土俵上でガッツポーズの花が咲いている。これがアマチュア相撲の現状である。
国技館の土俵ですら、今やガッツポーズは当たり前。周囲もそれを咎め立てしない。
もちろん、「ガッツポーズの何が悪い?」、「素直な感情表現で良いではないか?」と言われてしまえばそれまで。は、その通りでございますというしかない。もうこうなったら、見解の相違、価値観の相違で溝の埋めようなどないのだが、あくまでもこれまで言われてきた土俵上での作法、礼節という点からいえば、ガッツポーズは眉をしかめる行為なのである。
それが当たり前のアマ相撲からプロに上がる力士たちもいるということは、アマの時の流儀や心持がそのまま持ち込まれているということではないのだろうか。プロになったら、変わる? 人間そう簡単に変われるものではない。「悪貨は良貨を駆逐する」ではないが、人間感情をある種抑制するプロの流儀が、人間感情に素直なアマの流儀に押し流されはしないか、いやもう既に・・?
人間感情に素直であってどこが悪い? これまた御説ごもっとも。そういう見解もあろうが、これまた見解の相違で、私はそう考えない。個々人が感情のままに生きたとしたら、この世の中、人間社会はどうなることやら? 私は必ずしも性善説を否定するわけでもなければ、性悪説を取るわけでもない。そもそも、性善説を説いた孟子ですら、無条件に人間は善たりえるなんてことは言ってはいない。潜在する善は開拓されねばならないのだ。そういう点から言えば、人間感情という必ずしも開拓されていない素ののままの本能みたいなものを無条件に肯定するわけにはいくまい。
これは、近年の「個性崇拝」に対する批判にも通じる。いまだに、教育現場では個性、個性というが、養老先生ではないが、削らなくては矯正しなくてはならない個性もあることを忘れてはなるまい。
もしかして、アマ相撲のガッツポーズ容認も、個性尊重の表れ? だとしたら、心得違いも甚だしい。