現代今昔物語―自分流儀。伝承。贈ることば、子供たちへ。不変のストーリー

我が息子と娘へ伝承したいメッセージをというのがきっかけで、時代が違っても考えかたは不滅といった内容を新世代達へ残したい。

散歩

2014-12-30 | Weblog

最近、ゆっくりでも歩くことを心がけているが、近くを通った親子、父と子供、お父さんが帰ったら宿題を一緒に、どうとかなんとか。子供もそれにうなずいている。振り返ると、自分は親父から宿題がどうとかこうとか言われた記憶がない。もっともお袋は、勉強勉強とうるさかったが。それでも最近の父親は、カバーしなければならない範囲が広くて大変だ。時の流れか?

風がのとんど吹いていない中、凧揚げをしている子供じゃなくて、年配者がひとり。風がないから、上げているというにははばかられるような状況だ。そういえば、昔はパチンコ、銀玉鉄砲、かんしゃく玉、B-弾など表で騒音になろうとおかまないなしに遊んでいたことを思い出した。今、同じことをやったら、通報されてしまうかもしれない。さびしい世の中になったものだ。

快晴なので、テニスコートからもはしゃぎ声が聞こえる。なんとなく、ああ、休みなんだという感じが実感めいてくる。いつも思うが、ここのコートを予約するには? というか、1か月先のことをウイークデーに予約に行かなければならない。そんなお世話してくれる人がいてくれたらなあと思う。

たまたま立ち寄ったスーパーで、1月1日や2日の営業時間をアナウンスしている。休みになると言っていない。開店時間のアナウンス。やっていることは当たり前。休みにしてもいいのになあと思ってしまう。このショッピングエリアでは、どこも1日から営業みたいだ。すごいというか、あきれる。昨日、イタリアの旅番組。土日、祝日は全員休み。それが普通じゃないの?と思ってしまう。正直、旅行者の立場だと、ショッピングできないので、不便だが、すべてが休みと言われると、もうじたばたしても仕方ない。不便と思うか、人間らしさと考えるかの違いだ。

まもなく2014年から2015年へ移っていくが、人臭さを回復できるように、そろそろ舵を少し違う方向へ向けてもらいたいものだ。


ゴルフ

2014-12-26 | Weblog

28歳の時だったと思う。埼玉県地元の乳業メーカー、M乳業の営業部長と工場長に初めてゴルフの本コースに連れ出してもらった。その時も、全く練習もせず、ぶっつけ本番といった具合で1番ホールのティグランドに立った。打てと言われたけれど、どこの方向へ向かって打っていいのやら、打ったらボールがどこに行ったかわかなくなるなどとつぶやきながら、そんな心配は無用だとすぐにわかった。それがデビューで、それまで嫌いだと思っていたゴルフにはまっていった。東京の時は、なんせゴルフに行くというのが1日仕事になってしまう。朝4時起きなど当たり前、帰りの高速道路は必ずと言って渋滞にはまる。もう帰ってきたらへとへとだ。大阪へ転勤の時は、兵庫県や滋賀県のゴルフ場へ行くのが大多かったように思う。Kスーパーの営業部長がやたらゴルフが上手で、さらにレートが通常の3倍で、いつもたくさんカモにされた。ゴルフ場までの行きかえりは、東京と違って、多少はスムースだった。それから東北の仙台へ移ることになるが、仙台地域もゴルフ場の宝庫で、宮城、福島、時には岩手の国際興業所有の贅沢な所へも出向いた。それから、福岡。福岡時代が数的にも一番多く出かけたと思う。福岡であれば、近くにゴルフ場があって、4時起きなどせずとも、余裕で行けるし、行きかえりも場所によっては高速など利用せずとも、1時間以内に着いてしまうところもたくさんあった。それだけ行っていても、全く腕前は上達しなかった。理由は全く練習しないからだ。自分の中では、ボーリングに行くのと同じ感覚だった。もちろんスコアが良ければ嬉しかったが、しゃかりきにおっさん連中が、それ以外にはそんな真剣にならないのに、1打にこだわっているのが、正直、自分にとっては、ええかげんにしろと思うぐらいだった。それと真剣に取り組んでいる方々には申し訳ないが、プロであれ、アマであれ、トーナメントの試合を見ていると、タバコを吸いながらラウンドしている。もちろん我々の娯楽レベルでは、当たり前の事だが、かりにも競技中だろうと思ってしまう。タイガ‐ウッズを始め、USPGAツアーで誠実に取り組まれているプロの皆さんには申し訳ないと思うが、ゴルフのトーナメントが、タバコOK,腹が出ていても十分に戦っていけることが続く限り、ゴルフって狭義ではスポーツに分類できないと小生は考えている。

テニスや卓球、バスケットボール、サッカー、ラグビー、バレーボール、体操、スカッシュなどなど他のスポーツでは競技中にそんなことなど出来る状況など、そもそもないし、たとえブレークタイムがあったにせよ、水分補給、栄養補給などはあっても、一般人と同じブレークをとるなどは問題外だろうと思う。

そのようなゴルフという特殊性があるため、どうしても自分による解釈の中では、通常のスポーツとは一線を画すものだし、どちらかというとスポーツ性を有するエンターテインメントといった部類に入るのかなぐらいに考えている。自分自身でも、これまでたくさんゴルフで楽しませてもらってきた。日本だけでなく、USA,イギリス、イタリア、サイパン、フィリピンなどでもプレーする機会もあった。決してゴルフが嫌いなわけでないが、二日酔いでも、そこそこ出来てしまうということは事実であって(ベストでなくても)、気の抜けない他の競技とは、やはり別物と言っても間違いはないと思っている。

冬のある日、東北の業界の集まりで、夕刻から飲み会の最中、雪が降っているにもかかわらず、その翌日にどうしてもゴルフがしたいという御仁が現れ、当時の自分の飲み屋の大将に頼んで、雪でもオープンする福島の浜通りというか、海岸線沿いのゴルフ場を急きょ、予約をとってあげたということもあった。フィリピンでは、プレーヤーひとりひとりにキャディがつくというか、チップがからむため、何人も世話人が付いてくることにもびっくりした。福岡時代は、ほとんどの果実農協のコンペが10月に集中するため、週に3回ということもあった。また、大牟田が地元のO乳業のコンペの時は、たまたま当時、T海上損保の大牟田支店に転勤していた大学時代の運動部の同期と、そのコンペで顔を合わせた時は、もうほんとにびっくりだった。広島での夜中の2時でも、まだ16番ホールをプレー中というナイトゴルフ(しかも雨が降り出した)も、二度とナイトゴルフなどやるまいと決意させてくれた思い出だ。USAで、一緒にプレーしている者が、人のボールでもへっちゃらで打ってしまうこともあった。That's a play. Don't be so nervous of it. てな具合だ。そんなに真剣になるな、するな、たかが遊びだろ? そうかと思えば、ケチな米国人の場合は、クラブをレンタルなどしてくれず、自分のクラブのワンセットだけで、プレーさせられたことも、Unbelievableなびっくりだった。おそらく、もっとゴルフにまつわる面白いことはあったと思うが、話し出したらエンドレスになってしまうだろう。


我慢とフラストレーション

2014-12-25 | Weblog

メジャーリーガーのイチローが小学生の野球少年に向かって、毎年何かメッセージを伝えている中で、今年は「我慢」ということが、人生において非常に大切とのメッセージを送ったとのこと。間接的ではあるが、TV画面を通じて、イチローが待遇、処遇で「我慢」していることが伝わってくる。周囲の人々にその様子が伝わる状況であれば、それに越したことはないと思ってしまう。通常は、その「我慢」の状況に理解者、支援者が見えないが故に、一般人にとっては、非常につらい状況となってくるのだ。生活が保証されているというような前提があるのとないのでは大違いだ。そうかと言って、少年たちに「我慢」ということが大切と伝えたメッセージが悪いということでなく、むしろその逆で、人生訓のひとつとして意義あることだと思っているが。

宗教的なバックグランドなど無関係で、何でも受け入れてしまうこのお国柄ゆえ、ハロウィーンもクリスマスも聖バレンタインもなんでもござれだが、オリジナルのお正月という味が薄れてしまっている。実際、ここのところ、どこもかしこも、24時間、365日稼働させる、稼働していることが当たり前のようになってしまっている。本当にこれでいいのだろうか? SNS、アプリなど、ITに関連することについても、知らないと時代遅れのような感もある。今から、約20年前、1995年以前には、それほど個人的なPCやケータイなど、そんなに普及していなかったが、今の通信技術があるからといって、さらには四六時中、目が覚めている世の中にあって、格段に便利になったと言えるのだろうか? 単に、以前より「なまけもの」ができるようになっただけで、あたりまえのことだが、休息するところは休息するとして、何もかにも、即対応を求めるような空気感を取り払う必要があるのではと思う。

地方から夢、希望をもって東京へ出てくる若者を追いかけるドキュメンタリーが時々、放映される。ごくごく一部の若者たちのことだけだから、全部の姿を映し出せているのかどうかはわからない。その中で、先日、沖縄から状況して、故郷との違いに愕然としている場面があった。その方曰く、「みんな余裕、ゆとりがなく、これぐらいでいいんじゃないのといった遊びの部分が見当たらない。細かなことばかりを指摘し合い、きゅうくつに感じる」と。小生は、そんな土壌を作ったのは、徳川幕府があまりにも中央集権にしすぎた結果だと勝手に分析しているが、人も多いから仕方ないが、冗談が通じないと思う場面も多いし、正直、お互いに管理、管理で気疲れする部分が相対的に多いと感じる。それとともに、あまりにも地方のことを知らなさすぎると感じさせられることも多々あり、日本だけでも「井の中の蛙」なのに、その中にあって東京地域でさらに「井の中の蛙」を掘り下げてしまっているという風に、地方出身者からは映る。


Suicaで思うこと

2014-12-24 | Weblog

約35年前、当時の自社工場ではオフセット印刷できないので、外注となり、埼玉県の蕨にあるT印刷の向上へ打ち合わせのため出向いた。そのとき、たまたま工場内で印刷されていたのが、週刊誌の1ページで女性ヌードで、目の前に次から次へとその1ページが枚葉の状態で印刷機から出てくる。その時、瞬間的に二つのことが頭をよぎった。ひとつは、この工場の人たちは、週刊誌を買わなくていいなあということと、もうひとつは、たとえ実際にとった写真が再現されているとはいえ、6色のインクが重ねのせられただけの印刷物であって、実感、実態はないものという意識が強くなり、何かさめるものを感じてしまった。

そういう風に言ってしまえば、元も子もないじゃないかと言われても仕方ないけれど、ただ単に薄い1枚の紙にインクが乗せられていく工程を経てきただけの、ペーパーにすぎないと思ったことは事実なのだ。

今回の、たとえ数量制限があるにせよ、しょせんカードの表面に印刷しただけのものに、どれほどの価値があるのかと自分では思ってしまう。何か、自分たちだけで煽っているところが多くあるように思うし、みんなが買いに行くので、自分も自分もの、この国の典型的なパターンと思われる。

それよりも、以前から思っていることが、このICカードのプリペイドカードのビジネスモデルだ。これが共感を得て、こんなにも普及している国はあるまい。カード自体のコストは、デポジットであっても買い取りであっても、500円から2000円の間で、それを使う側が喜んで負担させられるし、運賃分についても、乗る分だけでなく、将来乗る分についても、2000円、5000円、10000円と余分にチャージする。JRや鉄道会社にとって、こんなありがたいことはないのであって、乗車賃の先払いで、しかも現金で、キセルも未然防止にも一役買うし、発行した側からみれば、一石二鳥どころか、3鳥、4鳥だ。コストコも、会員料金を前払いで徴収することにより、コストコのキャッシュフローに大いに貢献して、仕入れ予算ねん出に多大に貢献している。

ICカードについては、それを使う側が、しかも「便利、便利」といって、喜んでs滝払いしてくれるのだから、供給する側にとって、願ったり叶ったりだ。このビジネスモデルは、銀行の貸出業務と同じで、借りた金利よりも高い金利で貸し出せばいいだけだから、しかも日銀からは銀理ゼロならば、誰が貸出を行っても儲かるはずで、ICカード発行も濡れ手に粟の状態で、笑いが止まらないであろう。しかも、発行してくれ、発行してくれと群がるのだから。


時の流れと、潮の変わり目。

2014-12-22 | Weblog

今年はカレンダーの日の並びのため、26日(金)でもって仕事納めとする会社も多くあるだろう。そうだとすれば今週を以って1年間が終了という形だ。今年の1年も早く過ぎ去ったと思うか、思わないかは、各人次第。自分はどうだっただろうか? 気ばかりが先行して(あせって)、残り少ない、残り少ないと思いながら過ごしてきたように思う。頭の中にいろいろな思いだけが詰まりに詰まって、行き場がないような状態だ。そんな中で、ATMでキャッシュカードを忘れてましたという連絡が銀行から伝えられてきた。雨が降りだしていた時に、バックさせて車の左後方を支柱にぶつけた。あああーっ。一度に複数のことを考えているために、集中していないのか? 注意力散漫の状態か? この程度で済んでいることを、なんかの暗示と捉えて、悪いことと考えず、逆に最悪の事態を回避できているという具合に前向きに考えたほうがいいのか?

相田みつをの、「ひとつずつ具体的に片づけていくことだね」 という言葉に、「そうだな」 と同意しつつ、よそ見せず、集中して、こなしていかねばならないな、ということを付け足す必要が自分にはあるようだ。


傲慢と無関心

2014-12-20 | Weblog

40代の男性が街頭インタビューで、まことしやかに、誰がやっても変わらないので選挙に行きませんでしたと。すごく不快だった。なんとなく浮かんだことだが、この男性は普通の大学を出て、普通のサラリーマンのように思え、部下も数名いるのではと直感したが、こういう上司だとおそらく、自分で判断するようなことはせず、規則遵守で、言いかえれば誰でも判断できることしか右左を決めず、何もしないので問題ないといえば問題ないが、極めてつまらない人間で、こういう輩が、なんとなく物知りなことを自慢気に話している風が浮かんできて、そんな事なかれ主義な者は、大学など行く必要もなかったしと直感で感じた。

これと同じ思いを抱かせるのが、理研の、N波氏だ。同じ中の人間が行ったことに対して、俺は門外漢ですよばかりのオーラを発している奴だ。

韓国財閥の2代目の傲慢さをここぞとばかり指摘しているが、日本のワンマン経営者も似たり寄ったりのところは多々あり、ちょっとした暴力が加わるかどうかの違いだけで、言葉の傲慢さは、どこでもあることだ。


DNA

2014-12-19 | Weblog

個人的な勝手な判断だが、信号待ちでTOYOTAのMarkX車の後ろにつくと、なんとなく、このリアのデザインをどこかで見たことあるなと思うが、それは、もう50年前の、トヨタのマークIIのリアのテールランプのデザインだと気づいた。そうであれば、今のデザインも、そこから派生してきたのではと想像してしまう。そもそもトヨタ車は全般にリアのテールランプが大きく配置される場合が多い。以前のクラウンマジェスタで、小さなテールランプがあったのみではないかと考える。まあ個人の好み、好き好きだろうけれど。それでも、各社にはなんか昔からのDNAと呼んでいいかどうかわからぬが、どうしても以前からの似通ったデザインコンセプトに落ち着いていくような趣はある気がする。

子育て給付金の来年度はカットとのこと。約1600億円らしいが、公務員の賞与などのアップは早々と決め、約3000億円。どこかおかしいのでは?アベノミクスで言っていることと、実際の乖離を、自ら生み出しているんじゃないの? 1世帯あたりにしたら、月額6000円ポッチの支援を打ち切る必要なんてないんじゃないの? 逆になんとかしてねん出してやろうじゃないのという心意気ってものはないのか? 選挙だけに何100億円もの税金つぎ込んでいるんだから、そうであれば、自分たちが使う分はねん出して、有権者が使う分はカットしてしまう。ちょっとは、評価されることをやってみろよ、と大声で届けたい。

アフガニスタンから連合軍が撤退。主体は米国だろうが。各地域の紛争に首を突っ込んで、結局は朝鮮でもベトナムでもイラクでも、最後は中途半端に撤退を余儀なくされ、疲弊し、さらにその後の混乱については現地任せで、略奪、暴行、殺人が横行することを放置せざるを得ない結果となる。それって、歴史で学んできたことであって、フランス革命での価値観だけでは、世界のすべての国を牛耳ることなど到底できないことを証明してきているだけだ。アフリカ、ヨーロッパ、中東、アジア、北米、南米、それぞれに異なる文明があり、アングロサクソンだけの押しつけ、押し売りでは通用しないのだ。


実は大義があった。

2014-12-18 | Weblog

先の衆議院選挙。大義なき選挙と言われたが、実はあった。財務省と自民党の消費税増税派を唯一、一気に黙らせるため、先送りを是とするための選挙だった。だから野党は、増税すべきと主張をしていたら、自民の中の増税派を含め、動きが変化したやもしれぬ。

それが、予期せぬ、自民の増税派が、勢いを止めて、先送りやむなしと選挙前になってしまったから、安倍首相の奇策に飲み込まれてしまった。(心の中で、してやったりとほくそえんでいるのだ。) 実は、増税派のほうが、勢力が強かったのだ。それが見事にひっくり返された。選挙を行わず、自民内部の議論へ持ち込まれたら、勝ち目がなかった。

3年B組金八先生、生徒へ先生が言ったことに、それが不条理とわかってもお前たちは反抗しないのかと詰め寄る。各選挙区の選挙民から選ばれているのだから、自民内部の序列に関係なく、もっと正論と考えているところがあるのなら、政治家であれば、それこそ主張すべきところは主張をして、長いものに巻かれろの生き方は即刻やめてもらいたいものだ。こんな時こそ、以前の I 都知事あたりが、事前に思惑を推し量り、それを暴露して、たとえ憎まれ者になっても主張すればよかったものを。その意図が何たるやということにも気付かなかったのならば、ご意見番、重鎮などと持ち上げる必要などどこにもない。

社会保障に充てる財源や、その他の国民にとって大切なコストをねん出するための知恵について、もっと活発に議論や提案が出されるべきだし、政治家や公務員の身を切る箇所を具体的に強くアピールすべきだったものを、一体、野党に位置する連中も、堂々と主張するべきことがたくさんあっただろうに。まさか自分たちの保身のための選挙という大義が優先させたのではあるまい。


ホワイトアウト

2014-12-17 | Weblog

もう10年ぐらい経つだろうか? 1月上旬、新潟からの関越道。夜7時ごろだっただろうか?新潟を出て、すでに夜だが、どんどん雪が強くなり、吹雪状態。外は真っ暗。時速約80kmで走っている。猛吹雪に近い。前方に1台、車が見える。360度スピンしている。フロントガラスに雪が付くと同時に凍る。こぶし大の雪の固まりとなって、ワイパーでは落ちて行かない。雪の降りかかる状態しか前が見えず、思わず窓を開けて、中央分離帯と、かろうじて確認できる分離帯の点々と続く小さなナトリウム灯だけが頼り。車を停止させたいが、高速ゆえ、いつ後ろから車が来るかわからないので、それもできない。いつのまにか前にも後ろにも車が全く見当たらない。

どこかのインターででも外に出て、急きょ宿泊先でも当たろうかとも思い浮かんだが、この雪の状態では、高速だからかろうじて走ることができているが、インターを降りて一般道へ出たら、たちまち雪に埋もれるだろうと判断した。1ヶ所だけパーキングエリアがあって、誘導路へ入ったが、もう駐車などできる状態になく、ここにいても埋もれるだろうと直感した。それで、そのまま徐行を続けて本線に戻った。後をついてくる車がない。不思議に思うと同時に、正直、自分の心によぎる、恐怖感、不安感との戦いだ。少しでも気を抜いたら、中央分離帯に激突となるし、疲労困憊だが、見えない中を、走り続けるしかない。フロントガラスに雪から氷の塊になっていくのが信じられない。他の走っている車がいたら、どう対処しているんだろう? 本当に何も見えない。ただ前方だけに目を向けているだけ。おそらく三国峠へひたすら突き進んでいるんだろうぐらいしか、頭に浮かばない。三国峠をやっとの思いで越えて、群馬側へ入り、いくぶんマシになったような気がしたが、まだまだ気を抜ける状況でない。館林あたりまで来たときに、ようやく普通の気持ちで運転できる状態になった。翌日の朝6時ごろに西東京のレストランの駐車場に車を停めたときでも、ナンバープレートなど、車のあちこちに雪が残っている状態で、なんとなく周りから不思議そうに眺められていたような気がしてならない。


ネット社会、そうなるかなあ?

2014-12-16 | Weblog

食品への異物混入、虫混入。以前は小生も食品包装に携わっていたため、包装材料に虫混入ということもあった。ラミネート加工した内側に入っているため、製造段階で入ったものであることに間違いない。そういった時に、そこに、その類の虫の生息はあり得ないと100%言い切れない限り、可能性の否定は困難だ。いずれにせよ、虫の種類や生息状態などについても、調査結果として言及して、謝罪となる。一般論ではあるが、日本の生産工場では、かなりの防虫対策が施されているはずだ。ドアを二重にしたり、外部との空気の流れを100%遮断した上に、虫の殺虫器も取り付けている。さらには、加工工程でのレーザー光線などによる異物検知器や排出装置などもあるはずだ。それでも、4重、5重の対策をくぐりぬけての混入となるのが現実で、かなりの低い確率ではあるが、絶対とは言い切れないところだ。

昔も同様のクレームの状況は発生していたのだが、今は、それがネットにアップロードされてしまうから、予想外の展開を見せ、厄介な事態を引き起こす模様だ。なんだか、こういった無差別に情報が流れだしてしまうことが、すべてがいいのか悪いのか、なんとなく釈然としないというのが正直なところの思いだ。

昔、取引先の営業課長が、牛乳がヨーグルト状などのクレーム時は、目の前で飲みほしてしまうと言われていたことを思い出す。顧客に害を与えないとの証明にもなるし、現物が消えてなくなるからだ。その方が、そのあとでトイレに駆け込むぐらいの程度は、なんともないとも言われていた。このような対応に、何かしら、人間臭さを感じて、正しい、正しくないを超越しているところに共感してしまう。


自分たちで奮いたたせることができるのに、

2014-12-15 | Weblog

今回の選挙戦、予想されていたとはいえ、おそまつな結果だ。政治家の業界も、企業の構図とよく似ているなと思ってしまった。大企業優先で、中小、零細が魅力がないと判断される。前のみんなの党の党首も、生活の党の党首も、それ以外の代表の方々でも、もしそのまま自民党に残っていて、同じことを発言していれば、与党の中でも気骨のある奴とみなされて人気も逆に出ようが、出る杭じゃないけれど、国民の大多数は、結局のところ、寄らば大樹の影ということになる。

やはりおかしいのが、ゾンビを生む比例代表制。こんなものなくていいと思うが。沖縄では、落選したすべての自民党が比例代表で返り咲き、ここも結局、基地移転問題を民意とは離れて、やりにくくなるだけだ。

もうイデオロギーの違いの時代ではないのだから、共産党も、党名を変えるべきだし、こんなにたくさん政党は要らない。少し右党、少し左党のふたつになったほうが、選びやすいし、政党にも緊張感が強くなるのでは。簿記の借方、貸方ではないけれど、こんなの意味もなく、右側、左側ということで十分なのだから、同じようになんでもいいから、A党、B党にでもしたほうが、はるかにわかりやすい。

それにしても、52%というy投票率は情けない限りだ。これでは、まだデモが起こる国のほうが、熱いものがたぎっているということだ。

国会議員のボーナスは、一律、86万円ずつアップしたとのこと。上がらなくてもたくさんあるのに、なんで上げるの?

政治家は家業になったという人もまでいる。最近は娘さんが地盤を引き継いで、不祥事を起こそうとも、またゾンビ復活だ。その地域では、そうであれば、兵庫県の地方議員さんも許容できる土壌と判断されても仕方ないだろう。そこでは、金と政治になつわることに、批評をすることは、灯台もと暮らしということで、いいんですねと問いかけたい。


道徳、価値観、多様性、一様性、学習、やる気、人間

2014-12-14 | Weblog

確か、昔は道徳という名の授業があったと記憶しているが、今はズバリ道徳という名の授業はできないみたいだ。それで、文部科学省がその復活を模索している模様だ。自分たちは、基本的には教科書の事柄をうのみにしてきたと思っている。でも、それはあくまでも一面からの考え方の表明にすぎず、いろいろと別の考え方もあるとわかってきた。それを多様性といい、人それぞれ違うんだとばかり、主張するが、それだけでは単なるエゴイズムと変わらないということだ。そうかといって、それを教科書という形にしてしまうと、2次元的な平面的な考えを押し付けることにもなる。ボランティア、一般には奉仕と訳されたりするが、実際は義勇軍、義勇兵というのが始まりらしい。それには正義というものがなくてはならない。さらには、正義ということには、道徳の繋がりがでてくることになる。そう考えると、ハーバード大学のサンデル教授の教え方というのは、上手くこの点を中心に据えて、授業を進めているという風に解釈できる。

多様性の反対語としては、一様性ということになり、俺はこう考えるばかりでは、どこかで落とし所を探していかねばならない。そもそも、勉強、学習というのは、独学でもマスターしていける領域のものであり、他人の価値観を無視してでも、進めることも可能なようだ。しかし、人間、不思議なもので、それだとどこかで限界を迎え、なんかやる気が起きなくなてしまうものらしい。そのやる気を引き出させてくれるのが、仲間、集団といった、人と人のつながり、まさに人間、人の間というところに身をおくことにより、やる気が蘇るとのことだ。単なる、目標を設定したから、数値で物事をとらえたから、そんなことでは、やる気など出てきやしないということだ。道徳というものがなければ、所詮、人間の進歩や成長は望めない。すなわち、道徳はデジタル信号でもなんでもなく、人情を生み出す、プラットフォームといような位置付けなんだろう。人情なきところに、喜びや達成感を味わうことなどできやしない。


学生街の喫茶店

2014-12-12 | Weblog

高倉健、菅原文太が相次いで亡くなったが、映画館で彼らの映画自体は見たことがない。唯一、八甲田山、死の彷徨はみたように思うが。それというのも原作者の新田次郎が好きで、この原作を含め、読んでいたので、本とどれほどの違いが出るのか確かめたかった。八甲田については、原作から自分でこしらえたイメージと、大きく違いがなかったというのが、珍しいことだなと思ったのが、正直な感想だ。

それよりもガロのメンバーの一人も、ガンで亡くなったとのこと。まさに、同時期を共有するため、ショックなことだ。なんとなくけだるさをも醸し出す、「学生街の喫茶店」のメロディ。阪急・六甲駅のすぐ北側にある、喫茶店 「ビオレッタ」 に、土曜の部活の帰りなどに立ち寄ったものだ。レスカ(レモンスカッシュ)に、冷コ(アイスコーヒー)を飲んで、仲間外れにならぬよう、セブンスターに手を伸ばした頃だ。自分にとっては、懐メロといったカテゴリーには入ってないが、このニュースを報道するキャスター、アナウンサーにとっては、歌詞もメロディも知りませんとなるので、その部分も併せてショックだ。

バンバンの 「いちご白書をもういちど」、シューベルツの 「あの素晴らしい愛をもう一度」、決して風化していない。「なごり雪」 も、原曲のかぐや姫バージョンがいい。ギター2本とベースだけのシンプルさが素朴な味を生む。「22才の別れ」も、かぐや姫から 「風」へ引き継がれるが、やはりオリジナルのほうがいい。S&Gの、スカボロフェアなんかも、ギター弾き語りをコピーしたりした。

学生運動には、同じ年代なのに共感せず、ひたすら部活一筋。狭い了見だったなあと思う。もっと広い視野で、せっかくのたくさんある時間を、いろんな同い年の者とも話せばよかった。ひとつの運動部の者だけとの付き合いに終始することになる。もちろん3年からの専門課程に上がってからは、卒論目的のゼミというところも加わるのだが、ゼミへ全力でという風にはもっていけなかったことも悔やまれる。おもに日本海エリアを含め、西日本が中心だが、もっともっと自由な特権を生かせばよかった。勝手に自分たちでストイックな規律を作り、ひたすら4年間を費やしたけれど、その当時は、それが絶対と信じて疑わなかった。

1時間前も、10分前も、1分前も、1秒まえも、戻ることはなく、前へ進むことがあるのみ。そう考えると、時間軸をも含めて考えれば、同じように思える、見える毎日も、全く同じ時間、同じ日なんて、そもそもないのだ。すべてが違う。変わっている、変化しているのが当たり前で、そのことに気づかないだけだ。

今日は漢字の日ということだ。道、辻、迷。先頭をきって突き進むから道なのか。左右、前後があるから、つじとなるのか。八方向や八十八に分かれるから迷うのか。

果たして、今年の漢字は、清水寺では、どうなるのか? 滞 ?、偽 ?、戻 ? 。


スローな生き方でいいんじゃないの。

2014-12-11 | Weblog

KAL(大韓航空)の副社長の行為には驚かさせられるが、もう少し機長が毅然とした態度を取れなかったのかに疑問が残る。いったん航空機のドアが閉まれば、機長が絶対的な権限を有することになるのだが。それにしても、韓国の国内の、街角でのインタビューで、男性が「権力を握る者は、丁寧に行動しなければいけない」とコメントしていたが、至極まっとうな考えだと思う。それにしても、自社の役員であれば、ファーストクラスへ導かれることにも少し驚きを覚えるが。乗客という立場の前に、まずはサービスの供給側の立場の人間だということなら、どういう対応が適切かわからないが、少し違うような空気が漂うのだが。

最近のインターネットを通じた情報が飛び交っていること、その分量や内容などに本当にびっくりさせられるが、耳年増としては十分だと思う。ただし、それだけの情報を手にしていることが、それらがなかった時代と比べて、何か幸福感、充実感などのアップにつながっているのかというと、正直なところ、余りある分量に比して、豊かさを実感し得ない。皮肉な言い方をすれば、なかったら、知らされなかったにしても困らない情報がどれだけ多くあるかということに通じると思う。最近は待ち合わせにおいても、場所など正確に教えていなくても、近くまで行った時に、連絡すればいいかとなる。便利と言えば便利だが、約束のようで約束でない。昔のように、手紙を受け取ったのか、それをどう思っているのか、来るのか、来ないのか、といったドキドキ感がなくなってきた分だけ損をしているようにも思える。「今、ここにいる」とか、「ここの様子はこだとか」 などと写真を送ってこられたりしたら、何か味気ないというか、妙味が生まれてこないというマイナスな部分を合わせもつことになってしまった。その昔、日本や日本人はエコノミックアニマルと呼ばれた時もあった。しかし、ベースにある考えは現代も変わっていなくて、その方面、経済性の事だけを先行させていて、どこかに文化や独自の道徳観を見失ってしまっているようにも思える。

 

 


リサイクル、出張買取の嘘八百

2014-12-10 | Weblog

生協などは古くからリサイクル、リユースと声高にアピールしていたが、さらには最近のゴミの分別など、そういった意識が高いのかなと思いきや、インターネットで、業者のあたかも、出向いて見積りから、買取り、引取りを行うと非常に肯定的な文言・表現が出まくっているが、事実は全く真逆でびっくり仰天だ。当然ながら、電話などして依頼をかけても、どんなものかとたずねられ、それに回答すると、対象外とかなんとかで、ようは体のいい断りだ。購入して全く使用していないので、新品同然だが、そんなことはあまり関係なく、再販売するにあたって売れるかどうかだけが判断基準で、それ以外はお断りという状況だ。あげくのはては、引き取るが、逆にお金を払って頂戴とくる。それならば、とっくの昔に粗大ゴミ出しをしていますと言いたい。今回は、最終的に、2ツの業者で、無料で引き取るだけならということになり、当方としては処分してしまいたいので、余計な追加の費用がかからないならということで、そうすることにした。

この国では、ほとんど全ての物が、いったん中古となれば、価値ががくんと下がり、廃棄の方向へとなるので、廃棄物量が増えるし、また新品の物を購入するという使い捨ての文化となる。とてもとても、mottainai という国とは思えない。逆に考えれば、技術の進歩がすごいので、なんでも新しい物が、安い価格で容易に手に入るので、あえて修理、再利用、再使用、など、手間のかかること、わずらわしいことなどやりたくないという姿が浮かんでくる。これであれば、USAのようにまだ米国の学校などへ寄付をして、寄付をしましたという証明書でもって税金還付が受けられるという仕組みのほうが、まだマシだと思ってくる。

それと業者の謳い文句と、実態があまりにもかけ離れていることに腹が立ってくる。

日本で、マツダ・キャロル、日野・コンテッサ、いすず・ベレットなどなど、パーツ類は手にすることなど果たしてできるのだろうか? フォード・サンダーバードなど、60年代、70年代の車のグレードアップパーツ(例えば、パワーウインドウに改造するキットなど)が、欧米では簡単に手に入る模様だが、古いものへ価値を見出すという意識・文化が希薄なような気がする。よく言われていることだが、不動産も建物もほとんど無価値へ急激に値下がりしていく。さらには、途中でこれだけ手をかけましたということへも、ほとんど価値を付加するポジティブさがない。

20年弱お世話になった会社だが、海外の本社から、訪問予定の日本人をA,B,C の、ランク付けを要求されるのが、常だった。それはどんな理由からかというと、どれだけ日本にとって重要な顧客なのかをしっかりと知ることにより、まちがいのない応対をするためだ。最初は、ランク付けに嫌悪感を抱いたものだが、ランクA と伝えていた日本からのゲストが帰国してから、「本当によくしていただいた」 という言葉をもらった時から、考え方も変わってきた。お・も・て・な・し・という言葉も決して、この国の専売特許ではあるまい。