黒古一夫BLOG

文学と徒然なる日常を綴ったBLOG

「政治」不信?

2009-03-31 23:42:57 | 近況
 弁解から始めたくないのだが、PCにはもういい加減馴れたはずなのに、また失敗してしまった。昨日(30日)の朝早くに書いたこの欄の文章がどこかに消えてしまったのである。理由は全く不明。我がことながら情けなく、ちょっとへこんでしまった。
 書いた内容は、「反論」ではないのだが、このブログのコメント欄に表れる「匿名性」の陰に隠れながら(自分を安全地帯において)、高見から他者(黒古や他のコメンテーター)を批判して自己満足している人や、本音は「ジェラシー」に支えられた怨念めいたものでしかないのに(実情について何も知らない癖に)、他者がその地位や職業(例えば黒古が大学教師であるというようなこと)に就いていることがあたかも「罪」であるかのように言い募る人に対して、もういい加減にして、僕らのこの現在を苦しめている元凶に対して共に撃つようなことができないのか、ということが一つ。
 もう一つは、前のこの欄で民主党について書いたら、あたかも僕が民主党(小沢一郎党首)に期待しているかのように、(悪意を込めて)読み取った人がいたようなので、再度僕は民主党支持者ではないし、ましてや小沢一郎が自民党時代に著した「日本改造計画」(93年 講談社刊)を読んで以来、この保守政治家の「危険」な体質に日本を託すことはできないと思ってきたこと、現在僕が言いたいのは、どのような形であれ、解散・総選挙を断行して「民意」を問うこと、そのことをしなければこの淀んだ(停滞した)空気を一掃することはできないし、雇用不安をはじめとするこの社会の問題は何一つ解決の糸口を見つけることができないのではないか、ということである。そのようなことを書いたのだが、残念ながらその記事は見事に消えてしまった。
更にもう一つ、今僕らに必要なのは機会ある毎に自身の意見を表明することであり、それは例え「床屋談義」の域を出ないものであっても、自分たちの意見を表明しない限り、いつまで経ってもこの社会は「付和雷同」的にしか動かず、きちんとした「未来への展望」を切り開くことができないのではないか、ということを書いたのである。それは、その日(30日)に投開票されることになっていた千葉県知事選で、元タレントの森田健作が優位に選挙戦を進めてきたというニュースを考慮してのコメントであったのだが、結果として森田氏が大量得点で千葉県知事に選ばれた。民主党の小沢問題があったとは言え、東国原宮崎県知事、橋下大阪府知事にあやかろうとしたイメージ選挙(東国原らは、それなりに「政策」=マニフェストを提出して県政・府政「改革」を宣言していたが、森田氏の場合、当選直後の言葉からは全く具体的な政策を聞くことができなかった。)が奏功して、見事に当選したわけだが、「無所属」と称しながら、れきっとした「自民党議員」(東京のどこかの支部長)である森田氏、1兆数千億円の借金を抱えているという千葉県で、具体的な政策を示さないで何ができるというのか、僕には全く分からなかった。
 にもかかわらず、千葉県民は森田氏を選んだ。千葉県民の選択を批判するつもりはないが、森田氏を自分たちの知事として選択することで、この国の「苦境」(例えば、年金問題、等々)や混迷・混乱を切り抜けることができるというのか、インタビューを聞く限り森田氏は相変わらずの「補助金(交付税)頼りの政治」を行うようだが、果たしてうまくいくかどうか。千葉県民は森田氏に何を期待して1票を投じたのか。
 僕らは、こうも「風見鶏」でいいのか、と思わざるを得ない。