現代今昔物語―自分流儀。伝承。贈ることば、子供たちへ。不変のストーリー

我が息子と娘へ伝承したいメッセージをというのがきっかけで、時代が違っても考えかたは不滅といった内容を新世代達へ残したい。

国語・算数・理科・社会(歴史)・外国語

2007-11-20 | Weblog
大人になってからだけど何故、学校で勉強してきたのかが、自分なりにわかったので、お父さんの考えを書き残しておきます。
まずは社会(歴史)から。一言でいえば、過去の同じ過ちを繰り返さぬために学ぶ。しかし、やはり人間は愚かだから学んでも学んでも同じ過ちを繰り返す。それでも、いつか皆が気づき、愚かなことをやめるだろうから、繰り返し繰り返し勉強をしていかねばならない。
算数は、人間同士の取り決め、約束事。1メートルたす1メートルが別に2メートルでなくても構わない。要は、例えば外国の人に
1メートルの材木を送ってと依頼したときに、こちらが必要な長さのものが寸分たがわず送られてくるならば、どんな風に取り決めて
いても構わない。1メートルと言えば誰が計っても同じ尺度であることが1番重要なのです。だから算数の計算は覚えるしか仕方なし。3進法でも4進法でも構わないが、現在は10進法が1番便利ということになっているのだから、10進法に基づいた計算方法をしっかりと覚えていくしかない。
国語は、一言でいえば、いろいろな愛を表現したものだ。愛といっても家族愛、友人愛、恋愛、夫婦愛、兄弟愛、隣人愛、など
多種多様。それらを俳句、短歌、小説、絵本、など様々な形式にて表現したものといっても過言ではないと思っている。万葉集や古今和歌集、源氏物語、走れメロス、桃太郎など、ほとんどのメインテーマを愛でくくれると思う。
理科は、このように考えればつじつまが合うというしくみを教えてくれる。引力は別に目に見えると言う代物でないが、そのように理解することで、また法則を信じてこのように動くはずと仮定したことが実現すると証明されたことになる。
外国語は、ある人に何か伝えたいことがあるから始まる。それが“有難う”でも“大好き”でも何でもかまわない。赤ちゃんと言葉で構わない。難しく考えないこと。
なんでこんなことを伝えたいかというと、今、例えば学校の先生にどうして勉強するの?とたずねた時に明確に答えを出してくれるとは思えない。また、何に対しても何故?という疑問や好奇心は持っていて欲しい。学校に通っている時は、こんなこと、一体何の役に立つのか?と思うと思う。そんな時に俺のこの考えが正しいとか正しくないとかは関係なく、自分で納得できればいいのであって
お父さんはこのように考えることで自分自身に言い聞かせてきた。
算数とか化学の知識がなければ、今、着ている洋服だって着られないし、当たり前のように使っているお金だって、人間の今までの長い長い歴史があってひとつの取り決めとして貨幣の価値を認めているから、お店でただの紙切れであっても、それが造幣局で正式に発行されている紙切れであればこそ、物を買うことができる。大昔であれば物々交換からスタートし、金に換金できる時代を経て、今は金に換えてもらうことはできないけれど、貨幣そのものの価値を認め合っている。これも人間の知恵のひとつです。
我々の先人が積み上げてきた上に今の文化が成り立っているということを絶対に忘れないで欲しい。
話はそれてしまうが、もし若い人で悪いことをして罰をあたえるならば、ニューヨークのど真ん中に素っ裸で置いてくればいい。もしくは
アフリカのサファリの中にやはり素っ裸でおきざりにすればいい。言葉を覚えなければ意思が伝えられなし、お金を稼がねば食べ物も着るものも手に入らないし、もしくは100万円与えて同価格で市販されている自動車と同じ物を作らせてみて、出来ない場合はやはり同様の罰を与えればいい。別にお仕置きが目的ではなく、お金のありがたみや、何故この価格でこのような工業製品ができるのか?、何故寸分たがわず同じ物が作られるのかを実感してもらいたい。すなわち最終的には先人への尊敬や畏怖につながると思うから。
これは受け売りだけれど、技術は積み上げられていくけれど、恋愛感情などはその人一代限りだということ。平安時代に恋をしている人の気持ちと、今の若者が恋をしている気持ちとどちらが強いかは比べられないということ。お父さんのおじいさんも誰かを好きになったし、お父さんのお父さんも誰かを好きになったし、その時の好きという気持ちはお前が好きになった場合と変わらないし、こういう人を好きになりなさいといっても、伝承できるものでもないし。
おそらく縄文時代や弥生時代の恋愛も、今の恋愛も全く進歩というものがないという考えがあったとしたら、共感できる。
だからこそ、ロボットでなくて人間なんだよね。

銭湯

2007-11-15 | Weblog
スーパー銭湯は出来ているが、昔の本当の銭湯はなくなったね。家に風呂がなかったため、子供の頃はほとんど毎日通っていたよ。ふろ上がりのビンに入ったコーヒー牛乳やチョコレートミルク、透明のりんごジュース、たった1本飲むのもすごく楽しみだった。
銭湯までの行き帰りに夜空を見上げて、星やお月さんのことを、親父から教えてもらったことを思い出す。お月さんの周りが光って輪の中に入っていたら明日は雨だとか。1等星、2等星、星座。近所の人とのすれ違い、挨拶。たどりつくまでの、すべての家の表札、名前を自然に覚えてしまう。同学年もいれば、2‐3年の年違いもいる家の前をとおる。その当時は風呂のなかを潜っていたもんだ。まるでプール。顔見知りゆえ、持ってきた現金が不足していても、それじゃこの次ね、で済んでしまう。下駄箱の木のふだで、ひらがなとか覚えたような気もする。

エスカレーター

2007-11-13 | Weblog
いつから、特に東京でエスカレーターの右側を、急ぐ(?)人のために開けるようになったのかな?急ぐ人は階段を駆け上がればいいのにと思う。そのために、いわゆる2車線が1車線になったから、乗る前から渋滞ができる。こんな変なことってあるの?よく誰も文句いわないね?相変わらず、小さな子供は危ないから手をつないで真ん中に乗るようにシールが貼られているけれど、その通り、守ると後ろからブーブーきそうな雰囲気あるよ。昔から、空港のムービングウォークは、そのようになっていたけれど、ちょっとまちがっているんじゃないかいと言いたい。こういうのって東京から発信することが多いと思うよ。管理や行列になれてるから。