米国フォード社のサンダーバード(通称:T-バード)という車種のリストア光景が、時々、目にする。1960年代の車が整備されて、50万円ぐらいから、人気によっては、100万、150万、200万の値がついて取引される。デザインは、当時のモデルのほうが、新しいものよりも洗練されていると感じさせられる。燃費の点から考えれば、実用的とは言い難い。おそらくリッター数キロのレベルだろうから、ガソリン代ばかり払わなくてはならないだろう。しかし、市場が動いているという事実はあり、それがなんだかんだ言っても、米国の底力を示している。建物などの不動産にしても、どうして古くても普遍的価値が認められ、継承されていく。日本は高温多湿、木造家屋が多いという状況であったとしても、新しいものが評価される文化にて、なんでもかんでも使い捨て、消費文化が非常に強いと感じさせられる。物にかぎらず、人物においても、若ければいい的なところも見受けられることも事実だ。最近では、年功が悪者扱いで、簡単に能力主義うんぬんが取り上げられるが、そのような年齢の頭打ちについても庶民レベルにはしわ寄せがきているだけで、法律をつくる当の政治家さんたちは、いくつになっても年功社会に映ると感じるのは、小生だけだろうか?ある小さな老舗の会社で、80歳の営業部長さんや、70歳の工場長さんが、ばりばり現役で仕事をしておられることを紹介されていたが、実際、体が動くなら、何も制限を設ける必要などないのにと思う。
自分の親父はすでに亡くなっている。約15年ぐらい前に亡くなっている。いろいろな事情からさらにそれから遡ること10数年前から断絶状態といってもいい状況だった。そう考えると、ほんの少しの間だけ、一緒にお酒を飲む期間があったとはいえ、当方が成人して後、共有できた時間的にも、内容的にも、回数的にも、まともに会話をしてきたとは思えない。他界してからも、それまでも接触のない状況だったがゆえに、そんなにもなつかしく思うこともなかった。ただ、最近になって、もっと違う関係性みたいなものを築くことはできなかたのかなとも思う。これも時計の針を戻せないと感じさせられる出来事、事象のひとつだ。」
古き良き時代もあったはず。内もかも新しいものがいいというわけでないだろう。