黒古一夫BLOG

文学と徒然なる日常を綴ったBLOG

新・武漢便り(13)――徒然に、気になったこと2題。

2013-04-13 10:36:20 | 仕事
 先に「多忙の日々」について報告したが、外国(中国・武漢)で生活するということの「味気なさ」は、その国の言葉が話せないということとも関係しているのだろうが、「暇つぶし」の時間がなかなかとれないということでもあり、結局、しなければならない授業の準備とか、学生からの相談(修論などに関して)に応じる以外の時間は、買い物(食料)かキャンパス内の散歩で時間をつぶすしかなく、余った時間は「読書」(しかし、長期間になると読む本がなくなってくる。アメリカに半年滞在したときには、図書館に日本文学関係の書籍が充実していたので、それを借りて読んでいたので、時間をつぶすのに困るということはなかった)か、現在「下書き」が終わった次作の点検(直し)をするしかない、という状態になる。
 勢い、ネットのニュースを漁り、その「表側」はもちろん「裏側」を自分なりに考える、ということになる。昨日は、まさにそのような「時間」が十分にあった日で、朝から預かった250枚(4000字詰め)あまりの修論を終日読みながら、合間に「気分転換」のつもりででニュースを見ていたのだが、「気分転換」どころか、胸騒ぐ事態になり、静めるのにちょっと時間がかかった。
 一つは、「TPP」に関して、「アメリカとの交渉が合意に達した」というものだったが、よく読んでみると、その「合意」の中身は、現在アメリカ向け自動車輸出に掛けられている「関税」は現状維持で、徐々に完全撤廃の方向に進むというものである――そもそも「TPP」というのは、原則的にはTPP参加国のすべてが「関税」を撤廃して、輸出入に関して「完全自由化」を目指すというものではなかったのか。農業関係者がTPPに反対していたのも、TPPに加盟すれば、米を始め現在高い関税を掛けている農産物が「安く」なり、国内生産力が衰えてしまう(食糧自給率が現在よりさらに低くなる)虞があるからではなかったか――。
 アメリカは、「関税」があっても日本車の攻勢に対して守勢に立たせられている自動車産業(アメリカ工業産業の要の一つ)が、TPPに加盟して関税が撤廃されれば、それこそ「倒産」や「廃業」にまで追い込まれるのではないかとの懸念から、日米交渉によって先のような「合意」を取り付けたということなのだろう。しかし、農業生産物の「関税」について、「米」やその他いくつかの生産物については関税を残すものの、ほとんどのものの関税は撤廃される「日本側」のことを考えると、医療分野や保険分野でも同じようなことが起こるのではないかという懸念が払拭できない現在、前にも書いたように、これでは日本がますます「アメリカの属国化」を進める、ということになるのではないか、と思ってしまう。
 このような事態に、これも再度言うが、安倍首相に日の丸の旗を振って「歓迎の意」を表明するネトウヨを中心とする「右派」の若者たちは、何故「沈黙」するのか。TPP参加に関する安倍政権の対応は、「日本を取り戻す」どころか、日本を「アメリカに売り渡す」行為ではないのか。僕は決してナショナリスト(国粋主義者)ではないが、日本国民を苦しめる安倍政権の対米関係の在り方は、「沖縄問題(普天間基地の移設問題)」を含めて、どうしても容認することができない。むかし「売国奴」という言葉があったが、安倍首相のやっていることは、祖父の岸信介が安保条約の改定に関してとった「対米従属」の姿勢とうり二つで、まさに「売国奴」のそれではないか、と思えてならない。
 二つ目、村上春樹の新作「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」フィーバー、に関してである。発売前に2度重版して初版50万部から出発して、発売当日に10万部の増刷を決定という、まさに出版社(書店)にとってはこの上もない「おいしい話」について、村上春樹に文学に付き合ってきて、最近の自著2冊(『「1Q84」批判と現代作家論』、『文学者の「核・フクシマ」論―吉本隆明・大江健三郎・村上春樹』)で、村上春樹の『1Q84』や最近の言動(「壁と卵」スピーチや「反核スピーチ」)を批判してきた者としては、正直言って「早く読みたい」という気持ちになっているが、しかし、断片的に伝えられる内容を見る限り、「色彩を持たない」といういかにも思わせぶりなタイトルの一部は、単に主人公「多崎つくる」が高校時代親しかった仲間が、それぞれ「赤松慶」「青柳悦夫」「白根柚木」「黒野恵里」というように名字に「赤、青、白、黒、」の色が入っていると言うだけで、「色彩を持たない」というのと、違うのではないか、とおもってしまうし。
 また、村上春樹は「壁と卵」で、自分は壁(強権)の側に立たず、卵(弱者)の側に立つ人間だと言い、例のいわゆる「反核スピーチ」では、東日本大震災について「非現実的な夢想家として」日本人(東北人)が復興を成し遂げることを信じているし、また「我々日本人は核に対して『ノー』を叫び続けるべきであった」と大見得を切ったのだから、新作には必ず、それらのことが「反映」していると思っているのだが、どうもそうではなく、『1Q84』と同じように、「ミステリー仕立て」で、鉄道マニアでJRに就職した主人公が、高校時代に受けた「心の傷」を癒すために、かつての友人たちを尋ね歩くというものらしい。
 これでは、30代半ばになったワタナベトオルが20才の頃を思い出す『ノルウェイの森』と構成的には全く同じで、どこに「新しさ」があるのだ、と思ってしまう。かつて村上春樹は「デタッチメント(社会的無関心)からコミットメント(社会と積極的に関わる)へ」転換を宣言したはずである。
 まさか村上春樹は、版元の販売戦略に乗り、もちろん悪いことではないが、何十万部、何百万部の「売り上げ」に満足しているわけではないだろうが、何とも「気色の悪い」話ではある。
 早く「ハルキスト」たちだけの評判ではなく、本格的な批評を読みたいものである(因みに、今月28日に帰国するが、帰国して最初の仕事が、村上春樹の新作『色彩を持たない――』の書評(『図書新聞』)である。いずれ「公開」するつもりでいる)。