黒古一夫BLOG

文学と徒然なる日常を綴ったBLOG

「希望」(?)のキューバ

2009-03-20 05:11:33 | 文学
 今やマスコミ・ジャーナリズムは、何かというと「WBC」一色に染まっているようで、なるほど昔から言われているように、このWBC一色に染まった今日の状況は、スポーツが「政治」の一部であることを如実に証しつつあるように思われる。何故なら、どう考えても「庶民・民衆」のためではなく、ただ首相の座にしがみついているだけとしか思われない政治指導者の下で、私たちは「100年に一度の大不況」に対処しなければならない状況下にあるというのに、「WBC狂想曲」はそれらの現実を隠蔽しているのではないか、と思われるからである。
 というように書くと、またぞろ「スポーツ(野球)愛好家」からそのような考え方は「中立」(政治と無関係)を旨とするスポーツに対する冒涜であり、偏向した考えである、とお叱りを受けるかも知れないが、先の北京オリンピックや石原慎太郎東京都知事が音頭取りで騒いでいる「東京オリンピック」のこと、あるいは1964年に開かれた東京オリンピックのことを考えれば、スポーツが「政治」と密接な関係にあることは、誰もが承認するのではないか。現代(近代)スポーツは、素朴に競技を楽しんだり体を鍛えるためのものと、「政治」(あるいは、ナショナリズムと言い換えてもいい)を背景とした「勝ち・負け」にこだわるものとに二分されている、と考えるべきではないか。僕は、ボロ布を巻いたボールと薪を削ったバットで行われた三角ベースボールに始まって、柔道、ラグビー、バスケット・ボールに興じてきた経験を持ち、そうであるが故なのか、現在でも家人がいぶかるほどにテレビで柔道やラグビーの試合があると見入ってしまうが、昨今のお金がかかるスポーツの在り方を見ていると、余計そのように思えてならない。
 改めてそんなことを考えたのは、いつどこであったか忘れてしまったが、「優勝候補」と言われていた(もう敗退したが)キューバの選手を取り巻く状況は余りに厳しく、ボールやバットなどの道具やユニホームは日本の某メーカーからの寄付で賄い、年収にいたっては数万円で、日本選手の何百分の一にすぎない、という報道に接し、なるほどここにも「政治」が微妙に絡んでいる、と思ったからである。周知のように、キューバは今日本で再評価されているチェ・ゲバラ(故人)とカストロ元首相に率いられた革命勢力によって「革命」が成し遂げられ、喉に刺さった棘としてアメリカから敵対視され(経済封鎖をされ)、長い間同盟国であり援助されてきたソ連が崩壊した後も、「農業」を中心とした独自な社会主義社会を建設してきた国である。日本に比べたら、本当に「貧乏」な国である。
 しかし、これは主に今書いている「村上龍論」のために読んだ村上龍の著作から教わったことだが(村上龍の場合は、もっぱらラテン音楽<サラサ>の魅力を中心に語られている)、それにキューバに入れあげている友人の情報などを加味して考えると、キューバでは人々が「希望」を持って生きており、そのことが日本と異なる最大の特徴、ということになりそうである。「絶望」「喪失感」を基底にした村上春樹の文学が相変わらず大人気を博し、最近の芥川賞作品が象徴しているように「社会」が遠景となった文学が大手を揮っている現在、それはまさにこの日本社会に「希望」がないことを象徴していると言ってもいいと思うが、目先のことに戦々恐々とし、「自分さえよければ」という風潮が相変わらず続いている状況をそのままに、WBCの1戦1戦に一喜一憂しているこの社会、本当にどうかしているのではないか、と思わざるを得ない。
 それにしても、「最大のライバル」などと言いながら、アナウンサーも解説者も、はたまたニュース・キャスターたちも誰一人、キューバや韓国といったライバル国の現在を伝えないというのは、彼らに知識がないためなのか、それとも別な意図があってそうしないのか分からないが、大きな声で絶叫する割には、余りにも貧寒とした言語風景だな、と思うのは僕一人だけか?せめて、NHKの高校野球放送時における「故郷紹介」ぐらいしても罰は当たらないと思うのだが……。でも、所詮は大新聞読売(渡辺恒雄会長)の肝煎りで始まったWBCである、自ずと限界があるのかも知れない。