黒古一夫BLOG

文学と徒然なる日常を綴ったBLOG

新・武漢便り(19)――怒りを抑えきれない

2013-04-26 07:58:49 | 仕事
 近頃は余り腹を立てないのだが、昨日は腹の底から「怒り」を感じた。
 それというのも、昨夕のニュースを見ていて「日本、核不使用に賛同せず」という記事に接したからである。ニュースによると、現在スイスのジュネーブで開かれているNPT=核拡散防止条約検討会議の準備委員会が出した「核不使用」の共同声明に、スイスからの懇願にもかかわらず「賛同しなかった」というのである。
 周知のように、日本はヒロシマ・ナガサキの経験国である。アジア太平洋戦争の末期、1945年8月6日の広島で約20万人が、また9日の長崎で約10万人がアメリカの投下した原爆で尊い生命を失い、両市の在住者を中心に犠牲者を上回る「ヒバクシャ」を生み出した事実、このことは何人も否定できないことだと思うのだが、歴代の自民党政府がそうであったように、「日米安保」(核の傘の下に存在することを是認する思想)の存在、及び東アジア(中国・北朝鮮)の核存在を理由に、さらに言えば、自民党や日本維新の会、及び一部民主党の政治家に存在する「日本核武装化」容認論が存在するが故に、これから起こるかも知れない戦争において「核の使用」を認めるという立場の堅持、「ふざけるな、おまえたちは何を考えているのか」、と思う。
 もちろん、世界の70カ国以上が賛同した「核不使用」声明に日本が賛同しなかったそのような立場は、前回書いた現在の自民党(安倍晋三首相)の「右派体質」――戦争を肯定するような先の侵略戦争を「侵略」と認めないような思想、あるいは「戦死者を悼む行為が何故問題なのか」とA救戦犯(戦争責任の中心者たち)を祀る靖国神社へ参拝する思想――と同質なものだと思うが、先のアジア太平洋戦争の「加害責任」を求めない思想は、同時にヒロシマ・ナガサキが象徴する「被害」への為政者(その中の一人に安倍首相の祖父岸信介がいる)の責任も問わない、ということである。
 何でそれほどまでに「A救戦犯」を救抜したいのか、これは明らかに憲法第9条を改めて、「戦争のできる国」にしたいという願望に繋がる考えであり、あわよくば「核武装」して、遙か昔に夢見た「アジアの盟主」になりたいがための論理だと思うが、このような「生命」を粗末にする右派の思想を、村上春樹のように「やれやれ」といって、見過ごすわけにはいかない。
 こんな「核」是認論の持ち主たちが政権をに握り続けてきた故に、村上春樹に「我々日本人は核に対して『ノー』を叫び続けるべきだった」と言われてしまうのだろうが、先に紹介した拙著で書いたように「我々日本人は核に対して『ノー』を叫び続けて」きたが、それでも今回のような「核」存在をようにする勢力を凌駕するような反核思想をまだ十分に内なる思想ととして鍛え上げていない、という忸怩たる思いをしないでもない。
 だから、今回の「核不使用」声明に賛同しないと言う安倍政権に対しては、余計に腹立たしくもあり、また悲しくもある、という気がしてならない。そして、八つ当たりだということを承知していてもなお、村上春樹の施策に群がった何十万人という読者(ハルキストとかいう奇妙な連中)に、村上春樹の「色彩」に関する「遊び」(パズル)の解読に勢力を注ぐより、断固村上春樹に先頭に立ってもらって、国会前、あるいは首相官邸前に行って、「核不使用の声明に賛同せよ」と迫って欲しい、と思う。それこそ、村上春樹の「反核スピーチ」に読者が応える、いい機会だと思うが、所詮、そんなことは無い物ねだりか?!
 しかし、未だに25万人を超す「ヒバクシャ」やフクシマからの何十万という被害者は、今回の安倍政権の判断をどう思うのか。絶望的になったのではないか、と思うと、何とも口惜しい。