黒古一夫BLOG

文学と徒然なる日常を綴ったBLOG

新・武漢便り(3)――あれから2年、復興は?

2013-03-11 10:02:15 | 仕事
 昨日(10日)から今朝にかけて、こちらのテレビはどのチャンネル(基本的には国営だが、中央電視台<中央テレビ>も、総合から、教育、軍事、子ども向け、京劇専門、など多くのチャンネルがある。また、日本の地方局に相当する省専用のチャンネルもある)のニュース番組で、世界各地で繰り広げられた「反原発集会」や「デモ」の様子を伝え、また復興が進まない東日本大震災の被災地の様子を伝えている。
 時々、記者たちの報告に混じって、放射能の検査をしている医師や被災者の生の声(日本語)が聞こえるので、毎日中国人学生による日本語を聞いている僕としては、なにやら「懐かしい」気もして、ついつい膝を乗り出して画面に見入るのだが、日本語が聞こえてくるのはほんの10秒ほど、また画面の中国語を必死に読みとる日常に戻らざるを得ない。
 以上のようなことからも分かることなのだが、2年前に起こった東日本大震災及びフクシマは、日本人(僕もそれにふくまれる)が思っている以上に、世界が注目してきた大震災であり大規模被害をもたらした原発事故だった、ということである。死者・行方不明者及び関連死者を含めると優に20.000人を超える犠牲者を出したこともさることながら、こちらのテレビが伝えるのは、その「復興の遅さ」である。もちろん、これは日本のマスコミ・ジャーナリズムも大々的・持続的に伝えてきたが、その伝え方は「政治=政権」との絡みであったり、経済的側面からのものが多いように僕には思え、そのような日本のマスコミ・ジャーナリズムの報道とこちらのテレビ報道とでは、「外国」だからということもあるのか、結果的にはストレートに「生命=人間の尊厳」の問題として伝えているように見える。
 僕は、先にお知らせしたように、今頃書店の店頭に並んでいるだろうか(それとも、あと4,5日か)、この2年間一介の批評かとして「文学者」の「フクシマ」や「核」に対する発言に注目し、それを『文学者の「核・フクシマ」論――吉本隆明・大江健三郎・村上春樹』(彩流社 1900円+税)としてまとめた。430枚ほどの本文を貫いているのは、フクシマ(核)の問題を「生命=人間と文学」の関係で考えるというもので、その観点から「生命=人間」の問題、主要にはヒロシマ・ナガサキの死者であり、これから「被曝死」の問題と直面せざるを得ないフクシマからの避難者(被曝者)を蔑ろにしている吉本隆明と村上春樹の「フクシマ(核)論」を批判したのが、本書である。大江健三郎は、吉本や村上春樹の対極にある文学者として、「人間=生命」を中核とした反核・反原発論の文学者の代表として登場させた。
 そのような観点から、僕の「原爆文学論」「反原発論」の集大成的な意味もある本書がどれだけ読者のもとの届くか気がかりではあるのだが(応援、よろしく!)、それというのも、どこか「人の噂も75日」的な気質を持つ日本人故か、停止している活断層場の原発さえも「安全点検がすめば再稼働させる」(誰が、「安全」宣言するのか?! 結果的には、これまでと同じように政府の意向をくんだ「傀儡」的な原子力関係の官僚や学者が「安全宣言」するのだろう。)と繰り返し言明し、また原発の新増設も「認可する」と公言している安倍政権に60~70パーセントの支持を与える日本国民の在り方に、「非国民」との誹りを覚悟で言えば、根源的に「不信感」を持っているからである。もちろん、各種の世論調査で、「原発ゼロ」が望ましいとの答えが「70パーセント」あるということは知っていても、である。
 「バブル時代」の「豊かな生活」が忘れられない世代(40~60代)をターゲットに、「経済=金儲け」を優先させる政策に、コロリと騙されてしまう(僕にはそう見える)国民、それは東日本大震災の復興が遅々として進まず、フクシマからの避難民がいまだ十数万人故郷に帰れない現状があるにもかかわらず、5000億円以上もの巨額の金をオリンピックに注ぎ込むことを是とする東京都民の在り方と、全く相似である。そのお金を被災地の復興に回せば、どれほど被災地の「再生」が早まるか、こんなことは子どもでも分かる道理なのに、何故か、日本人は……。
 しかし、絶望ばかりしていても、仕方がない。少しでも「希望」を求めて、批評かとしての仕事をしていくしかない、と新著を刊行して、改めて思った次第である。
 新著、是非手にとって見てほしい。近くの本屋さんにない場合、僕のブログを見たと言えば、版元(03-3245-5931)は著者割引(2割引)にしてくれるとのことです。よろしくお願いします。