日本史学習拾遺

日本史よもやま話、授業の補足、学習方法

鎮魂祭を行う三つの神社・・・石上神宮訪問記 番外

2015-12-05 02:29:06 | 旅行
学校は秋のイベントが終わり、先週土日は福島県会津地方に卒論関係の調査のため旅に出ていたのですが、明日はやっとどこにも出かけない日にして、今夜は夜更かしも可能なくつろぎタイムを確保しました。石上神宮の記事が意外に長引いてしまいましたが今回で終わりにしたいと思います。

もう少し書きたかったのは、石上神宮の他に、同様に鎮魂祭を行っている二つの神社についてです。
私は出雲地方、ひいては島根県が好きで、同じ島根でも石見地方には行ったことがなく、世界遺産になった石見銀山もあるし、いつか行ってみたい地域なのですが、その石見国一宮が、鎮魂祭を行っている物部神社です。祭神は宇摩志麻遅命(ウマシマジノミコト)で、前回も書いたニギハヤヒ(饒速日命)はウマシマジのお父さんになります。

物部神社HPからそっくり引用で恐縮ですが、ニギハヤヒやウマシマジがどのような活躍をしたのかをおおよそこれで理解してください。

「御祭神(宇摩志麻遅命)の父神である饒速日命は十種神宝を奉じ、天磐舟に乗って大和国哮峯に天降り、御炊屋姫命を娶られ御祭神を生まれました。御祭神は父神の遺業を継いで国土開拓に尽くされました。

神武天皇御東遷のとき、忠誠を尽くされましたので天皇より神剣韴霊剣を賜りました。また、神武天皇御即位のとき、御祭神は五十串を樹て、韴霊剣・十種神宝を奉斎して天皇のために鎮魂宝寿を祈願されました。(鎮魂祭の起源)

その後、御祭神は天香具山命と共に物部の兵を卒いて尾張・美濃・越国を平定され、天香具山命は新潟県の弥彦神社に鎮座されました。御祭神はさらに播磨・丹波を経て石見国に入り、都留夫・忍原・於爾・曽保里の兇賊を平定し、厳瓮を据え、天神を奉斎され(一瓶社の起源)、安の国(安濃郡名の起源)とされました。

次いで、御祭神は鶴に乗り鶴降山に降りられ国見をして、八百山が大和の天香具山ににていることから、この八百山の麓に宮居を築かれました。(折居田の起源)」

そして、この中にも出てくる新潟県の弥彦神社が、もう一つの鎮魂祭を行っている神社です。

弥彦(彌彦)神社は、越後国一宮です。祭神は、物部神社の祭神・宇摩志麻遅命とともに物部の兵を率いて尾張・美濃・越国を平定したと上記にも書かれている、天香山命(アメノカゴヤマノミコト)です。

私の父親が新潟県の長岡市(旧与板町)の出身で、私が子供の頃、夏休みには毎年のように、父親の実家から近い、寺泊の海水浴場に泳ぎに行っていました。寺泊は、「海のアメ横」と呼ばれているらしいですね。子供の頃は知りませんでした。そんなに海産物が安く買えたのかなあ?

その寺泊の海で泳いでいると、海に向かって右手の方に、三角の山が大きく見えて、父親に、「あれが弥彦山だ」と教えてもらいました。
新潟は広大な平野がひろがっていて、米どころであります。父親の実家の周辺にも山はほとんど見えません。ですから、その中で弥彦山は、標高はそれほど高くないとしても、とてもよく目立ちました。

父親が弥彦山弥彦山と折々に口にするので、新潟の人にとっては、なじみ深い山なのだろうかと思っていました。一度だけ、海水浴の帰りに、弥彦山の山頂付近まで車を走らせ、車内から軽く、遊園地などの施設を眺めて帰って来たことがありました。弥彦山に神社があるなどとは当時全く知らず、その神社が越後の一宮であるということも、ごく最近知ったのです。

おととし、職場の同僚の先生が、新潟方面に旅行してきたおみやげとして、この弥彦のお菓子を買って来てくれました。私が日本史の教員だからということなのか、先生は、そのお菓子の菓子折に入っていた説明書きを私にくれました。その先生は、謎めいた雰囲気の先生で、実家は三重県の、伊勢神宮の神領のような所にあって、おうちの事情で、結局三重県に戻ってあちらで教員をすることになっておととし退職されました。やはりあちらでは伊勢神宮に対する信仰は生活に根ざしていて、毎月のおついたち参りのようなことは必ずやっているというお話でした。

その先生からいただいたお菓子の説明書きを引用させていただきます。

「昭和天皇・皇后両陛下(弥彦ご宿泊御料菓)」 

と書いてあります。昭和天皇さんが弥彦に宿泊されたことがあるんですねえ。改めて驚きです。
そして、そのお菓子は「玉兎」といい、その説明を、引用しようと思いましたが、画像をアップしますのでそれでお読みください。



また、弥彦観光協会Webサイトにもいろいろとこの玉兎にまつわる同様のお話が載っていますのでご覧ください。

http://www.e-yahiko.com/souvenir/usagi

画像の方に書いてあるように、兎が涙を流して神様の話を聞いていた、というくだりが、なんだか琴線にふれます。そして、同時に、出雲大社にあったオオクニヌシと兎の銅像を思い出します。兎がオオクニヌシの話を一生懸命に聞こうとしている像です。
シチュエーションは違いますが、神様と兎が話をしているという形は、因幡の白ウサギの話とこの玉兎の話は似ていると思いませんか?


こういう弥彦神社で、鎮魂祭が行われているのですね。

天津神国津神といった場合に、スサノオは天から降って来たから天津神?子供のオオクニヌシは国津神?ニギハヤヒは天から降って来たから天津神?しかし物部神社や出雲系の神様は地神ではないのか?などなど、私も勉強不足のせいもあるのですが、ややこんがらかっています。

混乱しつつも、ウマシマジやアメノカゴヤマといった神様が平定したという尾張、美濃、越国、播磨、丹波、石見、といった国名を見ると、出雲や海人族との関わりを感じるような気がします。製鉄との関わりをなんとなく感じます。今現在、その根拠を即刻示すことができないのですが、過去にいろいろ読んだものを総合すると、なんとなくそんな感じがするのです。

石上神宮から話が広がってしまいましたが、物部氏はどちらかといえば「負け組」であり、その物部氏にゆかりのある神社で鎮魂祭が行われているということ、新潟=越の国というと、オオクニヌシとヌナカワヒメの物語から連想されるように、出雲の勢力が越と結びついたのであり、その地域の弥彦山でも鎮魂祭が行われているということ。ただし、弥彦神社は物部の鎮魂法ではなく中臣の鎮魂法であると物部神社のHPに書いてありました(前回記事)。
私はその鎮魂祭が行われている日・時間にちょうど生まれたし、弥彦山は子供の頃から見慣れた山であることから、こうした鎮魂祭と縁があるような気が、します。

アメノカゴヤマノミコトはアマテラスの曾孫とのことで、国津神ではなく天津神なのかもしれませんが、それでいいのかな?とも思います。何しろ、日本海側は出雲をはじめ「敗者」の香り?が漂っている気がするからです。
どうしてこの三つの神社(と宮中)で鎮魂祭が行われるのかについては、もう少し自分でも追求してみたいと思います。

ある文献で、古代の人が、日本海を西の方から新潟方面に北上してくると、弥彦山が海上からよく見えた、ある種の目印のように見えただろうといった趣旨のことが書いてあるのを読んだことがあります。その印象は、実際に海水浴場で見ていたのでわかります。新潟平野の中ではかなり目立つ存在だと思います。海のそばになんでいきなりこんな高い山が突き出ているんだ?と感じます。

日本海側は、いろいろと謎めいた雰囲気を持っています。太平洋側に住む者にとっては、ちょっと遠いですけれども、探索・思索の旅に出てみたくなります。
私も、子供時代にはよく行きましたが、大人になってからじっくり訪れたことがないので、いつか、弥彦神社をはじめとして日本海側を旅してみたいと思っています。

先日の会津旅行では、空はどんよりとした雲に覆われていました。会津はどちらかというと日本海側の気候・文化に属していると感じます。日本海側では冬はなかなかスカッと晴れる日も少ないようで、憂うつな日々が続くのかもしれないですが、そんな気候に負けずに明るい気持ちで過ごせるといいですね。