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くまわん雑記

時々問い合わせがありますが、「くまわん」というのは、ある地方の方言です。意味はヒミツです。知る人ぞ知るということで。

ミヤネヤ、おもしろくなくなったなあ・・・

2011年02月23日 | Weblog
久しぶりにミヤネヤを見た。

いつもまにか、ありきたりのくだらなーい番組に成り下がっていた。宮根も以前のような面白さがなくなった。関西から東京に出てくると、とたんにおもしろくなくなる芸人って結構いるんだけどね。今じゃあマラソンでしか存在感示せない間かんぺいなんかその類でしょ? 大阪の新喜劇の舞台でやっていれば良かったものを、東京に出てきてすっかりおもしろくなくなった。「ひきずり女」くらいだったね。そもそもあの人の芸は、新喜劇の一部として笑えた芸。それだけを取り出して成り立つ芸ではない。しゃべりが別段うまいわけではないし、いやむしろ下手な芸人だな。チャーリー浜なんかの芸もそう。

全国放送になるとそうなっちゃうのかねえ・・・。というか、関西の曰く言い難い芸風って、関東の風土のなかでは、あまりにもぜい弱なのかねえ。いわば、ガラパゴス的笑いってことかね?

今時の御笑いみていると、ほんと芸がない。しゃべりが上手くない芸人が多すぎる。幼稚な言葉遊びや動きだけで笑いをとろうとする。コンビのネーミングもセンスないといか、まとまりに悪い名前が多い。ネーミングがかもしだす言葉というか音のリズム感みたいなのが、悪過ぎるといか、なさ過ぎる。

これも、吉本が東京に出てくるようになってからじゃあないかなあ。昔の独特の関東の芸人にはない笑いのセンスがないもんなあ・・、最近は。あえて、千原ジュニアとは言わんけど。

ミヤネヤも、東京の方で放送されていなかった頃は、芸能ネタなんか面白かったけどね。年末なんか、来年は誰が離婚しそうだとか、レポーターが結構きわどいことしゃべっていたんだけど・・・。レポーターの面子はかわっていないのに、今はありきたり。やっぱ、東京で流れる番組となると、地方で言えるようなきわどいことは言えないんだろうね。

大阪でやってる番組、他にもそういうのって他にもあったし、あるよね。東京じゃあ言えないようなことを東京で放送されていない大阪の番組では言えるみたいな。

コメンテーターもなんとかした方がいいんじゃない? 今時なんで小沢遼子? 80年代には山城しんごなんかの番組で言いたい放題言っていたけど、あのアバサン(オバアサンか?)、今時の人は誰だかも知らないでしょ? 完全に昔の人、「化石」の部類なのになあ・・。見城美枝子だっけ、あの平目顔の人も、なんで今?だな。まあ、テレ朝スパモニの落合恵子の時代錯誤的なコメントよりは若干ましだけどね。

売れない芸人や、「この人誰」的なオバサン、オジサンに公共の電波通してあれこれ箸にも棒にもかからないようなことを喋らせるって、一寸四視聴者バカにしてないか、ミヤネヤ含めて。
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韓国ドラマ「王の女」にハマってしまった・・・

2011年02月23日 | Weblog
韓流ドラマというやつ、現代劇は嫌いだが、歴史劇はなかなか捨てがたい。いや、ヨン様(なぜペ様ではないの?)中には荒唐無稽で歴史の「歪曲」も甚だしく、武闘シーンなんて香港あたりの荒唐無稽時代劇の元祖!みたいなのの影響をもろに受けているような子供じみたのもあるのだが、なかには大河ドラマなんか足元にも及ばないようないろんな意味で濃いー作品もいくつかある。

何を隠そう、時代考証等について「そんなバカな!」、「ありえねー」としばしば感じながらも「チャングム」に」すっかりはまった私だったが、「チャングム」なんて子供騙しというような作品として私が第一に挙げるのが、「女人天下」である。

これは韓国でかなりの視聴率を上げたとか。時代はほぼチャングムと同じ。中宗の時代。正確にいえば、「女人」の方は、中宗崩御後こそメインなのだが、宮廷をめぐるドロドロの権力闘争、政争は見ててあきない。そこに男女のしがらみ、後宮の人間模様が絡むと、わが国の「大奥」は実に子どもじみている。今訪英中の大河なぞ、お子ちゃま番組である。

こういう政治を絡めた人間模様を描かせると、わが国のドラマづくりというのは、とても韓国、中国には及ばない。彼の国のドラマ制作者、いやおそらく彼らを含めた人々が、政治の本質みたいなものを理屈ではなく本能的に知っているように思えてならないのだ。そして、その理由はやはり、わが国が歴史的に「ぬるま湯」につかってきたからではないのだろうか。我が国の歴史的「激動」など、おおよそ彼の国々のそれにくらべれば生易しいものである。一体我が国のいつの時代に政権交代、体制変化のたびに何百万、何千万の命が犠牲になったなどということがあっただろうか。一体我が国に他国の侵略、搾取、支配、従属を甘んじることを繰り返すなどということがあっただろうか。

風雪人を磨く、というが、歴史ドラマの重厚さは歴史のなせるわざということなのか。

「王の女」。

韓国では放映当時、視聴率はすっかりだったとか? 「チャングム」にやられたとか? しかし、内容的には、私は「王の女」の方に軍配を上げたい。いや、娯楽としては「チャングム」だと思う。しかし、内容的に荒唐無稽過ぎるという点では、率直な言い方をすれば「女子供」のためのものというのが、「女人天下」や「王の女」を知ってしまった後の率直な感想だ。

李氏朝鮮第15代国王光海君。「暴君」燕山君とともに、同王朝の廃王である。王としては決して暴君、暗君の類ではなく、むしろ彼が廃位された後の朝鮮の歩みをみれば、賢明な側面をもつ君主であったのかもしれない。

主人公は光海君の「女」となったケトン、金尚宮である。自分の愛した男を王位につけ、王となった男を守るために手段を選ばぬ女。そして最後は政争に敗れ、刑場の露と消える。死薬すら賜れず斬首の憂き目にあることになる。男勝りに政治的な権謀術数にたけた女ではあったが、大局的に見れば、謀略の繰り返しの挙句に多くの敵を作り、その敵たちにしてやられた。自分の愛した男のためにその父である先王の「女」になることすら甘んじた。ならば、その息子の「女」になることなぞ、朱子学の倫理観からして許されざること極まりないが、さすがにこの利口な女も愛した男に抱かれたいというヒトとしてメスとしていかんともし難いん感情を抑えることができず、ついにはそれも身を滅ぼす一因となる。また、父王の「女」を我がものにした光海君も「破倫」の君主の汚名を受けることになる。

何と言っても、人物の描き方がいい。ここは大奥や大河とは全く違う。例えば、昨年の「龍馬伝」の慶喜や容堂。あんな戯画的な人物描写はない。しかも、人の多面性が必ず描かれている。主人公も、それに敵対する側の人物も、すべて複眼的に描かれている。ケトンはある意味悲劇のヒロインである。愛のために生き、愛ゆえに我が身を滅ぼした賢くも愚かな女であったが、その政敵たちは単純に「敵役」ではないのだ。ケトンと争い、いったんは敗れ、一族を失い、我が子を凄惨な手段で殺された宣祖の王妃の光海に見せた凄まじいばかりの恨みと怒り。その同一人物がにおとされた母親の生存を確認し、涙にくれる姿。光海君を「破倫」の正当ならざる王として王位から引きずりおろしながらも、大妃の前で血を吐きながら36条を読まされる光海の姿に同情ともとれる表情を見せる反国王はの面々。

「女人天下」を見た時も、「日本人にはこういうドラマは作れないなあ・・」と思ったものだが、その感再び。いや、できなくはないんだろうけど、今訪英中の「蒼穹の昴」なんか見ていると、やはり無理かなと思えてしまう。

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