現代今昔物語―自分流儀。伝承。贈ることば、子供たちへ。不変のストーリー

我が息子と娘へ伝承したいメッセージをというのがきっかけで、時代が違っても考えかたは不滅といった内容を新世代達へ残したい。

No bootable partition in table.

2014-04-30 | Weblog

停電後のパソコンの画面に出た表示だ。黒い画面に、1行だけの表示。どのキーを押しても、画面が変わらない。

どうしていいかわからず、コンセントから、電源プラグを何度も抜いたりした。直らない。全くわからない。

英和辞典で言葉を調べても、コンピューター用語ゆえ、まったく何を意味するのかもわからない。

ケータイのインターネットで調べた。差し込んでいた、スティックメモリーをそのままにしているからダメらしいとわかった。

日本語で簡単に表示してくれないと理解できないだろうと思う。さらに、partitionのところが、partionになっているから、スペルミスだ。よけいにわからない。

皆さんのご参考まで。

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4.27. 停電

2014-04-28 | Weblog

2011.3.11.は、自宅まで帰ることができなかった。ほとんど情報がなかったから、逆にそんなに深刻になっていなかった。自宅、家族への連絡も試みたが、だめだった。公衆電話にも並んだが、電話が不通だった。自分から何もできなかった、できる状況でもなかった。翌日、自宅へ帰ることができ、それぞれどう対応したかを聞いた。確か、その時に電気がこなくなると水道も使えなくなると聞いたような気がしていたが、それほど気にもとめなかった。地震の情報が入るにつれ、自然と懐中電灯、乾電池、水などを購入に出かけたが、あっという間に店頭から、それらの品物が無くなる事態となった。ガソリンスタンドも開いていない。その後、落ち着きを多少見せ始めてきたころから、非常時に備えないとだめとのことで、一時はミネラルウォーターも30本ぐらいは常時キープするようにはしていた。

昨夜、8時半ぐらいだが、突然明かりが消えた。たまたま風呂に浸かっていた。真っ暗だ。手さぐりで玄関のところのブレーカーまで行き、手さぐりしたが、ONになっている。「あれ?」

窓の外を見た。おかしい。明かりがない。停電だ。今後は、懐中電灯の置いてある所まで行き、ひとつ見つかったので点けた。ニブイ黄色の、弱弱しいあかり。次にケータイ電話のLEDがると思い、点けた。こちらのほうが、はるかに明るい。だけど、直線的にしか照らさない。もうひとつのランタン型電灯を出した。こちらも明るくない。一緒にあった、単一電池を2個入れ替えた。明るくなった。最初の懐中電灯は、単3の乾電池だ。探した。出てくるのは、単4ばかり。結局、単3が無くなっていた。おそらく、リモコンなどに、すべて投入されていたのだ。

それから、LEDの小さな電灯が3つ見つかったので、それらを点けた。

ケータイのgoogleから、情報を得ようとしたが、東京電力内、30万世帯停電という以外、さして役に立つ情報がなく、また別のページ自体が開かず。外を見ると、信号も消えている模様だ。

そこで、あえて何も今すぐ、やることがないことに気づき、風呂にでも入っていようと思い、風呂場へ戻ったが、そこでようやく、電気がないので、お湯は出ないことはわかっていたが、お水自体も出ないことが、身にしみてわかった。これでは、風呂場待機も無理とわかった。

ミネラルウォーターのストックも現在は、完全にゼロ。単3乾電池もなし。複数の懐中電灯も、ほとんど1ヶ所に保管していたので、これじゃ使い勝手が悪いことがわかった。電池の消耗具合も調べておく必要があることもわかった。交流電源のみのデスクトップ型パソコンは、このような時には情報源にならない。(乾電池の小型トランジスタラジオで、NHKに合わせたが、停電のニュースが一切流れず。)

わざわざノートパソコンやタブレットを備える必要はないと思うが、(ケータイでインターネットも少しはできるから)、もし電気がこない状態が長く続くことを想定した場合は、簡易発電機ぐらいはあったほうがいいかもしれない。しかし、そのためには燃料も購入しておかなかければならないが。すべての機械は、人力以外は、パワー、エネルギーを生み出す、源が必要なのだから。

電気がないイコール発展途上国と言える。今も電気のない国で夜を迎えると、全く何もできないことに気づかされるという。早い時期に、一度、その体験をしておくほうがいいかもしれない。第2次大戦の経験者は、このことを身にしみて体験している。電気との距離感、捉え方が違う。それらの方々からのアドバイスには、素直に耳を傾注させることが大事と思っている。

いろいろなことを一度に考えさせられる、いい機会を与えてくれたように思う。

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これアカンやろ

2014-04-26 | Weblog

STAP細胞の問題で、さんざん、ああやこうやと、まことしやかに堂々と胸をはって先頭を走っているように見えた、一人の調査委員会の委員長が、「これもねつ造ちゃうのか」と過去に遡られて、同じ言い訳しとる。言い訳せえへんかったらいいのに。「これはねつ造にあたらない、なんとかかんとか。」すぐさま、委員長辞任を申し入れしたとか。

それって、「敵前逃亡」罪やで。

「情けは人のためならず」の逆バージョンやな。

まさか 「もうSTOPしよう」 なんて言ってるのと、ちゃうやろな。

これアカンやろ。

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たまたま目にした情報

2014-04-25 | Weblog

本当かな?と思うほどの現実があるみたい。娘を芸能界入りさせたく、日焼けしないように窓側の席を外すように要求するモンスターペアレント。一流シェフを目指させるために、給食を拒否、代わりに豪華弁当を持参させるモンスターペアレント。授業風景をビデオに、その後、担任に黒板の字が汚い云々、ビデオを見ながら指導するモンスターペアレント。等々。最近は20歳過ぎの就職活動まで同行することもあるとのこと。全く理解できないわけではないとコメントするコメンテーターにも驚かされる。また、それらのコメンテーターも、いわゆるタレントと呼ばれる一員だが、こんなことにばか駆り出されているだけで、本当のタレント(才能)は何?と聞いてみたくなる方々が、一刀両断に切り捨てればよいことに、なんだかんだと擁護するというか、そういうところに自分の居場所を見つけたいのか、あまのじゃく極まりない。モンスターペアレント自体、十分問題ありだが、100人全員を満足させることなどしょせん出来ないことなのだから、いかに少数意見もであっても、無理難題かどうかのジャッジが下されてもいいだろう。

教育委員会系のことで、腑に落ちぬ事柄もある。学校に限らず、閉鎖的な集団、社会も存在しよう。そのこととごっちゃにすることでもない。小生の親世代は、今と比べれば決して、どこそこ(学校、教育機関)出身ということを伏せたいぐらいの教育状況もあり、学校の先生は、子供たちの先生だけでなく、自分自身の先生でもあったゆえ、一目置かれる存在だった。いろいろな先生がいた。全部が100点満点とはいかなかった。酒臭い先生もいた。棒でこづく先生もいた。いきな何人もビンタくらわす先生もいた。各専門教科が分かれていることもあり、担任じゃない先生もいた。ただ、各教科の内容を教える先生以前に、すべての先生が、共通して人生というか、人の道、道徳を説くことを何にもまして優先していたと思うところがある。すべてが満点だったと言わないが、学校はただ単に教科をおしえられる場所でなく、人と人が触れ合う人生最初の公の場所であり、生き方を学ぶということがまずあるべきなのではないだろうか?

子供に対して、親は最後は他人に迷惑をかけない、普通であってほしいと望む光景を幾度となく誰しも見てきているはずなのに。

 

 

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階段を踏み外してしまいました

2014-04-24 | Weblog

4月23日、階段の一番下の一段を踏み外す結果となり、いきなり前のめりとなり、自分では何が起きたか自覚できず、あわてて足を2,3歩踏み出すも、結局は変な格好で転倒のはめに。ヘルメットを被り、遠くで芝生の手入れをしている作業員のやり方に気をとられ、目線が下にいってなくて、最後の一段に気づかず、踏み外す結果に。左ひじ、右足、一番は右胸あたりから脇にかけて鈍い痛みあり。打ち身で終わってくれていればと思うが、あばらにヒビ入りだと、しばらく痛みが続くだろう。即、何が起こったかを瞬時に見極め、右腕から肩への線に沿って、前転、受け身と身をかわせば、首尾よしだったと思うが、現実は、そう格好よくいかない。10人前後の作業員がいて、特に転倒にも気づかないほど無関心のようであったが、いきなり建物の階段部分から、転がりながら外へ出ていった状態には、気づいた人には、一体、何をしているの?と、見ていた側も、起こったことを理解することは難しかったに違いない。

なんにせよ、情けない気分になっているに変わりはない。あばらについては、ちょうど10年前にも転倒⇒ゴルフに出かけ、ショットのたびに痛みが走り⇒その後、レントゲンで、ヒビ入りと診断されたことがあり、二の舞はごめんです。

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自分探し 6/100

2014-04-24 | Weblog

阿倍野プール、水中遊泳、水中ステーションの映像が存在した。これらのキーワードで検索かけてみてください。

プールで思い出したが、大阪では、クルマに乗っていて、「モータープールへ、いれなあかんな。」と普通に言っていたが、モータープールってたぶんわかってもらえへんやろな。

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自分探し 5/100

2014-04-23 | Weblog

祖父1人、祖母2人は、行き来があったために、それなりに鮮明に記憶しているが、ただし、晩年については、身近に居たにもかかわらず、なぜかしらどのように接触を保っていたが、情けないがあまりはっきりと覚えていない。母方の祖母については、中学か高校の頃に亡くなったと思っているが。

曾祖父、會祖母のことになると、もちろん会えていたわけでもなく、あまり話にも出ず、尋ねなかったこともあり、ほとんどというか、知っていることは皆無に近い。まずは明治生まれだったことになるし、さらに1代前は、江戸時代ということになるかもしれない。そう考えると、安土桃山や江戸時代そのものが、まったく歴史小説がかったことでなく、自分の数世代前が、その時代にかかるということだ。もっと話を聞いておけばよかったと思うのは、その時には全くその気がなく、今になって、ただ単純に思うだけだが。祖父母に対しては、それなりに仲良く接していたつもりであるが、それも自分自身が何か頼みごとがある時だけで、決して相手をおもんばかった中での関係キープではなかった。特に今でいうところのアルツハイマー発症後は、かなり辛辣にあたっていたと思うし、やはり今のような情報過多の時代でなく、痴ほう症、ボケといった感覚が強く、外へ出ては、徘徊するありさまの中、ご近所の方から、「おばあちゃんが電車道で横になっている」などと知らせが入ってから、あわてて飛びだしていくこともあった。(電車道とは、阪堺線のことで、大阪の恵美須町と堺市のあびこ道を結んでいたチンチン電車で、南海電鉄が経営していた。現在もなお、走っている。住吉大社のところで、阿倍野へ行く上町線と分かれるのだが。浜寺水連学校があり、浜寺市民プールへ行くときに利用した。浜寺にプールが出来る前は、大浜と呼ばれる海水浴場があったと思う。ほとんど覚えていないが。大阪市と堺市の間には、大和川が流れており、その大和川で泳いでいたこともある。阿倍野には、水深3mのプールも作られていたときもあり、潜っていくとお碗の形状の空気が入っているところが設けられており、プールの3m底でも呼吸ができ、休めて、水面を下から眺められる構造物(アクリルの風防)があった。今は、全国どこにもこのようなプールがあると聞いたことがない。

話がそれてしまったが、曾祖父・曾祖母の時代は、おそらくそれぞれ淡路島や四日市方面で暮らしていたのであろうと想像するのみである。祖父母の時代になって、大阪とのつながりが出来ていくとっかりがあったのだろう。

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自転車

2014-04-23 | Weblog

もちろん時々であるが、自分自身でも自転車にも乗る。車、自動2輪の免許ももっている。そのため、以前は講習などで、道路交通法規的な内容にも好き嫌いに関わらず、知識として教えられていた。25年前だが、ほんの少し、自転車で2人乗りしていたら、東京の荻窪駅近くだが、突然、後ろの方から制服警官がわざわざ耳元で大きな声で、2人乗りするなと怒鳴られた。よほど、その警官の癪にさわったのだろう。こちらとしては、あまりにも唐突なことゆえ、何が起きたのか理解するに、しばしの時間を要した。今、そんなことをされようものならと思うが、今でもそうだが、制服をまとっているだけで、居丈高になる御仁が多いのだと思う。しかし、自転車の2人乗り、場合によっては3人乗りの区分けがよくわからない。もちろん幼児に限り、またそれなりの装備装着のことはわかるが、なんか曖昧なところがある。また、クルマの左側通行に逆行してくる者にはたまったものでない。バイクでトラックの左を行こうとしたら、真正面から自転車が現れた。書いたように、自分も自転車にも乗るため、時には車両、時には歩行者、道路、歩道を使い分けしていくことは、走っていたら、自然にそうなってしまうだろうが、自分でも逆走はしない。

最近の電動からさらにパワーアップしたものは、免許が要るとか、公道を走る云々、お決まりの堅苦しいことになっているが、事故が起こると、遊具などにせよ、すぐに安全でないとか、危険とか、大の大人が寄ってたかって、まことしやかに大議論するが、自己責任とおおらかさを発揮してもらいたいものだ。

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付和雷同

2014-04-22 | Weblog

毎日、韓国での海難事故が取り上げられている。恐らく大多数の人が考えていることは、発生した事故そのもののことより、船が傾いていく中で、なぜ人命救助が優先されていなかったことに疑問をもつことだろう。約2時間の沈没までの間、横倒しの建造物の上へ這い上がることに困難はあったろうが、みんなが協力しあって、一人でも多く引っ張り上げる模様が感じ取れないことに憤りを感じているのだろう。人間は水中では呼吸できないことは自明の理であり、映画のポセイドンアドベンチャーではないが、ひとつはっきりしていることは、海難事故の場面では自ら水上、海上を目指さなければならないことだろう。もちろん海上に出たからといって、タイタニック号の時のように、凍りつく海の中では、凍死の危険性もあるだろう。しかしながら少なくとも先ずは溺死の危険性から可能な限り逃げる行動をするということだ。役所からのOBにて、出先機関で雇用延長されていると思われる人物が、その道のプロフェッショナルコメンテーターとして意見していたが、それでも尚、マニュアル遵守とプロからの指示まちとしかコメントせず、TV番組の中すら、保身主義コメントしている人には驚かさせられるばかりだ。

第5福竜丸と言えば、小生も詳細を知っているわけでないが、結びつくのが、ビキニ環礁でのアメリカが行った水爆実験場の本来退避しなければならないエリアにいながら、連絡が行きとどかず、被曝したことだ。当事者によると、このことは90日ですべて処理され、それ以降は問題として扱われなくなったとのこと。それゆえ、乗組員であり個人でこの事件を語り継いでいる人がいて、実際に何が行われたかを講演しているとのこと。機会あれば、講演を聞きにいきたいと思った。日米の間でブレーキがかけられた。母港は静岡県の焼津港だが、地元の焼津であっても、この事柄は風化していっている模様だ。日本の中で、原子力の危険性が論じられてても、スポットライトを当てられることもない。戦争の敗戦国として主張できぬことも多々あるのだろう。歴史にifはないが、ソ連が参戦する前に、1944年の年末あたりに降伏していれば、現在の世界秩序がすこしでも変わっているのだろうか?日本にも原爆が落とされることはなかったのか?もともとドイツへ落とすつもりが、ドイツ敗戦のため、目標が日本に向けられ、戦後のアメリカとソ連の力関係上、優位に出たいアメリカの思惑といったことが本来の目的で、原爆を落とさずとも日本の陥落は決定的なのは、誰の目からみても明らかだったとか。フランス、中国が戦勝国に何故はいるのかも理解しがたい。

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損害賠償、補償、保証

2014-04-21 | Weblog

東京大空襲。一面の焼野原。大阪でも空襲があった。広島、長崎。人が引き起こす極みの人災が戦争だ。もちろん小生は戦争そのものを知らない。何もかもなくした消失感。そこから当時の人々は這い上がった。政府や行政府もそれなりに被害を被っていただろうから、基本は自立という形で再建していった。そのように曽野綾子は綴っている。それに比し、地震という天災。TVで知ったのみであるが、倒壊家屋で住めない状況に関して、損害賠償があり、区画整理が入るということで、補償されることが話し合われ、さらには代替地まで手当てされないとおかしいと話がすすんでいる、こじれている様子もあるようだ。

3.11とは別に、以前、六ヶ所村周辺のニュースを知った。酪農というのは、365日休むことなく牛から搾乳しなければならず、酪農家は休みを取れないというのが前提としてある。それ以外にも動物ゆえ、糞の始末をして、かつ衛生性を保たなければならない。もちろん搾乳技術も日進月歩で、負担を軽減すべく新技術が裕福なところは導入している。その周辺エリアの酪農場は、日本でもっとも最新式の技術を導入できていると伝えていた。投資コストもかかるはずだが、原子力関連施設を受け入れている見返りのようだ。さらには、その町には、年収が1500万円を超える高額納税者・長者が多数いるとのこと。今は、各論反対をどこも唱えているが、もし東京23区のどこかで、1世帯あたり収入保証されますよ、という具体的な対案とともに声掛けされて住民の意思を確認したら、どのような結果になるのだろうか。例えば1世帯あたり、1000万円、500万など永久保証されますとなれば、話は違ってくるのだろう。確かに必要な用地の広さもあろうが、補てん対象の数も課題となってくるだろうし、自然と人口が少ないところとなるのであろうが。もっと堂々と、享受している具体的な内容を開示できないのであろうか。消費地が、さも何も負担していないという前提だろうが、保証が税金や電力料金などで、いずれにせよ賄われているのであろうから、何も負担していないことにはあてはまらないだろう。そこのところは推し量れというだけでは、片手落ちという気がするが、どうだろうか?

政治家さんが同じ過激発言するならば、このような領域に踏み込んだ発言をして、もっともっと国民、市民へ本当の実態の情報を提供してもらいところだ。マスコミ関係者も事実を伝えるというもっとも基本の役割、原点に立ち戻ってもらいたいものだ。

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自分探し 4/100

2014-04-16 | Weblog

新年度、新学期の季節で、小学生の背負うランドセルを見ると、洗練されているなと感じる。昔は、黒・赤しかなく、またピカピカの通り、つやがあるものがほとんどで、それが、だんだん褪せて年月を感じさせたものだが、最近のものは、はじめからつや消しのようなものも多く、デザインも平たくなっていたり、色のバリエーションや、ちょっとした飾りなどもあり、男の色、女の色と決めつけられなくなっている。自分だったら、どんな色・デザインを選ぶのか?昔は、30cm定規や、たて笛などを端に差し込んでいたものだ。そろばんをさす時期もあった。

自分自身は、20歳ごろから家を離れて、いわゆる一人暮らしを始めたものだから、大学卒業と同時に就職の勤務配置先もいきなり東京ということで、親と対等というか、大人の会話をする年になってから、まともに会話することもなく年月が過ぎていったものだから、自分の祖先や血縁・親戚、どうして今は存在しないところが、本籍になっているのかなど、詳しく、正しく理解しないまま、時間が過ぎてきてしまった。他の人たちは、こんなに無知なことはないのだろうと想像している。

母方の情報はほとんどなく、父方については、祖父は淡路島出身のようだ。そのため、毎年、父は夏休みに淡路島に連れて行った。淡路島が何県に所属するのかわからず、学校で答えられなかったことがトラウマになっている。淡路島は兵庫県、小豆島は香川県ということになる。淡路島ばかりで、二十四の瞳とオリーブで有名となった小豆島。一度は小豆島へ連れていってもらいたいと思っていたが、いかずじまい。何故か?それは、昔、父が女性と小豆島へ行ったらしく、母がそのことを何かにつけて話していたことが、小豆島を避ける原因だった。

祖父は長男でなかったために、実家、島を出て、どこかで生計を自ら立てないとだめで、大阪市内のチンチン電車を運転していたと聞いた。ガラガラと大きく回すハンドルで大けがを負ったらしく、それが原因でやめたらしい。その後の詳しいことはわからないが、木箱(みかん箱)を作る製材屋を始めた模様だ。大阪の、萩の茶屋というところで、決してガラのいいところではない。戦前、戦中、戦争直後などの映像などをみて、また自分のかすかな頭の隅の記憶と合わせて、みんなが同じ方向を向いて、さして違いのない境遇の中で、毎日を切り開いていったのだと想像している。

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米軍基地

2014-04-15 | Weblog

今から15年ぐらい前、2000年前後のことであるが、横田の米軍基地と、多摩にある米軍のゴルフ場へ行く機会があった。どちらも一歩、中に足を踏み入れれば、そこはもうUSAそのもの。通貨はドルが主要通貨だし、応対は英語となる。

特にゴルフ場は、確か、4段階か5段階に利用者の優先順位が決められており、小生のごとき普通日本人は最下位に位置付けられている。それは予約の段階から制約があり、一番驚いたのは、各ホール毎に、米軍人優先の表記があったと記憶している。そのため、さっささっさと後からラウンドしてくる米軍には打ちこまれるし、挙句の果てには、まるでそこをどけとばかりにティーグランドで、先に抜かされてしまう。この時ほど、この土地自体は日本の領土だし、思いやり予算は何の為と、正直、強い怒りを覚えた。もちろんたてまえは、米軍の施設に入らせていただいている立場ゆえ、侵入者はどちらだ?と言われれば、それまでだが。そのようなまるで、差別や格差をつけている組織が存在するということは、あまり知らされていないことだと思う。また、クラブハウスというか、コーヒーラウンジのような所では、モノクロの戦争映画ビデオを流しており、日本海軍機が、撃墜されるシーンなどを目にしたが、わざわざ戦争ビデオを放映しつづけるのに、どんな意味があるのかと思った。(日本で日本を叩くシーンの意味って何?)

集団的自衛権が取りざたされていて、日米基軸という言葉がよく出てくるが、現場では、こんなこともあるという一例なども知ってもらいたいものだ。

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自分探し 3/100

2014-04-14 | Weblog

かなりの人生を経て、自分の性格や考え方などが、親・家族の影響が大きかったと改めて気づかされる場面などがある。そういえば、自分がこのように考えるのは、あの頃、しきりにそのように教えられていたとかを思い出す。西側の玄関を入ると、あがりかまちがあり、すぐに南北の廊下がある。廊下の左端が階段で、階段横が和室(リビング用)というわけだ。おふくろが、よく口にしていたのが、どの部屋に行くにも、どこかの部屋を通らねばならず、部屋が分かれているといっても、それぞれが個室になっているわけでもないので、それが嫌だと何かにつけて口に出していたものだ。やはり、そのことをずっと耳にしていたものだから、自分も大人になって、部屋を見る時に、その辺りのところがどうなっているのかを知らず知らずのうちに気にしている自分に気づく。

自分が誕生した時には、父方は、祖父・祖母の2人が健在だったが、母方は、祖母のみであった。祖父は、ちょうど生まれる前年に亡くなったとのことで、その祖父の生まれ変わりと言い合っていたみたいだ。それゆえ、曾祖父や曾祖母というものは知らない。写真も見たことがない。ただし、祖父・祖母・祖母の3人は、すべて大阪市内にいたので、それほど、疎遠でもなかったし、日常の中で、会いに行っていた。やはり物理的というか地理的に遠方であれば、自然と疎遠になるし、まして子供単独で会いに行ける距離とそうでない距離がある。

その点、母方の祖母は、ほとんど1駅分の距離に住んでいたので、歩いていくことができていた。祖母も長屋暮らしだが、その前には、イチジクの木があり、実がなれば、取って食べていた。母は今で言う潔癖が強すぎるぐらいだったが、どうも祖母から、そのように叩きこまれたおうだ。母方は、聞いたところによると、元来は大阪でなく、三重県の四日市出身みたいだ。一度だけ、電車で、四日市へなんの用事かわからないが、出向いた記憶があるが、行ったというだけの記憶しかない。祖母は、母の姉(おば)と、姉の娘(いとこ)と一緒に暮らしていた。姉はわけあって離婚したとのことだった。姉(おば)の元ご主人は、宮崎県とつながりがあるように勝手に推測している。

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自分探し2/100

2014-04-12 | Weblog

前回の玄関からすぐの、いわゆる和室のリビング扱いの部屋は、和室だから当然、畳が敷き詰められている。毎年、夏場?夏になる間には、畳を1枚1枚上げて、DDTという白い殺虫剤の粉をまいていた。近所も似たようなことを行っていたと思う。畳を1枚ずつ、親父が独りで上げていくのだが、さぞ力もいるし、大変だったとは思うが、文句の一つも言わずにやっていた気がする。(今、考えれば、日常の中であっても、もくもくとやる、そういう時代だったのかなと感心する。)その畳を上げると、板が敷き詰められているのだが、通常は板が床の梁にあたる所に釘でうちつけられているのだが、まんなかあたりの10枚程度は、ただ置いてあるだけ。はがせる。はがすと、地面が見えてくるのだが、いわゆる防空壕だ。1年に一度ぐらいしか、そういう状態にならないから、その時とばかり、懐中電灯をもってもぐっていた。それなりの湿気もあり、決して居心地のいいものでもなかったと記憶している。畳を上げることは、自分の家だけで行えたが、さすがに畳の張り替えは、畳屋さんでないとできない。自分が記憶の限りでは、1回か、2回、畳の張り替えや、新調したことがあったと思う。新しい畳のほど、気持ちのいいものはなかった。緑色の色合いといい、ま新しい畳の香りがなんともいえなかった。

ほtんどすべての部屋の間仕切りというか、ドアは、襖(ふすま)で、ふすまの張り替えは、すべて親父がひとりで行っていた。ふすまをすべて外して、紙をはがし、桟を外して、のりづけして、新しい紙をかぶせる。シワを伸ばし、乾かす。畳を上げるのと同様、手間もかかるし、力も要る。手先もそれなりに器用でなくてはできない。広い家ではないのに、よくそんなことができたものだと素直に思う。今、自分の住まいでやろうと思っても、家の中に障害物が多く、外した襖をどうやって立て懸けておくのと考えてしまう。

西側の玄関を入って、すぐ前が、和室といったが、若干、斜め右前に、その部屋があり、玄関を入って正面左は、2階へ上る階段がある。会談を上がって、すぐ右に4畳半ぐらいの和室と、その西側に、6畳ぐらいの和室だった。いわゆる、1階のリビング和室の、真上にあたる。1階と2階を結ぶ階段には、手すりがなく、よく足を滑らせ落ちたらしい。しこたまお尻を打って、危なかったようで、ここにも自作の手すりを親父が取り付けた。赤茶色のニスを塗ってあったその絵が、妙にはっきりと記憶に残っている。自宅に電話が設置されるまでには、かなりの年数が経ってからのことになるのだが、それまでは、ずっと「呼び出し」欄に、近所の方で、電話設置をされている家の電話番号を、書かせていただくというものだ。その電話が、設置されたときの設置場所が、玄関を入ってすぐ斜め左の、階段下の、あがりかまち、の場所に、電話台を置き、その上に黒電話が置かれたものだから、階段の3段目や4段目に腰をかけて、長電話するという絵図柄、光景となるのだが、それは、ずっとずっと後のことだ。自分の生家の変わったところは、まだほtんどどの家にも、自家用車などないのに、車はあるものの、電話をいつまでもつけてもらえなかったことだ。学校関係などの書類に、さきいほどの呼び出し欄に、他人の電話番号を書かなければならない、ひけ目、すごくいやだった。正直、なんとなく電話コンプレックスを意識するしないはあるが、なんで電話がないの?という気持ちはあった。これだけ、このことを書くということも、その一端だと思う。

長屋、どこまでが、同じ大家さんの持ち物だったのかよく知らないが、北隣が、湯浅さんというような名前だったと思う。南隣は、伊藤さん、その南隣も伊藤さん。兄弟だったらしい。向かいの家は、土丸谷さん、1件とんで、南隣が、やはり伊藤さん。この3軒の伊藤さんは、すべて兄弟だったと記憶している。3人目の伊藤さんの南隣は、大前さんというお家だった。長屋の一番端の、家々の名前がよく覚えていない。向かいの家とは、舗装されていない土の道で、幅は、3メートルあるかないかだ。地面に穴を掘って、ビー玉で遊んだものだ。また、釘などで、土の上にいろいろな模様を書いて、石を投げて止まったところの指示に従う遊びや、関西では、ケンパと呼んでいた遊びをした。

 

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自分探し

2014-04-11 | Weblog

自分が生まれた家は、写真を見るかぎり、大阪市住吉区の東粉浜(ひがしこはま)の家になっているように思うが、聞いた話では、それ以前は、万代池の近くの旅館のような建物に両親や、父方の家族は住んでいたようだ。建物の所有者(オーナー、大家さん)同士が、東粉浜の家と交換したと聞いたが、東粉浜の建物は、2階建になってはいるものの、いわゆる長屋であり、万代池近くの旅館のような建物とは大きさ自体が違うし、大家さんとしては、その長屋全部と交換したのかもしれない。そのあたりの経緯は詳しく聞いたことないので、わからないままだ。

粉浜(こはま)というように、浜というぐらいだから、昔は海だったという話も聞いた。それゆえ、土の中から貝殻などが出てくるなどと教えられた記憶もあるような、ないような、はっきりしないが、とにかく一帯は、その昔は海だったということは、近所の人たちからも聞いていたような気がする。

西側に玄関があり、玄関を上がると、目の前が6畳ぐらいの畳の部屋(今で言う、リビング的に使っていたもので)、その東側が廊下で、さらに東側が庭になっていた。庭には小さな金魚が泳ぐ地面に掘った石の四角い、底の浅い水槽があった。夜店から持ちかえる金魚をいれても、水を変えたりしないから、すぐに死んでしまった。そのため、いつのまにか雨水の溜まりになっているだけだった。その庭の先は、わかりやすい言葉でいうなら、裏木戸で、そこからも出入りができた。裏木戸というと何か風情のある趣があるが、倒れかけの土壁とブリキの扉で、出入り口というより、むしろ出来るかぎりは使わないほうがいいといったボロボロだった。ただし、庭の南側に便所があり、くみ取り式だったから、何カ月に一度は、くみ取り屋が来て、その裏のブリキの戸口から、ホースが伸びてくる光景が記憶に残っている。小学校時分に、「奥さーん、満タンでっせー」という言葉を誰彼となく言い始めて、ひとつの流行り言葉のようになっていた。

 

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