日本史学習拾遺

日本史よもやま話、授業の補足、学習方法

京都・方広寺と豊国神社、そして耳塚 その2

2016-09-22 11:36:33 | 安土・桃山時代
前回の続きです。

豊国神社と隣接して、というのか、同じ敷地内に、というのか、神社の奥の方に、方広寺があり、あの大坂の役の原因となった大きな鐘がありました。

低い位置に釣り下げられていて、かなり大きいです。もし、鐘が上から落ちてきて、この中に閉じ込められたら、私の自力では出てこれず、死ぬでしょう(笑)。


家康がいいがかりをつけたという「君臣豊楽」「国家安康」の文字の部分は、白い枠で囲んであり、文字も白く塗ってありました。スマホカメラで撮ったので、あまりはっきり写っておらずあしからず。それにしても、こんな小さい文字をよく見つけて、いいがかりをつけたものだと思います。

方広寺はまた、秀吉の刀狩とも関係があります。
刀狩令の第一条で、百姓は刀など武具のたぐいを持っていると一揆を企てたりして本来の耕作を怠ったりするから、これを取り上げると言っています。
そして、第二条では、

一、右取をかるべき刀、脇指、ついえにさせらるべき儀にあらず候の間、今度 大仏建立の釘、かすかひに仰せ付けらるべし。然れば、今生の儀は申すに及ばず、来世までも百姓たすかる儀に候事。
(小早川家文書)


とあり、「大仏建立」とは、この方広寺の大仏のことでした。取り上げた刀や脇差は、無駄にすることはなく、大仏を作るための釘やかすがいの材料に使うから、現世はもちろんのこと、来世までも百姓は救われるから安心しろ、と言っています。

そういうわけで、方広寺は、刀狩、耳塚、鐘銘事件と、秀吉関連の事跡を振り返るうえでも、重要な場所なのですが、あまり、一般的な観光スポットとしては有名ではありませんね。

秀吉はそのようにして、奈良の東大寺にならって1585年に大仏・大仏殿を作り始め、1595年には高さ18mの木製大仏が安置されたのですが、翌年の伏見大地震で大仏は倒壊してしまったとのことです。
その後、秀頼が1612年に大仏を再興したのですが、家康の、鐘銘へのいいがかりによって大坂の役が始まり、豊臣家は滅亡してしまいます。
この大仏殿は、2000年の調査により、奈良の東大寺よりも大きいものであったということが判明したそうです。

その大仏殿跡も、裏手の方にあったので、写真を撮ってきました。ちょっとした公園のような空間があり、説明板が設置されていました。

京都を歩く会、のような団体さんと遭遇したのですが、この大仏殿跡のあたりは皆さん素通りして足をとめる人はごく少数でした。耳塚は後にも書きますが、おそらく近くにも寄らなかったことでしょう。

方広寺の鐘や大仏について詳しくは、説明板の写真の解説や、以下のリンクを参考にしてください。

http://www.kyoto-wel.com/mailmag/ms0304/mm.htm

集中力が切れましたので、ここまでとします。耳塚については次回に。

追記 明日9月23日の歴史秘話ヒストリアで、この大仏の話をやるようですね。「京都 まぼろし大仏の旅」(NHK総合 毎週金曜 午後8時)さっき知りました。19:00