。
 確かに、若手お笑い芸人(だけでなく、何者かになろうとして頑張っている人)が、尊敬する先輩の「笑い」が世間から受け入れられないことに苛立ち、その先輩がついには表舞台から消え、そこそこ売れるようになった自分たちも――「スパークス」、作品のタイトルはここから出ているのだろう。しかし、「火花(スパーク)」を散らすように、芸を磨く(しのぎを削る)のは相方とではなく、コンビを組んでいない先輩との間である、というズレの感覚(僕の感じ方のズレ)は、最後まで消えなかった。これは、相方のこと・関係がほとんど出てこないところから来る感想で、「スパークス」というコンビ名は、もしかしたら主人公の内部に生じる「火花」のことなのかも知れない――、その売れている最中に解散し、主人公はアルバイト生活に戻る。そして、先輩は「笑い」を取るために、両胸にシリコンを入れ巨乳の持ち主となって現れ(「狂っている」かのように)、主人公の前で「最後の笑い」を試みるが、すべって終わる、という物語の展開。
 この『火花』のような小説は、ある意味、近代文学以来の伝統と言っていい「おのれとは何か」を探る小説の一種で、これまでに同じような作品を何度も読んだような感じがする。だから、『火花』を読んでいる間ずっと既視感に襲われるような気がして、この既視感の大本は何か、と考えながら読んだ。その意味では、村上春樹の『1Q84』が象徴する最近の現代小説が内在化させることで読者を書くとしようようとしている「エンターティンメント」性の追求が、この『火花』にも底流しているように僕には思え、これが現代小説が求める「文学の王道」なのか、と思わざるを得なかった。
 もちろん、作品の随所にちりばめられている「言葉遊び」的な主人公と先輩とのやりとりなど、新規性は十分にあると認められるのだが、どうも『火花』で語られる世界が、「現実離れ」した「真空地帯」における出来事のように思われ、この僕らが生きている社会はどこへ行ったのか、言い方を変えれば、主人公たち芸人が「売れる」ようになるまで強いられるアルバイト生活(派遣社員が全労働者の40%を超える現実」について作者の視線が届いていないことに、それが書く目的ではないと知りつつ、苛立たざるを得なかった。「お笑い」が本来的に持つべき「毒」(異議申し立て)がこの作品からは感じられなかったこと、それが最大の不満であった。
 そんな『火花』が100万部を超えて印刷されたという。「100万部」というのは、僕ら批評家から見たら、夢のような話だが、村上春樹の諸作品のように、出版社(文藝春秋)が仕掛けた販売戦略によってでしかこのような部数が望めない現在の出版不況(本が売れないという状況)のことを考えると、何とも複雑な気がする。この『火花』の話題が、一過性の「花火」に終わらないことを祈るばかりである。
 そして、つらつら思うのは、この『火花』の話題作りは、安倍「独裁的」首相の「新国立競技場建設を白紙に戻す」という、何とも彼がこれまでの「安保法制=戦争法案」に対して見せていた「強面」とは正反対の「情けない」態度と二重写しになるのではないか、ということである。何としても「対米従属」を強化する「安保法制=戦争法案」を成立させたいがための、「支持率アップ」のパフォーマンスとしてれらばれたものだったのかも知れないが、数日前に「計画変更の予定はない」と傲然と言い張った時の面影など一欠片もないような「悄然」とした立ち振る舞い、「敵」ながら、何だか寂しくなるようなものであった。そして思ったのは「ああこの人、本当は小心者で臆病なんだな、しかし、この小心者を陰で操っている黒幕は誰なんだ」ということであった。
 こんな「新国立競技場」の立て替え問題で安倍「独裁的」首相が殊勝な態度を取ったって、「安保法制=戦争法案」への国民の反意は衰えることはない、はずである
 安保法制=戦争法案」の廃案=安倍「極右」自公政権の退陣まで、意を強くして頑張ろう!

<補>
 上の記事を書いて、いつもよりはゆっくりの時間に朝食を摂り、新聞を開いたら、「朝日新聞」の「安保法制=戦争法案」の強行採決以後、及び「新国立競技場」建設を白紙に戻す発言の後になる先週末に行った世論調査で、予想通り、安倍内閣の「不支持率46パーセント・支持率37パーセント」の結果が出たとの記事の中に、支持率の回復を狙った結果の発言であることが明白な「新国立競技場建設、白紙に戻す」の影響はほとんど無く、安倍首相の狙いは空振りに終わった旨の文章があった。
 この記事の内容は、当たり前と言えば当たり前で、安倍首相の「新国立競技場」建設問題に対する発言の突然の転換は、よく考えてみれば、国民を馬鹿にしたもので、責められるべきは、そのような自分の利益(支持率回復)だけを考えた安倍種朱の「君子豹変」的パフォーマンスの「嘘っぽさ」を国民は見抜いていたということであり、そのことに気付かなかった安倍首相が「アホ」だったということに尽きる。
 新国立競技場の建設問題を白紙に戻しただけで、安倍内閣の支持率が上がると思うなんて、国民を馬鹿にするのもいい加減にしろ!ということである。