黒古一夫BLOG

文学と徒然なる日常を綴ったBLOG

新・武漢便り(9)――「初刷り45万部」、驚くねー。

2013-04-04 11:03:22 | 仕事
 村上春樹の新作『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』(という、タイトルからはその内容が皆目わからない新作)の、「初刷り45万部」という方に接し、正直言って、半分とは言わないが幾分か同じ物書きとして「うらやましい」という気持ちや「妬み・嫉み」が存在することを認めながらも、それでもやはり「日本の文壇は<異常>だ」と思わざるを得なかった。
 村上春樹の新作を報じる報道も伝えていたが、かなり著名な作家(例えば大江健三郎)でさえ、エンターティンメント作品を抜かして、せいぜい数万部しか刷らない純文学の世界にあって「初刷り45万部」というのは、誰が考えても「異例・異常」である。
 何故このような「現象」が起こるのか。理由は正確には分からないが、この「異例・異常」な現象の裏に出版資本の「巧妙な仕掛け」があるのは、確かだろう。今度の新作の版元文藝春秋が、発売1ヶ月以上も前に、新刊予告を出し、またタイトルだけ提示してその内容について一切触れないという「販売戦略」、これは前作『1Q84』を売り出したときの新潮社のやり方そっくりで――新潮社の場合は、更に「えげつなく」、発売と同時にオマージュ批評を満載させた『『1Q84』を読む』などの本を別な出版社に発売させたり(いかにこの種の本が販売戦略の元で作られたかは、夫少なくない数の文章の文末に「談」と書き込まれていたことからも分かる。批評家や研究者は、読むだけの時間しか与えられず、書く時間がなかったのだろう)、自社の文芸誌『新潮』をはじめ他の文芸誌にも一斉に本体発売の翌月には批評を載せるという、手の込んだ手法を用いていた――(このような、作品内容と全く関係ない販売戦略を含めた『1Q84』批判については、すでに『「1Q84」批判と現代作家論』(アーツアンドクラフツ刊)で展開しておいた。
 この出版戦略と言うことに関しては、そのような仕掛けにまんまと乗ってしまう批評家や研究者が存在すること自体も「現代文学の危機』を物語っていると思うが、そこで思い出すのが、東大教授で魯迅の研究者である藤井省三が『1Q84』の発売が予告されたとき、タイトルの中に「Q]という文字があるところから、魯迅の『阿Q正伝』と関係(影響)があるのではないか、と予測して、大方の失笑を買ったのも、出版社の販売戦略がいかに「すさまじいか」を象徴するエピソードである。
 さて、村上春樹の新作についてであるが、村上がエルサレム賞の受賞スピーチ「壁と卵」で、自分は「壁=権力・強者」の側に立たない、「卵=弱者」の立場に立つ、とわざわざ「権力=イスラエル」にまで出かけて「大見得」を切り、また東日本大震災とフクシマが起こった年(2011年)の6月にはスペイン・カタルーニャで、彼の地の国際賞を受賞した際のスピーチ「非現実的な夢想家として」(いわゆる「反核スピーチ」)で、「我々日本人は核に対して『ノー』を叫び続けるべきであった」と、ヒロシマ・ナガサキ以来日本に反核運動がなかったかのようなことを言明したことを考えると、今度の新作は、少なくともそのようなスピーチを踏まえたもの(下敷きにしたもの・基底にしたもの)だろう、とデビューしてからの読者であり、村上春樹の軌跡を追ってきた者としては期待したい気持ちがある。
 しかし、その期待は、満足させられるだろうか。その結果は、新作をひもとかなければ分からないが、「期待」は裏切られるためにある、という鉄則の通りなら、いかんともし難い。
 また、これは余談になるが、鳴り物入りで中国で翻訳刊行された『1Q84』であるが、僕が今勤めている華中師範大学外国語学院(日語系)大学院生50名中、『1Q84』を読んでいたのは1名であった。また、かつて村上春樹の専属翻訳家であった林少華(中国海洋大学教授)がいる山東省(済南)で講演した際、『1Q84』を読んだ人に挙手してもらったら、約300名の内7,8名が読んでいた。中国で『1Q84』は何万部刷られたのか知らないが、翻訳権を9400万円で買った中国、武漢と済南の読んだ学生が10名足らずというのは、コピー文化が華やかな中国、そして貧しい故に図書館を利用する学生が多い中国のことを考えると、何とも不可思議な気持ちである。
 僕が教えている院生の「読んだけれど、何を言いたいのかさっぱり分からなかった」という言葉の意味するものは何か、早く新作を読みたいものである――僕の新刊『文学者の「核・フクシマ」論―吉本隆明。大江健三郎・村上春樹』における村上春樹批判が間違っていなかったと言えるためにも。