格差のない平和な社会をめざして   

社民党の理念は「平和・自由・民主主義・平等・共生・連帯」
「社民党の活動を知って下さい」を目的に作成してます。

2016年9月度全党員会議

2016年09月13日 | 党会議

 9月の全党員会議を6名の参加で行いました。1名から仕事で参加できないと連絡(メール)がありました。
「社会新報」の拡大を12月に行うための意見を出し合いました。

 

 2016年9月全党員会議資料   2016年9月13日(火) 

1、報告事項

      8月27日(土)、安保法制違憲訴訟支援北部集会  
     8月30日(火)、座間宮ガレイ 選挙勉強会    
          30日(火)、大里地区実行委員会第18回総会        

2、審議及び協議事項

     (1)、「社会新報」拡大について

     ※12月の拡大に向けての意見を出し合う

    (2)、第14回大里郡市人権フェステイバル

    日時:10月15日(土)午前10時~受付  会場:熊谷市江南総合文化会館 ビピア

    (3)、憲法講演会

    講演「自民党改憲草案の意味」  講師:小林 節(慶大名誉教授)  主催:鴻巣・憲法九条の会
    日時:10月29日(土)13時30分開場、14時開演  会場:クレアこうのす・小ホール
    前売り券:800円     

3、市議会報告

    一般質問:9月15日(木)午後3時ごろを予定   質問内容:「熊谷市の地域づくりを考える」     

5、10月の全党員会議

    10月12日(水)、18時30分~ 

 

 

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企業の広告も載っていた「社会新報・熊谷版」

2016年09月09日 | 社民党案内人の日記

 1973年(昭和48年)1月30日発行(第4号)の社会新報熊谷版です。
八木橋デパート・陽堂商会・南大門・光陽社・清の家会館・ダイコー商事不動産の企業広告があります。
この時の編集者は、岩瀬ふみ子さんです。

熊谷総支部の書記長は黒田辰二さん(熊谷地区労の議長?もやっていたか!)も、岩瀬さんも繊維労連の組合員でした。
小林・中村・岩瀬市議会議員が熊谷市議会12定例議会報告をしています。
リケン労組熊谷支部の出身で社会党公認で市会議員もいました。
リケン労組は同盟所属の労働組合ですから、社会党所属の組織内議員がいること自体異例です。
当時の社会党が幅が広かったのか、リケン労組の幅が広かったのか、
その頃の熊谷地区労自体が総評・同盟も関係なく一緒に活動していたのでしょう。
 畑やわら革新県知事が誕生して、6か月の成果を書いている「田並たねあき」氏の記事もあります。

 私が入党したのは1975年ですので、入党した頃の聞いた話をもとに書いています。

 

 

 

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陸軍熊谷飛行学校の練習場が「福島第一原発」の所にもあった。

2016年09月03日 | くまじろうの一言コラム

 先日の勉強会の資料に、「埼玉県の陸軍熊谷飛行学校で、海上の漁船を敵艦に見立てる突入訓練を繰り返した。」とあったので調べてみました。
陸軍熊谷飛行学校は、埼玉県大里郡三尻村(現在の熊谷市)に置かれていました。(現在は「航空自衛隊熊谷基地」となっています。)
各地に練習場があった中に、福島第一原発のある地区にも練習場があったブログを発見しました。

ブログ「僕の知らなかった原子力発電その36」から少し長いですが引用します。
福島第一原発が建つ長者原といわれる地区は、双葉町と大熊町にまたがる太平洋に面した高さ約30mの台地である。第2次世界大戦が始まる少し前、長者原は陸軍熊谷飛行隊の練習場として約300ヘクタール接収された。飛行場の練習機が、すぐ目の前の太平洋に向かって離発進する練習が繰り返された。だが、敗戦直前、米軍艦載機の襲撃を受けて飛行場は全滅した。
 終戦後は、昭和23年(1948年)頃まで、仙台の財務局の管理となった。その後、元の地権者の農民たちに払い下げられたが、元飛行場の約三分の一にあたる99万平方メートルの払い下げを受けたのは、国土計画興業の堤康次郎(西武グループ創始者)だった。

 大熊町夫沢二区行政区長の佐藤久雄はこう回想している。
<終戦を迎え、数年間は荒地だったが、衆議院議長などを歴任した堤康次郎さんが飛行場跡地を買収した。当時、地元住民は1反1000円で国から払い下げを受けた。堤さんは塩田事業を始めたが、大規模な事業だった。塩が貴重な時代で、双葉郡の沿岸部で暮らす住民は塩精製用の特殊な釜を使用し、自分たちで塩を作っていた。私が生まれた長者原地区でも、住民が共同で製塩作業に従事していたことを覚えているが、製塩作業所のご飯はうまかった。塩田事業も行き詰まり、現在の発電所付近はまた荒地になった>。

 『福島第一原子力発電所1号機運転開始30周年記念文集』に、東電職員の佐伯正治が、こんな話を明かしている。
 <用地買収は大熊町長の陣頭指揮で町議会、町当局、有力者を総動員された結果、大熊町内地権者の了解は短期間に終了した。一方、北側にあある国土興業(西武系)所有の旧塩田跡地は堤康次郎氏の反対で了解が得られなかったが、氏が亡くなられてしばらくして用地が解決した>

 この文章からは、耳よりな情報を得た堤康次郎のいわゆる‘ゴネ得‘がうかがわれる。
堤は、3万円で手に入れたこの土地を、結局、東京電力に3億円で売った。堤康次郎所有の土地の買収が終わったのは、昭和39年(1964年)11月27日だった。その3日後、東電は原子力発電所建設計画を発表した。実際に建設が始まったのは、昭和41年(1966年)度からだった。

 

 

 

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憲法講演会「自民党改憲草案の意味」

2016年09月02日 | 脱原発・反核・反差別・平和運動

第1部
”自民党改憲草案の意味” 小林 節(慶大名誉教授)

第2部・前進座公演
朗読劇”死んでもブレストを” ~東京大空襲の真実を次代に~

≪あらすじ≫
 舞台は1945年3月9日の夜の墨田電話局です。
ここで電話交換手として働いていた娘たち28名が、3月10日の早朝、
一つの黒い塊となって、電話局の焼け跡の一室に発見されました。
彼女たちは、平均17~18歳で、なかには15歳の娘さんもいました。
 「死んでもブレストをはずすな!」の命令のもと、「通信士」として教育されていた彼女たちは、
火災の迫る中にも、電話回線を守るために職場に残り、逃げ遅れ、
皆で電話局内に一室に追い込まれたのでした。
焼け跡に残されたガマぐちの金具で人数が確認されたのです。
 一夜にして10万人もの一般市民の命を奪った無差別爆撃の残虐性が、
娘たちのひたみきな生き様の中に描かれます。

日時:2016年10月29日(土)13時30分開場、14時開演
場所:クレアこうのす・小ホール(鴻巣市文化センター)
チケット:前売り800円(当日1000円)
主催:鴻巣・憲法九条の会

 

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Vol.1「市民と会う回数が票につながる」

2016年09月01日 | くまじろうの一言コラム

 市民(支持者)と会う回数が票につながる。
さぼったら、
さぼっただけのツケは必ず来る。
その時、偶然のタイミングにより票数が出ても。

タネを蒔いていないから、
永続的な数字はでない。
コンスタントに票数を出し続けていける議員は、
やはり市民(支持者)との接触回数が多い。

マメでなければ、
支持者との関係は薄くなる。
ほったらかして、支持が続くほど甘くない。
相手の思いや感情も永遠ではない。

よい関係を保ちたいなら、
常に気に掛ける姿勢を忘れない事が大切である。

 

 

 

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